見出し画像

離れて暮らすということ

日本を離れて15年。
コペンハーゲンで暮らして、年に1、2度、日本(京都の実家)に帰省するという生活をしている。

15年という歳月は、わたしが若かったころに過ごした街が、変化を重ね、その姿を大きく変えてしまうという時間であることを、ここ数年感じている。移住したての頃は、あの店がなくなったといった部分的な変化だったのだけれど、近年は、街の雰囲気が、もうわたしの知っている「その場所」ではなくなってきている。わたしの故郷は、もうわたしの心の中にしか残っていないのかもしれない。

地元で大好きな友人たちと、ともにテーブルを囲んだ。
大皿のおかずが次々と運ばれてくるテーブルの上で、彼女たちは自然と手を動かし、人数分の小皿におかずやサラダを取り分けていく。彼女たちの手の動きが自然で早すぎて、わたしは小皿を受け取ることしかできない。

デンマークの暮らしでも、大皿のおかずを大人数で分け合うことはある。でも、分けるときの様子が違うことにふと気づく。ここでは、おかずを取り分けた小皿ではなく、大皿がまわってきて、自分で、自分が食べる分を皿に取る。そして取り終わったら、大皿を隣の人に渡す。つまり、自分が取るのは自分の分だけ。男性でも女性でも、自分で取れる人は皆、自分の分だけを取る。

単なる習慣の違いといえばそれだけのことかもしれない。
でも、わたしにとっては、象徴的な違いだと感じた。

デンマークの取り分け方は「横に座っている人がどれだけそのおかずを食べたいかはわからない。だから、自分で自分の食べたい量を取るのが合理的」というもの。ここには、自分と他人は違うという前提がある。一人ひとりが「個」として違う。好みも、食べられる量も、食べたい量もちがう。だから、自分で取ってもらうしかない。

更に、この方法は、自分で自分のことがわかっていないとできない。今日は昼に食べ過ぎたからお肉は少なめにしようとか、サラダを多めに食べようとか、あらかじめ自分が自分の食事についてどうしたいか、という意思がないと、どれだけ取ったら良いのか迷う。子どもが、大好物のおかずをたくさん取りすぎて、結局お皿の上のものを食べきれなかったりするときがあるが、そういう経験を重ねて、少しずつ、自分の食べられる量を自分でわかっていく。「自分はどうしたいのか」をよく問われるこの社会で、こんな小さな食事のエピソードでさえ、その姿勢が問われている。あらかじめ取り分けられたおかずを完食することが礼儀の一つである日本に比べて、デンマークは、完食することや、子どもの好き嫌いについてあまりうるさく言わないのも、こういった食べ方があるからかもしれない。

                                                             *****

友人たちと笑いの絶えない時間を過ごしながら、もう一つ気づいたことがある。彼女たちの、周りの人々に自然と気遣いをしながら動き回る姿。同じようなことは、今回の帰省で、家族や友人だけでなく、たくさんの人々にも見受けられた。わたしにこの動きはできているのだろうか。いや、できていない気がする。「自分はどうしたいのか」と常に問われるこの社会で生きてきて、自分をどう持つか、どうしたいのか、その青写真を子どもの頃から持ってこなかったわたしは、大人になってから、日々ずっとそのことを迫られ、向き合ってきた。それに必死になってきた。一人の人間として、(ほぼ)制限なく自己表現できるこの地で、それは恵まれたことであると同時に、厳しいことでもあると感じている。人から手を差し伸べてもらう時ですら、自分から助けを求めなくてはならない。だからこそ、自分自身と常に向き合っていかなくてはならない。自由のある、自立。それを時に楽しみ、時に寂しく悩みながら生きてきた。そして、気が付くと、今回のように、日本の友人たちとの違いに愕然とする。同じ言葉を話し、共感する話題で一緒に笑ったりしんみりしたりするのに、身体化された気遣いが、15年という月日のなかで大きく違っていることに改めて気づく。

それはもしかしたら、日本で暮らす人々にとっては窮屈な習慣でしかないのかもしれない。暗黙の了解で求められる気遣いは、心から自発的にする行為ではないし、立場上、仕方なくやることも多いのかもしれない。わたしのように、遠いところで暮らし、たまにひょっこりやってくるから、特別に感じるだけなのかもしれない。でも、家族や友人たちからの温かい気遣いに心が温まることの多かった今回の滞在で、わたしは、離れていることは、むしろこんなふうに心が敏感になることでもあると気付いた。

離れて暮らすということ。
それは時に、心を引き裂かれるようにも感じられるけれど、離れた故郷での暮らしや生き方から、その良さを浮かび上がらせ、感じなおすことができることでもある。デンマークで暮らしているからこそ良く見えるだけなのかもしれない。距離を持って見直すから感じられる良さ、かもしれない。それはもしかしたら幻想?でもそれなら、幻想でもって、自分の家族や友人たちに感謝できることは、幸せなことかもしれない。

サポートいただけるととっても励みになります。いただいたサポートは、記事を書くためのリサーチ時に、お茶やお菓子代として使わせていただきます。ありがとうございます!