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鎮魂の雨 l 青ブラ文学部

 小雨のなかでバイクを停めた。
 佐賀城本丸歴史観を訪問した。 
 春先に《江藤新平没後150年特別展》が開催されていて、偶然にもソロソロ彼の出番を構想していたタイミングだった。

 江藤新平。
 不憫な人物である。
 歴史において彼の活躍した時期は、ほぼ3年余りと極端に短い。その間に並みの元勲では追いつけないほどの濃密な業績を上げている。
 まずは東京遷都を進言したひとりでもある。
 そして廃藩置県後に文部大輔につき、四民平等と学制の法務体系を整える。学制についての近代化政策の基本方針はわずか17日間で纏めたという。
 次に彼は若干38歳にて初代司法卿という、現在でいえば法務大臣を拝命する。だがそのポストに就いたのは一年半余りでしかない。
 その間に彼は司法の独立性を果たし、三権分立を成立させた。この三権分立がキチンと成立している近代国家は稀である。

 大津事件というものがある。
 ロシア皇太子が日本に親善訪問している際に、警護をするべき警察官が彼に斬りつけて大怪我を負わせるという事件があった。皇太子は後にニコライ二世皇帝となって日露戦争を主導する。
 当時の日本は強国ロシアに怯えていた。外交的に不穏な情勢を鑑み、明治政府はその犯人を極刑に処すように画策をしていた。
 しかしながら司法の独立性において、犯人は死刑を免れ、無刑期刑となっている。あくまでも司法は傷害罪としての審議を貫いた。
 却って死刑を誘導していた当時の外務大臣、内務大臣、司法大臣が引責辞任している。
 それは逆に日本国家が法治国家であるとの宣言でもある。
 三権分立が機能したのは、江藤新平がナポレオン法典の刑法を速訳して、その法律文を理解したうえで、大日本に必要な法文の取捨選択を行ったからでもある。

 しかしながら彼は、征韓論において下野した西郷隆盛に続き佐賀へと戻る。彼の帰郷は誰もが引き留めたものの、彼自身は暴徒となりつつあった佐賀藩士の説得ができるとみていたらしい。
 そこを大久保利通につけこまれた。
 挑発に乗った佐賀藩士は斃れ、政府軍の銃火に乱は収まる。
 本人の意思とは違えながらも、江藤新平は佐賀の乱の首謀者と目され、追捕の手が迫る。一転して叛逆者とされた彼は、仲裁を西郷隆盛に恃むが断られる。さらに逃亡の果てに高知において捕縛される。
 彼を追い詰めたのは、彼自身が整備した写真手配制度と捜査網である。しかも初めての逮捕適用者でもある。
 捕縛された彼は佐賀裁判所において、僅か3日間の取り調べを受けて、死刑判決が下る。その執行が行われたのはその4日後でしかない。
 享年40歳。
 そして彼はその首を梟首された。
 斬首された首が即日に晒された。
 明治の元勲においてここまでの屈辱はない。現在でもGoogle先生に尋ねたらその画像が現われる。ちょっと厳しい画像なので、ここでは控えますが。
 彼の整備した三権分立は、彼自身を護ることはなかった。
 明治初期がまだ文明国ではないということの証左である。
 これはもう大久保利通の差配だと窺い知ることができる。
 大久保が彼の才を惧れ、憎んだということに他ならない。
 
 私は今のところ、「長崎異聞」という異世界長崎を書いていますが、その劇中でこれらの不遇な死を遂げた元勲たちが生存していて、どんな未来を切り進んでいくかを考えているのです。
 僅かなりとも、彼らの鎮魂になれば。
 そう祈っているのです。

江藤新平

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