■キッシンジャーを偲ぶ、コルダ・メイア元イスラエル首相についても

■キッシンジャーを偲ぶ、コルダ・メイア元イスラエル首相についても
ああ、あのヘンリー・キッシンジャー氏が100才で逝去。ご冥福を祈ります。第四次中東戦争の戦後処理における彼の業績は人類にとって偉大です。もちろん、ソ連とアメリカの緊張緩和(核軍縮)なども。
“In Israel, we read from right to left. [To Henry Kissinger, US Secretary of State, who had written her that he considers himself 'an American first, Secretary of State second, and a Jew third']” ― Golda Meir
この逸話は有名。ハマスの大虐殺は第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)から50年の「記念日」(ユダヤ教の贖罪日)になされましたが、その第四次中東戦争での停戦交渉において、キッシンジャーはエジプトとシリア、その両国を軍事援助してそそのかしたソ連、イスラエルを幾度も行き来しました、その過程でのエピソードです。

キッシンジャーはゴルダに私は第一にアメリカ人、次ぎに国務長官、3番目にユダヤ人と。ゴルダはヘブライ語は右から左に読むと指摘して、あなたは第一にユダヤ人であってほしいと願った。もちろん、キッシンジャーはユダヤ人でしたが、イスラエル(ユダヤ)寄りということはまったくありませんでした。キッシンジャー氏の幸運は当時のアメリカは人類の理想を追求する姿勢を有していたことであり、そのアメリカの国務長官として存分に人類全体のために仕事できたことだったと思います。ニクソン大統領にはいろいろと欠点がありましたが、それでもあの頃のアメリカは守銭奴企業群の奴隷では決してなく、自由と民主主義の敵・ソ連と話し合うことで、最悪の事態を避け、ソ連がまともな外交政策を取ることようになることに尽力しました。それはかなり成功したのでした。

本日の the New York Times の記事です。
Henry Kissinger Is Dead at 100; Shaped Nation’s Cold War History https://www.nytimes.com/2023/11/29/us/henry-kissinger-dead.html

学者にして外交官、ヘンリー・キッシンジャーはジョージ・F・ケナンに匹敵する史上希な偉大な外交官でした。彼はケナンと同様に、アメリカ・NATOによるロシア敵対政策に明確に反対して、警告してました。キッシンジャーはトランプ政権からバイデン政権にいたるアメリカの対中国敵視政策も問題視。現在の国務長官が彼並ならばと思わなくありませんが・・・

balance of power という昔ながらの勢力の均衡こそが外交政策の基本であるべき
キッシンジャーは balance of power の構築・維持を重視しました。国と国との関係においては、個人間と異なり、友情も愛情もありません。物理的力の均衡、そして様々な約束の網の構築により、最悪(戦争)を防ぐ、すくなくとも諸国の対立悪化をできるだけ抑止することが外交の基本だと彼は看破してました。

平和そのものを目指すことは美しいのですが、直接に目指すことが成功する公算はごくごく小さいわけで、かろうじてなんとか勢力の均衡を構築して、実現可能な非戦争状態の維持をする。現実的かつ実効的なやりかただと思います。今でもです。

本稿はキッシンジャー氏を偲ぶのではありますが、実の所、ゴルダ・メイア、第四次中東戦争の振り返りも主題。

私が尊敬×愛情の総和で最も高く評価する政治家は誰か? イスラエルの第4代首相の Golda Meir (日本語ではゴルダ・メイア、ゴルダ・メイル、ゴルダ・メイールと表記。これまで唯一の女性首相)です。
 ※二番目はベングリオン(イスラエル初代首相)、
  3番目はメナヘム・ベギン(第6大イスラエル首相、
  ベングリオンとは長年の政敵なるも、PLOのアラファト
  とのキャンプ・デイビット合意実現)。

