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「ミステリはやさしい」~『案山子の村の殺人』(楠谷 佑 (著))の感想文であり推薦文

<ミステリ初心者にお勧めするために書きます>

この文章は、ミステリ小説『案山子の村の殺人』(楠谷 佑 (著))
https://www.amazon.co.jp/案山子の村の殺人-ミステリ・フロンティア-楠谷-佑/dp/4488020232
の感想文であり、みなさんに一読をお勧めするために書いています。
書評なんぞという偉そうなものではないのですが、皆様が本書を手に取る一助になれば幸甚です。

本作は「ミステリファンにも、ミステリ初心者の一歩目にもお勧めの一冊」のうちのひとつです。
で、ミステリファンは私なんぞの推薦がなくても勝手にいい作品を見つけ出して読むでしょうから(ひどい)、この文章はいきおい、
「自分ミステリはあんまり読んでなかったんだけど、読んでみたいな~!」
という人に向けて書かせていただきます。

「ミステリって好きな人は好きだし、興味はあるんだけど、どれを読んだらいいのかな?」という方は、ぜひお手に取って読んでみてください。
なぜ初心者にもお勧めなのか? それは本作が、平易でハードルが低いからなどではありません(文章は整然としていて読みやすいですが)。
むしろ、「王道の論理的フーダニット」だからです。

ミステリには多様な魅力がありますが、
「論理による謎解き」と「フーダニット(誰が犯人か?)」
の妙味を味わってみてほしいのです。
なお私は、ミステリ読者としては「中級者寄りの初心者」くらいだと思います。
初心者が初心者にお勧め。これは説得力がありますね!(?)

では、以下にその魅力をば。
極力ネタバレは避けますが、気になる方はもう先に本を入手してください(おい)。

<あらすじ>

あらすじはこうです。

関東のとある山中に、「宵待村」という村がある。
「楠谷 佑(くすたに・たすく)」というPNで推理小説家として活躍しているいとこ同士の大学生、宇月理久と篠倉真舟。
二人はある事情から、宵待村を訪れた。
そこに住まう、何人かの村人との出会い。少しずつ語られる彼らの事情と、閉じた村の人間関係。
雪深い山村で起きた、奇妙な出来事。
村に出没するという悪質なハンターのうわさ。
半お忍びのように訪れたとある有名人なども加わり、主人公たちが一抹の気味悪さを覚えながら過ごしていると、ついに殺人事件が発生する。
だがその殺人は、あまりに奇妙な様相を呈していた。
雪に包まれた「足跡なき殺人」による、クロスボウの矢が眉間に突き立った死体。
飛び道具なら、「雪に足跡が残らない殺人」は可能だろうか?
だが、クロスボウの発射元と思われる方向にあったのは……

一種の「不可能犯罪」はなぜ出現したのか。
雪の密室はなぜ作られ、犯人の意図はなんだったのか。
ハウダニット(どうやったのか)が大きな謎として現れつつも、いくつもの物的・状況的要素と村人それぞれのアリバイが確かめられる中、犯人を割り出すすべての手がかりがやがてそろう。
はたして、犯人は誰なのか!? フーダニット!!

……というもの。
ミステリでありタイトルにも「殺人」とあるように、これは殺人事件の犯人あての小説です。
それを承知で、謎を暴いてやるぞと息巻く読者の前でこのミステリを彩るのは、意味ありげに現出する土地の方言、意味ありげな所作、意味ありげな服装、意味ありげな……
とにかく、すべてが意味ありげであやしい記述の数々!
私はまんまとミスリードにやられました!あの、後半での宿の入り口でのアレそうですよね!?(ギリギリの書き方)
ぜひみなさんも、研ぎ澄まされた思考とロジックによる犯人当てを楽しんでください!

<「ミステリはやさしい」のだ>

さて、この文章のタイトルである「ミステリはやさしい」とはどういうことか。
このやさしいは、易しいではなく、優しいのほうです。
なんとなく、ミステリって小難しくてかたっ苦しくて、閉鎖的なイメージはないですか?

