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風花の舞姫 破魔矢 15

 父は心肺停止状態だった、という。
 文姉に服を貸して事情を聴きながら屋外へ出ると、横たわったままの父の異変を見て、足が凍りついた。
 甘利助教は片膝をつき父の呼吸を確認していたが、続いてオレンジ色のAED一次救命装置のカバーを開いた。
 それは社務所の入り口に設置してあったものだ。
 助教は父のジャージの前をたくし上げた。父の和紙のような肌色に総毛だって、次には腰からその場にへたり込んでしまった。
 魍魎に逃げられたのではなくて、彼の肉体が憑依に耐えられなかったのだと知った。
「救急車を呼んでくれ」
 すっかり動転してしまったボクとは違い、文姉はちょっと会釈をして社務所脇の公衆電話に走った。
 父の胸に電極をつけてスイッチを入れると、予想外の音がしてびくんと身体が波打った。さらにもう一度、弓形に身体が硬直する。それから彼は心臓マッサージをしながら人工呼吸を行った。
 程なくして喧騒を撒き散らして救急車が来たが、その有り難さに涙がでる。
 救急隊員は荒れ果てた境内を見て、ぎょっと一瞬立ち止まったが、その後は冷静に担架に父を納めて、再び赤色灯をつけて走り去って行った。それには甘利助教が付き添っている。
「・・・着替えとか・・準備していきます」と救命隊員には何とか口にする事が出来た。
 青ざめて憔悴した横顔に、こうも心を砕かれるとは思わなかった。
「大丈夫?」と文姉が肩を支えてくれた。

 病室の前に二人で座っていた。
 隣には文姉の体温がある。彼女の鼓動まで伝わるくらいに、ぴったりと密着してくれている。その温もりが安堵を生み出している。
 ふたりで取り留めのない話をする。面会謝絶中の父の容態に触れないように、迂回して話だけを繋げている。
 甘利助教の緊急救命の手腕は大したものらしい。
 救急病院の医師が褒めていたそうだ。
 ばかりか父は失禁もしていたらしく、それも彼が濡れタオルで処置したらしい。本当に文姉の言の通り、彼は頼りになる。
 今は樽沢の三龍滝まで、六花姉のお迎えに行っている。
 ボクが入っていた影の肉体は、文姉が覚醒した時に同期されて喪失した。あの後に起こったことは全く知らない。
 すぐに六花姉は、甘利助教に里宮に向かうように頼んだらしい。車を持ち込んでいるのは彼だけだし、それをも想定した策の一端ではあった。
「・・・羽衣ね、わたしにも出せたのよ」
「だよね。ボクには出せなかった。でも弓は使えたの」
「人格意識の中に隠し鍵というか、パスワードに近いものがあるのかもね。それを入力したらリンクした特殊技能が使えるみたいな」
「そうね、史華の顔を思い浮かべてたら、できたの」
「それって鏡を見ればいいのに」
 鏡・・・・ズクリと心臓に痛みを感じた。
 その瞬間にはっと思いだした。そうそう六花姉の千早の懐に収めてある。この地上で最も安全な場所にある。
 そうだな。
 虚ろ鏡にもう一度頼る必要があるかもしれない。
 史華姉を転生されるには、肉体がひとつ足りない。それにもうひとつの肉体を影として生み出せても、戸籍は持てない。
 ふたりが人間として生きるには、社会は狭すぎる。六花姉みたいに、魍魎として一方は生きるしかないのかな。
「・・・涅槃みたいと言っていたよね。ボクたちはあれを鬼叢雲と呼んでいたのだけど」
「そう、話が途中だったわね。涅槃って仏教用語で来世という意味なのだけど。その言葉しか思いつかなくて・・・周囲には誰かの気配があるのだけど、姿はないの。みっちりと詰まっているのにね。それにね、生臭いの」
「匂いがあるの」
「妙に甘ったるいんだけどね、でも不快なの」
「よくわからないわ」
「多分、あれは死臭だと思う。その匂いで皆が真実を知って沈黙しているのだと思うわ」
 死臭なのかぁ。嗅いだことないなぁ。
「その涅槃というか黄泉の国っていうか、そんなのが宙に浮いているのは何だろうね」
「わたしにもわからない。ただそこに波紋が起こったの」

 そこで声を聞いた、という。
 恐らくは求厭の祝詞だろう。
 陰陽の祝詞の中に、史華という名前を聴いた。
 そこではっと意識が覚醒したのを覚えている。
 自己を閉ざした粒子の一粒が、逆流したのだ。
 祝詞に反応した粒子は他にもあったが、いずれも瞑目を乱されて、憤怒の色を差していた。
 それはまだ霊体になって間もない魂が多かったという。
 意識が蘇ると、朧げなひとの姿が粒子のうえにまだ透かし見えたし、声がなんとなく伝わった。
 その色のない空間に、ぞろりと白い生気のない腕が割り込んできて、掌を開いた。それは巨大な腕であったという。彼女自身はその腕の産毛よりも微小な存在だった。
 巨腕に粒子の群れが、憤怒の牙となって突き立った。
 それでもその腕は諦めず、鬼叢雲を手探りしている。
 背後に明確な気配を感じた。
 敵意とは程遠い温もりを感じた。
「チカなの」と訊いたが返事はなかった。
 その代わり掌の感触が背中に伝わった。
 あなたが行きなさい、そう言って彼女は文姉の背を押した。
「・・・そんなことがあったのね」
「うん。チカはまだあの中に囚われているの」と声が涙で掠れている。
 大丈夫、と抱擁して包み込んだ。
 言葉よりも温もりの方が、雄弁に語ることができる。
 安心して。ふたりが笑顔でいられる場所を作るから。

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