▼第四次中東戦争
エジプトのサダト大統領が綿密に計画してシリアと共にイスラエルへの先制攻撃に成功したのが1973/10/5からの第四次中東戦争(ヨム・キプール/Yom Kippur 戦争/War)。ヘブライ語で Yom は日 day、Kippur は贖罪。聖なる贖罪日(安息日でもあるのでユダヤ人は休息)こそ先制攻撃の好機でした。ソ連がエジプトに莫大な軍事援助してきたからこそ可能だったことは言うまでもありません。

そもそも、イスラエルは第三次中東戦争までの勝利に慢心してました。その時の首相がゴルダ。彼女の伝記を購入して読んだのは40年ほど前。回想録はアマゾンだと4500円以上の高額ですが、今回のことは別としても読む価値はあると思いますので推奨します。

ハマスが2023/10/7に攻撃すると決めたのは二年前だと報道されており、おそらく本当だと思われます。ヨム・キプールが今年10/7。サダト大統領のエジプト and シリアの宣戦布告無き先制攻撃は50年前の Yom Kippur の時。ハマスとイラン等はその日を二年以上前から選択してて、今回の戦争を開始したのだと考えられます。ちょうど50年だからなのでしょう。

第四次中東戦争は、結果としてイスラエル優勢での停戦。アメリカ(とソ連)の圧力があってのしぶしぶの停戦というのがイスラエル人の主観ではありました。もしもキッシンジャーが国務長官でなかったら、あの戦争の終結はイスラエルに「ずっと有利」だったとしても、その後しばらくの非戦争期間はもっともっと短くなっていたと思います。もしも、キッシンジャー氏がこの世界にいなかったら、アラブとイスラエルの戦争が50年以上も無しということは決してなかったでしょう。

私の力量ではキッシンジャーによる第四次中東戦争の戦後処理の適切さをうまく伝えることがとてもできませんが、できる限り解説します。

キッシンジャーはソ連・アラブ諸国とイスラエルとの間を幾度も往復するシャトル外交を行いました。彼は特にエジプトのサダト大統領の顔を立てることで、言い換えるとアラブ側の面子もたて、戦闘で圧倒的に優位になっいてたイスラエルには大きな不満を残すことにより、その後の安定をもたらしました。

イスラエルはエジプト第3軍を包囲し、殲滅することが軍事的に容易でしたが、キッシンジャーはそれをするとエジプト・アラブの面子が完全につぶれてしまい、停戦条約が締結できたとしても、不安定なままになるとみなしました。あれこれとやりとりがあり、第3軍殲滅はなされなく、領土についてもイスラエルが大いに妥協して事は収まりました。その後、エジプトとイスラエルが平和条約締結。更に又、その後、アラブ諸国はイスラエルを戦争で消す事を目指すと公言しなくなりました。アラブでないイランだけが、今日に至るまでイスラエル殲滅を国是としてます。

中東の非戦争状態が50年以上も維持されています。今回のハマスとイスラエル戦争は国際法的には「戦争」でないことは強調しておきます。反ユダヤ主義テロリストによる主権国家の国民大虐殺が発端であり、イスラエルは民間人テロリストの殲滅を目指して自衛権を行使しているのみ。もちろん、イスラエルのやり過ぎを私は断固として非難はしますけども。

キッシンジャーによる balance of power 構築が今日まで生きているからこそ、今回のハマス・イスラエル「戦争」に直面しているアラブ諸国には参戦する気配が全くないし、エジプトとイスラエルはテロリスト・ハマスが支配するガザに関しては厳しく統制し続けてます。ハマスなるテロリストがガザを支配するからこそ、ガザがイスラエルとエジプトにより統御されてきたのであり、ハマスが武力でガザ支配をすることがなかったら、ガザ住民は平和に豊かに生きることができていたはずです。ハマスなる反ユダヤ主義テロリストこそが、ガザ人にとって迫害者です。ハマスはガザの民間人は難民だと理屈で、医療・教育などは国連機関と諸国の資金援助に丸投げしてます。ハマスが地下都市に民間人を避難させない理由は「難民を保護するのは国連の責任」であり、トンネルと地下都市はハマスの戦闘員が待避するためのものだと公言してます。