それは誤解なのです。
ミステリ小説がこの世に生まれて幾星霜、いまだに新作が作られ続けているこのジャンルには、ミステリだけの魅力があります。
それはずばり、「謎が説かれるときの半端ないカタルシス」
これは、ミステリでしか味わうことのできない、唯一無二の脳体験です。

本来、謎というのは、自力で解かなくてはなんの達成感もすがすがしさも得られません。
答えだけが提示されても、「ふーん」で済まされてしまうものです。
しかし、ミステリは大丈夫。
特に王道ミステリ作品というのは、名探偵が、不意打ちでもなければ超能力でもなく、提示された条件をもとに理路整然と謎を解き、このカタルシスを読者にもたらしてくれるのです。
これがミステリの「やさしさ」です。

どんなに難しい謎も、こんがらがった紐も、名探偵が必ず解きほぐしてくれるのです。
「いや~、でも自分で謎は解きたいよ~」という諸兄もおられるでしょう。
大丈夫。
そんな時は、本を一度置き、じっくり推理することが可能です。
作中の探偵はたいてい時間に追われ、タイムリミット前に謎を解くことが宿命となります。
しかし読者は、自分が納得するまでしっかり考え、悩むことができるのです。

「自由」、それがミステリの与えてくれるやさしさです。名探偵の謎解きに伴走して膝を打つもよし、己が名探偵となるもよしなのです。
『案山子の村の殺人』では、いとこの片方、理久の一人称で話が進みます。彼はいわゆるワトソン役で、名探偵はもう一人の真舟が務めます。
読者一人一人が自分なりの読み方で、真舟が解き明かす真相を味わってみてください。
私の場合は、「こんなん、いつでも誰でもできちゃうよな~」と思っていたある「作業」が、実はごく限られたタイミングでごく限られた人物にしか不可能だったと分かった時、最高にカタルシスりました。
ま、真舟すげえ~! と感動してしまいましたよ、ええ。

なお本作――というか楠谷佑(登場人物ではなく作者さんのほう)作品の特徴として、個人的に、
「『謎』の糸のこんがらがりぶりに対して、謎解きに費やされる文章量が思ってたよりだいぶ短め」
というのがあると思っています。
これは、謎が大したことじゃないとかあっさりしすぎているとかではなくて、実に理路整然と、無駄なく分かりやすく説明されているということなのです。
ミステリで一番しんどいのは、「解決篇での説明が、いまいちわかりにくくてピンとこない」ですからね……。
全体的に筆力の高い作者さんなのですが、特に解決篇がわかりやすいのは大変ありがたいです!

<やさしさ、もうひとつ>

さて、もうひとつミステリのやさしさの話。
ミステリはよく、「一度読んで真相を知ったら終わり」と揶揄されることがあります。
つまり謎解きこそがキモであるというジャンルの宿命上、再読の楽しみが激減する、というものですね。
それは明確に否である、ということを本書は教えてくれます。
一度読み終わったら、ぜひ、二度三度と読み直してもらいたいです。
あの時のコレはこういうことだったのか、あれはそういうことだったのか、と改めて首肯してしまうパーツが『案山子の村の殺人』の作中にいくつもちりばめられています。
読むたびに味が変わるのです。
これはやさしい。

ほかのジャンルに対して、ミステリに再読の楽しみがないなどということはないことが、本作を読むとよく分るでしょう。

<私にとってのミステリの魅力と、楠谷佑作品>

実は私は、ミステリというものには、長らくハウダニットだけを求めていました。
というより、ミステリとはハウダニット――奇想天外なトリック、思いもよらない殺害アイディア――を楽しむものだと無意識に思っていました。
ハウダニットとかフーダニットなんて言葉も知らず、「その殺人はいかにしてなされたのか?」だけがミステリの妙味だと思い込んでいたのです。

これは、読書量が大して多くない(年に1~2冊くらいでしょうか)のに、ハウダニットものの名作に連続して出会ったせいかもしれません。
そんな私は、純粋に犯人あて(フーダニット)を追求した作品を、どこか「地味だ」と感じていた気がします。

