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ピクチャ思考法

うちの猫がときどき一点を見つめて、じっと考え事をしているように見えることがあるんだけど、何を考えているんだろう。
人間のように言葉で考えているわけではないだろうけど、その思考の末に何か一定の成果が得られたりするのだろうか。
想像したり反省したりがどの程度あるのだろうか。

思い起こせば僕も小学生くらいまでは言葉に頼らない思考の仕方をしていた気がします。
思考の仕方は人によって違いがあって、文字ベースで考えたり、音声ベースで考えたり、また母国語や第二言語の混ざり方など、さまざまなのでしょう。
それが僕の場合は、何か絵や写真のようなイメージを次々に映し出して、フローチャートのように進行させる思考法だったのです。
昔のことすぎてちょっと忘れたけど。
「ピクチャ思考法」とでも名付けましょうか。
イメージではありながらも感情的ではなく、あくまで「思考」の一形態だったと記憶しています。
簡単な例で言うと、ワカメのことを考える時に頭の中で文字や音声の「ワカメ」を思い浮かべるのではなく、映像のワカメを思い浮かべるわけです。
この方法の最大の利点は、その思考の「速度」です。
一枚一枚の情報量も多いうえに、読み取りも一瞬で済む。
それではさぞかし天才少年……とはならないんですね。
残念ながらこの思考法には最大の弱点もあって、それは「リアルタイムで会話が出来ない」ということ。
なにしろ思考中は「言葉」になっていないため、他者と話す場合は絵のような写真のようなもの、またその並び具合をいちいち言語化しなくてはならないのです。
これは0.1秒を争う日常会話に対しては致命的に時間がかかります。
文章にしたためるのはゆっくりながら出来ましたが、それゆえ小学生の頃は大変無口でした。

さて中年になった今はどうかと言うと、いつのまにか「音声」で考えるようになっていました。
もちろん口語で。
これは小学生の時の思考法とは真逆で、頭の中で普段使う言葉で考えているので、会話のしやすさは非常に助かります(もちろん頭の中を垂れ流すわけにはいきませんが)。
ただし音声を再生しているため、じれったいほどの時間がかかるんです。
しかも途中で「ああもうどうしよう」みたいなほとんど唸り声のような音声が混じるので、なんならもうほとんど思考していないのかもしれません。
これは危機感を感じますね。
せめて文字ベースの思考に変えれば、速度は格段に上がるはずです。
これから訓練していこうかな。

「ところで」というか、「でも」というか、その、例えば自分の感情などを、言語化するのって難しすぎませんか?
「シュレーディンガーの猫」という思考実験があって、量子論的には箱の中の猫は「生きている」状態と「死んでいる」状態が重ね合わされていて、箱を開けて観察するときにどちらの状態か決まる、という話なんですよ。
つまり今まで「生きているし死んでもいる」猫が、箱の中を覗くという行為によって、どちらかの状態に固定してしまうんですね。
感情や印象を言語化するのって、その箱の中を覗く行為に近いと思うんです。
例えば、「取っておいたプリンを家族が食べてしまった」ときの感情を表そうと、「私は怒っています」と言ってしまうとして、それはそんなに単純なものでしょうか?
実際には「怒っている」「悲しい」「じつは少し嬉しいところもある」のようなさまざまな成分が、その割合も時とともに変化していくような、複雑な感情を抱えていると思うんですよ。
ところが「箱の中を覗く」ような言語化によって、「怒っている」に収斂してしまうんですよね。
他にもいろいろ感じていたのに、それを一旦捨ててしまうことになる。
そして「私は怒っています」と声に出すことによって、自らの脳も「あ、私は怒っているのか」と思い込まされ、まるで単純な感情しかなかったかのように騙されてしまうことがあります。
下手な言語化は「生きているし死んでもいる」猫を「死んでいる」一択にしてしまう危険性があるわけです。

だからこそ私たちは多くの言葉を尽くして語ったり、複雑なものを一網打尽に表す魔法の言葉を探したりするわけですが、もしかしたら「感情」や「印象」などは思考中はあえて言語化せず、そのままの形で文章の一部に取り入れればいいのかもしれません。
「私は今*×〒=と感じているので、以前の☆♪°¥な状態にするには……」のように思考すれば、より取りこぼしが少なく、かつ論理的に考えることが出来そうです。
ピクチャ思考法と、言語を用いた思考法のハイブリッド。
まあそれはそれで難しいですけどね。

皆さんは普段どんな思考法でものを考えてますか?
ひとりひとりに聞いたら面白そうです。

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