ゴルダ・メイアの回想録からキッシンジャーについて引用します。
``中東で際立った人物はサダトでもファイサル王でもメイアでもなかった。アメリカの国務長官、ヘンリー・キッシンジャー博士だった。彼の中東における平和のための尽力は、超人的としか形容できない''
``彼の天賦の知性と無限ともいうべき根気と忍耐にはいつも敬意を払った''

第四次中東戦争の六年後、1979年、カーター大統領の仲介で、エジプトとイスラエルは平和条約に調印し、今に至るもエジプトとイスラエルは正常な関係を維持しています。当時のイスラエル首相、メナヘム・ベギンはキャンプ・デイビットにサダト大統領と共に丸丸13日間閉じこめられてました。キッシンジャーがゴルダ・メイアをなだめて、サダトの顔を立てたことなくして、そんなことはあり得なかったと断言できます。そもそも、メナヘム・ベギンは左翼・社会主義者のゴルダとは正反対の右翼ナショナリスト(アラブ人嫌い、アラブとの平和共存など求めない)なのにエジプトとは手を握りました。もちろん、エジプト人はアラブ人ではなく、エジプト人はアラブ人よりは理性的だからそうなったのではありましょうが。

ベギンはその頃を回想してまるで囚人だっと書いてました。ベギンの回想録【反乱 反英レジスタンスの記録】はとてもとても面白く、生きるために多いに参考になります(最近、3度目の読了)ので、是非ともお読みください。ソ連のNKVD(帝制ロシアのオフラーナの如き、特務機関/秘密警察)により拷問されても「自白」しなかった→強制収容所にて奴隷労働→国籍はポーランドだったので、ソ連・ポーランドの協定により収容所から釈放→ユダヤ人をポーランドから追い出したい同政府の政策によりベギンは同国の軍人となり、同国はベギンらをパレスチナに派遣→ベギンはパレスチナに到着して自由行動開始→アラブ人の攻撃に対応するための自衛軍に参加→英国によるユダヤ人移民制限に反対して英国軍に対するテロ活動開始→ベングリオンの「現実主義」つまり英国委任統治政府に対する武装闘争反対を拒否→第二次大戦終了直前にベングリオン勢力とベギン勢力の決定的な対決開始→戦争終了後、英国の委任統治政府を武力で追い出すこと、アラブ人のテロから守るために、ということで合意して、ベングリオンの軍隊とベギンの軍隊が統合→独立宣言後のアラブ連合国の侵略を跳ね返した・・・

話しが飛びました。キッシンジャーによる業績に関連する話に戻ります。

ハマスの母体はイスラエルとの平和を実現したサダト大統領を殺したテロリスト組織
エジプトとイスラエルの平和条約調印(1979年)の後、1981年にサダト大統領が暗殺されました。犯人はムスリム同胞団のメンバーであり、その民間団体のガザ支部がハマスの母体です。イスラエル国殲滅、反ユダヤ主義のイスラム過激派はヒトラーを礼賛していることでも悪名高し。カザで学校等を運営している国連機関 UNRWA の教師の少なからずはハマスのシンパないしはその要員であり、なんと生徒に対してヒトラーを礼賛する宣伝をしている者が1人以上おります。

サダト大統領は殺害されましたが、後継のムバラク大統領はイスラエルとの平和共存路線を国民のために必要だとみなして継続しており、イスラム同胞団のごとき反ユダヤ主義団体を今日にいたるまで徹底的に統御してます。キッシンジャーによる balance of power はエジプトとイスラエルの間に生き続けているのです。戦力(勢力)の均衡が維持されている期間が長くなるにつれて、両国が経済・外交関係を維持することが両国民にとって有益だという現実が明らかだからなのです。