そんな私の蒙(もう)を啓(ひら)いたのが、実はほかならぬ楠谷佑作品でした。
恥ずかしながら、私は楠谷佑作品を追う中で、人生で初めて、ミステリにおける「論理」という言葉を意識したのです。
……これは、クイーンから連なるミステリの歴史に触れたことがある人にとっては、基本中の基本であり、王道らしいのですが……。

なお簡単に言うと、ミステリにおける「論理」というのは、
「Aさんは炎恐怖症だから暖炉に火をつけられない。Bさんはその時灯油まみれだったから火に近づくわけがない。暖炉に火をつけることができたのはCさんだけだ」
みたいな、文字通り論理的な事態解明のことです。

そういえば、有栖川有栖作品で、「論理」っていう言葉を見かけたことがある気がするな? と思った私は、それまでに読んで「ちょっと地味かな」という感想を抱いた作品を、いくつか読み直しました。
それらは、ミステリ界では評価が高いのに、私の中ではあまり感銘を受けなかった作品群でした。
そして、同時に、フーダニットの名作群でもあったのです。
再読したフーダニットミステリの面白さは、トリックの面白さだけを追い求めていた一度目とは、格段に違うものでした。
それまで「ボクはちょっぴりミステリに詳しいんだあ」などと思っていた自分が恥ずかしくなったほどです。

しかしそのような私にも、ミステリ小説は往年の名作も新鋭の新作も惜しみなく「謎解きカタルシス」を与えてくれました。
ミステリってやさしい!

なお、上記のように恥じ入った私の胸に、期せずして『案山子の村の殺人』の中の理久の言葉が染み入ってきました。
理久もかつては機械的トリックに魅了された時期があるらしく、「どうしてあそこまで機械的トリックに夢中になったんだろう」みたいなことをぽろっと独白するのです。
理久は私などと違い、大学生にして立派な職業ミステリ作家です。
で、でもそんな人でもあるもんなんだね~そいういうこと! そういう時期ってあるもんだよね~! と言いたくなりましたよね。

ほーら、ミステリってこんなところでもやさしい!(違)

<読者として勝手に思うやさしさ>

最後にひとつ、読者の勝手として、思ったこと。
名探偵は確かに作中の謎を解いてくれますが、もちろん、名探偵にもわからないことがたくさんあります。
犯人や被害者が、あの時なぜそうしたのか? あんなことをしたのか?
これらは、犯人の独白として語られることもありますが、それがすべてだとは限りません(もっといえば、真実とも限りません)。それぞれの人生の、ほんの一端ですからね。
読者が自由に想像して、思考して、信じる余地が無限にあるのです。やさしいですねえ~(もういいって?)。

私は本作において、ひとつだけ、理久に「こうだったんじゃないかな」と言いたくなるシーンがありました。
場合によってはこれはネタバレととられるかもなので、気になる人は(以下略)。
まあ、起きていること自体は序盤で語られていることなので、気にしなくてもいいのかもですが、一応。

最初の被害者について。
彼はなぜ、あそこにいたのか?
理久はこれに、いくつかの「たとえば」を提示しています。
そこに加わっていてほしかった、ひとつの「たとえば」。
それは、「彼は一人で静かに参りたくて、あそこに行ったのかもしれない」というもの。
外的な要因ではなくて、彼がそうしたくて、そうすべきだと思って、あそこにある「アレ」を参ろうとした。
実は、あの時が特別だったのではなくて、定期的に、人知れず。彼の、知られざる一端に、そんなところがあったかもしれない。
そんな可能性を胸に抱いて、私は『案山子の村の殺人』を読了しました。

思いがけず長くなりましたが、本作の魅力は私がうだうだと言ってきたあれこれではなく(えっ!?)、
「読者にも登場人物にも提示された材料と条件」
「それによってたどり着かれる真相」

の面白さです。
ぜひ良質なミステリで、ほかにない脳的カタルシスを楽しんでください!!

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