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いじめられっこ母になる <2話>

お迎え時のぼっち


13時50分になると、息子を迎えに行くために家を出る。
これも、私のしんどいことの1つ。

息子が通っている幼稚園は、バス組の子たちが先にバスに乗り込む。

バスが出発次第、門の手前に一列に並んだ徒歩組、車組の子たちをそれぞれ親が門のとこまでお迎えに行く。

どこがしんどいのかというと、園バスが出発するまでの時間である。

待ち時間は日によって違う。幼稚園に着いたときに、すでにバスが出発している日はいいのだが、5分、長いときは10分待つ。

この待ち時間がわたしはしんどいのだ。

ぼっちが際立つ時間だから。



いくつかグループができているなかで、ぽつんと1人で待っているのは、なかなかにしんどい。
だからといって、朝、息子を送るときのように時間を早めにしてママ集団を避けることはできない。

すでに待っているママ集団から少し離れたところでバスが出発するのを待つ。

待っているママさんたちはそれぞれが2、3人、多いところは5人のグループになり盛り上がっている。

最初は挨拶をするべきかと、タイミングを伺った。

何度か息子を送るときに「おはようございます」と挨拶したことがあったが、目線も合わさずに「おはようございます」と返されたのが怖く感じてしまい、それから挨拶をためらうようになった。

知っている人には笑顔で挨拶を返すけれど、知らない人には挨拶を返してくれない人もいる。

多くの人は、仲の良い人たちで固まり、おしゃべりで盛り上がっている。
どうしても、集団で話している人たちに、自分の方から挨拶しようとはならなかった。

わたしには、固まって大きな声で話している人たちが、得体の知れない巨大ななにかに見えて、毎回、心臓が嫌な音の立て方をする。

なにがしんどいのか自分でもちゃんとは分からない。
なんとなく感じる視線なのか、ぼっちでいることがやっぱり寂しいのか、集団でいる女の人たちが怖いのか、いじめられていたときのことをフラッシュバックしてしまうことなのか。

もう十年以上前の出来事で、十年前の私でもないはず。

それなのに、どうしてあの頃の感情に引っ張られてしまうのだろう。

「強い母でありたい」

そう思って私は、いろんな本を読んだり、ネットを見たりした。
ときには、好きなアーティストの音楽を聴いて勇気をもらったりもした。


「輪の中に入りたくないなら入らなくてもいい」
「気の合う人とだけ話せばいい」
「人は人、自分は自分。比べた時点で負けてる」

その言葉たちは、私を奮い立たせてくれた。


けれど、しんどさや怖さは簡単には消えてくれない。

「1人が楽だってやっぱり思えない。かと言って輪の中に入りたいわけでもない」
「移動教室や帰り道、昼休み、お弁当の時間…………1人ぼっちだった学生のときと重なって、ぽつんと浮いているかんじがするのが辛い」
「ぼっちという状況を息子に見られたくない」
「チラチラ見てくる気がして怖い」

マイナスな感情が私を支配していく。

奮い立たせてくれる言葉たちを胸に、しっかりとした足取りでいけるときもあるけれど、そういうときばかりではない。

気付いたら、送り迎えのときのことを考えていて、しんどくなってしまう。

今だけ耐えればいいのかもしれない。

けれど、幼稚園の送り迎えは毎日ある。

できればやりたくない。
毎朝、びくびくしながら送り迎えをしたくない。
ぼっちな空間も耐えられない。

どうしたらこの憂鬱な現状から抜け出せるのだろう――――。

そんな私にある好機が訪れる。

おわりに

最後までお読みいただきありがとうございます。



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