以上、キッシンジャーによる偉大な業績についてですが、良い足りないのでもう少しまとめ的に語りましょう。

1973年の第一次中東戦争以後、50年以上もイスラエルとイスラム諸国の間に戦争がないことはキッシンジャー氏なくしてはあり得なかったと思います。50年以上にわたる非戦争状態が継続したからこそ、アブラハム合意というイスラエルといくつかのアラブ諸国との国交正常化が実現したのであり、イスラムの道義的盟主とみなされるサウジアラビアとイスラエルの国交樹立が現実化しそうになりました。エジプト以外のイスラム諸国の指導層`も'現実主義・世俗的であり、イスラム教の理念(地球人全体のイスラム化のため戦争すべし)なぞ歯牙にかけてませんが、それでも民衆には広く反ユダヤ主義が存在しているので、キッシンジャーによる非戦争状態50年の実現なくしては、大衆の激増に引きずられて第五次中東戦争が始まっていた公算は小さくないと思います。その戦争において、イスラエルが生存の危機に陥っていたなら、イスラエルは核兵器を使用していたことを疑いません。核兵器使用をとどまらせるために、アメリカが参戦していたら、イスラエルは勝利していたでしょうが、アラブ・イスラム諸国民及びイスラエル国民の死傷者は莫大。

ハマスとイランのごときイスラエル国を殲滅することを目的とする民間組織と国からすると、イスラム諸国連合の正規軍が対イスラエル戦争をすることなくして実現不可能なことは子供でもわかります。今回、ハマスとイランはそうなることを期待しているのでしょうが、そんなことにはなるずないのは、第四次中東戦争の戦後処理を超人的な能力・努力で行ったヘンリー・キッシンジャーのおかげだと思います。サダト大統領、ゴルダ・メイア首相というめったにない偉大な政治家がいたからこそでもありますが、両人だけなら50年以上も非戦争が継続することは決してなかったと思います。
キッシンジャーの著作、YEARS OF UPHEAVAL (激動の時代:1982年)は1283ページもありますが、とてもとてもおすすめです。どうも日本語訳はないよう? 日本語訳だと『外交』は手に入りますので是非とも。サダト大統領を私は尊敬してます。自伝は In Search of Identity。これは日本語訳ありのようです。

YEARS OF UPHEAVAL の769pより引用
``He(Sadat) asked whether I thought Golda was strong enough to make peace - a good question, since he knew peace would not be made by an affable Israeli leader but by a strong one. I said that if strength was the prime requirement , Gold was his man. ''

ヘンリー・キッシンジャーに感謝し、ご冥福を祈り、ゴルダ・メイア、アンワル・アル・サダトに感謝し偲んでいる次第です。

以下は、補足。

▼第一次中東戦争はアラブ諸国による侵略戦争
そもそものことですか、イスラエル国独立宣言の1948/5/14直後にレバノン、シリア、トランスヨルダン、イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国はイスラエルに宣戦布告し、第一次中東戦争が始まりました。国連憲章に明白に違反する侵略戦争です。

▼アラブ諸国はパレスチナとイスラエルの二国創設提案(国際連盟、そして国連)を拒否
その前、1937年に国際連盟のピール委員会はユダヤ: アラブの領土を 2:8 くらいでの両民族の国独立を提案しました。ユダヤ代表は渋々受諾、しかしアラブ人代表は討議するとことすらなく拒否

1947年、国連はアラブ:ユダヤの領土がほぼ1:1での分割決議を採択(エルサレムは国際管理)。またまたアラブ側は討議することなく拒否し、ユダヤは同意。イスラエル独立宣言後の戦争でアラブ連合国は敗北し、イスラエルの領土は分割案より拡大。なんと、パレスチナ人の領土を分割決議案おける半分ずつとアラブ諸国は戦争に負けたのに主張しました。論外です。半々の国連決議を拒否したのに、戦争で負けた後に半分に戻すという主張をイスラエルはもちろん、国連として認めるはずなし。その戦争において、北アフリカから中東のユダヤ人60万人ほどがイスラエルに逃げ、ほぼ同数のアラブ人がパレスチナから逃避しました。人口交換です。アラブ諸国は逃避した同胞アラブ人に国籍を与えることなく難民扱い、ヨルダンだけが例外、今でも。イスラエルは難民に対して直ちに市民権を与えました。詳細につては次の段で述べます。

