牛肉と春

お姉ちゃんは言った。

「恋のはじまりってね、新しいスケジュール帳を買うときの感じと似てる。これから何が始まるんだろうってワクワクするの!」

そんなお姉ちゃんはスケジュール帳も割と早いスパンで買い換える。今の手帳にどれだけ予定が書かれていても、買うって決めたお姉ちゃんは、決して迷わない。

だから、家には使いかけのスケジュール帳がずらり。見本市が開けそう。

そんなお姉ちゃんにも忘れられない人がいる。
初恋の人。初めて、お姉ちゃんが両想いになったひと。
両想いだと分かった途端に、夏のワンナイトラブした女のコを妊娠させちゃってたことが分かって、できちゃった結婚するしかなくなった、3こ上の純くん。

純くんは、泣きながら言ったらしい。
「こんなことになっちゃったけど、君のことがほんとうに好きだった」

お姉ちゃんはそのときまだ高校生だった。
自室にこもって泣き続けること1週間ーーー腫れた目をしたお姉ちゃんが部屋からでてきたのは、晩御飯がすき焼きの日だった。その日のお肉はお歳暮でもらった、とてもいいお肉だった。

これは、笑い話として今も我が家で語り継がれている。

ほんとうに、とても健全な笑い話だった。
10年後、お姉ちゃんが、純くんと再会するまでは。

お姉ちゃんは純くんを、たまたま大衆居酒屋で見かけたのだという。純くんは少し枯れてて、そこがまた良かったんだそうだ。話しかけられなかったけど、純くんが奥さんと上手くいってないらしい話をしっかりと盗み聞きしていた。

それからだ。
お姉ちゃんはなんだかソワソワしはじめた。純くんに片想いしてたころの日記を出してきて読み始めたり、普段使わない純くんの実家の近くのコンビニに行くことが増えたりした。

バレンタインが迫ると、
「純くんさぁ、チョコとかよりお肉大好きだったんだよね、牛丼屋によく連れていってくれたの。バレンタインだし、お肉を贈ろうかなぁ?急にそんなことしたら変かなぁ?」
と言いだす始末。

ていうかお姉ちゃんがそんなこと言い出す前から、冷蔵庫の中には、明らかに自宅用じゃない、お高くとまりすぎてる感じの包装がされた肉屋の箱が、使いかけのマーガリンとか、カニかまとかが入ってるごく一般的なうちの冷蔵庫の上の方に鎮座していた。その冷蔵庫の違和感は、お姉ちゃんのテンションの滑稽さと似ていた。

私はそのとき、人生で初めてお姉ちゃんに、やめなよ、と言った。

「お姉ちゃんなんかこのごろ嫌だ、キモい」

あくまでボソッと言ったけど、それが妹の人生初、全身全霊をかけた姉への否定だったことは伝わっていて、お姉ちゃんはすごくびっくりしてた。

次の日、お肉は冷凍庫に移されていた。いかにも高級な箱だったけど、冷凍庫の中では霜をかぶって、なんだかシュンとして見えた。

2週間後、私の彼の浮気が分かって、私と彼は別れた。正確には私は、うすうす浮気に気づいていて、私が気づいていたことがちょっとした言葉の選び方で彼にバレて、彼が逆ギレして、色んなことが終わった。

なんであんな男、と思いながら、あの男のことを考えてばかりの自分が情けなかった。

涙をこらえながら家に帰るとお姉ちゃんがお風呂上がり、ジェラートピケの可愛いパジャマでペヤングを食べてた。
お姉ちゃんは目をまん丸くして

「あれ〜?さっちゃん今日お泊りじゃなかったの?ご飯用意してないよ?」

と、すっごい力の抜けた感じで言ってきた。
お姉ちゃんは…お姉ちゃんはすごい美人なのに多分眉毛いじったあとだから眉毛あんまなくてちょっと怖いし、ペヤングはあれ、デカいほうのやつ食べてるし、てか多分そのペヤング私のだし、ちょっとやべ〜って思ってる感じバレバレだし、てかジェラートピケのパジャマとペヤングのデカイやつで女子力はプラマイゼロか?余裕でマイナスだろ!って思ったらなんかもう笑えて、そしたら。

「さっちゃん?」

泣けた。

私があんまり泣くのでお姉ちゃんはオロオロしてペヤング食べる?って聞いたり、と、とりあえず座ろ、すわろ、ってソファーまで連れてってくれたりした。
子どもみたいに泣きつづける私が、彼と別れたことを話しきるまで、お姉ちゃんはずっと付き合ってくれた。

あらかたの事情を話しきるころには涙も引いて、最後に鼻をちーんとかんだところで、しじまが訪れた。

子どもみたいに泣いたことの気まずさと、疲れと、泣きすぎて頭がボーッとしたことで、しばらく動けずにいたら、お姉ちゃんに、とりあえずお風呂入ってきなーって言われた。

お風呂の中ではもう泣かなかった。だらだらと、でもどこか儀式のように厳かに、すみずみまで体を洗った。

お風呂から上がると、食卓ですき焼きが湯気を立てて待っていた。
すき焼きといっても、肉と白ネギだけの簡易版で、だけど、お肉は少し厚めの、脂のツヤっとしたやつだった。あ、これ絶対冷凍庫の例のやつって思ったけど黙っていた。

お姉ちゃんがチンご飯をきれいにお茶碗に盛って、取り皿に生卵を割って待っていてくれた。
2人で黙っていただきますをした。お腹が空いてたから、悔しいけど、冷凍とはいえ、いいお肉が舌とお腹に沁みた。

食べ終わって、お茶を淹れてくれたお姉ちゃんに、お肉、美味しかった、ごちそうさま、と伝えると、お姉ちゃんは、ほのかに胡散臭く、
「うーん、美味しかったけどさ、やっぱ冷凍しちゃうと味落ちるね」
と言った。

まぁ、そう言われたら確かにちょっと臭みはあったかもねー、と答えると、ちょっとなんか、ちょっと酔ってきた感じで、

「ほんとにちゃんと美味しいもの食べようと思ったら、一回冷凍したもんじゃダメなんだね」
とも言った。

あげく古ーい少女漫画のウインクした目から星が出てくるみたいな言い方で

「なーんかさ、似てるね。恋と、お肉ってさっ」

とさえ言った。

そしてなんか、なんでか嬉しそうに鼻歌まじりに片付けを始めた。

私は、そうだね、と生温かく微笑みつつゆっくりお茶をすすった。
(お肉はちゃんと時間かけて自然解凍したら、もうちょっと美味しくなるらしいよ、とは、言わなかった)

お姉ちゃんの鼻歌は懐かしのSPEEDで、サビでテンポアップして楽しそうだった。

♪ずっと忘れない 離れてもくじけない
生きていく今日から

お姉ちゃんの歌は、どんどんノリにノッていく。2番になったらヒロコの1番盛り上がるパートを横取りしようと決めた。

【終】

やっと書けました。
話の中で引用した曲は
SPEEDで「my graduation」
作詞作曲 伊秩弘将 でした。懐かしいー。
生まれて初めて買ったのはこのCDでした。たしか小6。

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