その後の経緯については涙がでるほど悲惨です。アラブ人は中東に広く住んでる人々であり、そもそもパレスチナ人という民族は存在してませんでした。アラブ人・イスラム教徒は民族的にも宗教的にも兄弟姉妹であり、たまたま国によりわかれてても同胞意識を持ってました。ところが、イスラエル独立宣言後にアラブ諸国か戦争に必ず勝つと確信して戦争開始、その過程で、連合国はパレスチナのアラブ人に一時退避を求めました。当然のことながら、パレスチナの民間アラブ人は全力で逃げました、戦勝後はもどることができると信じていたから。ただし、ベギン勢力はアラブ人のディール・ヤシン村の人々数百人を意図的か否かにかかわず大量殺戮。そのことはまたたく間にアラブの村々に伝わり(アラブ連盟が大宣前)、逃亡する人数が増えました。

アラブ連盟諸国はイスラエルの殲滅を目指し、必ず勝利すると確信してたからこそ、パレスチナのアラブ人に退避を勧告し、不幸なことにイスラエルの軍事組織の一部がアラブ人虐殺をしました。結果はナクバという70万人以上のパレスチナのアラブ人の離散。極めて重大なことは、中東から北アフリカに二千年前から住んでいたユダヤ人に対する迫害が決定的に強まったこと。イスラム圏諸国のユダヤ人はデヒミという蔑称でさげすまされ、「犬を殺したら損害賠償、ユダヤ人殺害は賠償なし」でした。つまるところ、北アフリカから中東に二千年くらい固まって住んでいたユダヤ人への迫害が激烈となり、60万人ほどがイスラエルになんとか逃げたのです。アラブは70万人が追い出されたと主張してますし、ユダヤは60万人がイスラム・アラブ諸国から逃げてきたとしてますが、現実を表現すると「人口交換」なのです。

パレスチナから「一時避難」あるいは「追い出された」パレスチナ・アラブ人に対して、アラブ諸国のうちヨルダン王国だけが市民権を与え、他の諸国は市民権を付与しなかったのです。ヨルダン以外のアラブ諸国は近いうちにイスラエルを消す事ができるから、パレスチナ・アラブ人は難民として扱う、市民権は付与しなくていいと考えたのです。ところがイスラエルを消すことが二十年後にもできなかった。しかしながら、アラブ諸国は同胞のパレスチナ・アラブ人に対して市民権付与は断固としてしなかったし、パレスチナ・アラブ人もそのことを求めなかった。イスラエル消滅のためには、パレスチナ・アラブ人がずっと難民として苦しむことが必要だからです

繰り返します。イスラエルは60万人くらいのアラブ・イスラム諸国からの避難民に対して直ちに市民権を与えました。同胞だから当然のこと。しかし、アラブ人の諸国は同胞であるパレスチナ・アラブ人に市民権を今にいたるも与えません。その結果、もともと無かった「パレスチナ民族」が形成されたのです。私はこのような歴史を知るので「パレスチナ民族」の存在を完全に認め、パレスチナ国の独立はイスラエル国民にとって必須だと主張してきました。ただし、解決はパレスチナ・アラブ人とユダヤ人による一国形成(連邦 confederation)だと思うに至ってます。これについては、facebookで少し触れましたが、後日に詳しく解説するつもりです。
参考 : - 連邦案 TWO STATES, ONE HOMELAND AN OPEN LAND FOR ALL https://www.alandforall.org/english/?d=ltr

以上。


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