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門司港里帰り 軽め編

約10年ぶりにダンナの実家門司港に日帰り里帰りをしてきた。
いろいろなことを一気に書こうと思ったが、気が滅入ってきたので、「軽め編」と「重め編」の2回に分けて書くことにした。

①急遽決まった里帰り

諸事情により10年ぶりの里帰りが急遽決まった。(諸事情については次回書こうと思う)

ダンナは前乗りでひとりフェリーを予約したらしい。
この機会を逃すともう義母には一生会えないかもしれないので、
私と娘も行くことにした。
急遽、新幹線のチケットを探したが、3連休初日のため連番の席はなく、バラバラでなんとか取ることができた。
ジャッキーが1人でお留守番なので私は日帰りだ。

早く帰ってきてね🐶


②門司港の歴史

ここで門司港の歴史を少し。

明治から昭和初期にかけて、日本三大港(神戸、横浜、門司)のひとつとして栄華を誇った街、門司。
門司港は九州の玄関口としてだけではなく、中国大陸が近いこともあり、軍需品や兵士たちを送り出す重要な港となり、大戦景気に沸き立った。
大商社や銀行が門司に支店を出し、料亭や花街も林立したそうだ。
それが終戦とともに大陸貿易は衰退し、港としての役割も縮小していった。

門司港の衰退に追い討ちをかけたのは、1975年に山陽新幹線の新関門トンネルが開通したことだ。
本州山口県の新下関駅からトンネルに入り、関門海峡の海底トンネルを通過する。
次に陸に浮上するのは九州福岡県の小倉駅だ。
新幹線の乗客は門司港を目にすることはなく、門司港は忘れ去られた町となってしまった。

その後、門司港は行政と民間の協力のもと、1995年に『門司港レトロ』として生まれ変わり、
町中に点在していた旧大阪商船、旧門司三井倶楽部や旧門司税関などの建築物を駅前に移築して、
年間200万人以上の人が訪れる観光地に生まれ変わったのだ。

③久しぶりの門司港

新大阪駅から小倉駅までは新幹線のぞみで2時間10分。東京へ行くより速い。

小倉駅で在来線に乗り換えて3駅東へ戻ると門司港駅だ。
電車の中は門司港レトロへ向かう観光客で溢れかえっていた。
中国人、韓国人、欧米人、日本人。

九州鉄道
門司港駅は観光客でいっぱい


④門司港レトロ散策

11時過ぎには門司港に到着した。「お昼ごはんは自分達のペースがあるので、お昼ごはんを済ませて13時に来るように」と言われていた。
せっかくなので、『門司港レトロ』をさっと散策してみることにした。

門司港駅舎
旧大阪商船
旧門司三井倶楽部


昨今の門司港のブームは焼きカレーだ。
何の所以かわからないが、
門司港と言えば焼きカレーらしい。
どこのごはん屋さんにも看板メニューとして焼きカレーが掲げられ、行列ができていた。

私たちはちょっと素敵なカフェに入ることにした。
12時開店だが、既に先客が1組並んでいた。
開店して入店と同時に、海が見える素敵な席を取られてしまった。

カフェ liberté
ケーキも美味しかった


⑤いよいよ再会

実家は三代続いた地元の元乾物屋さんで、門司港が栄えていた往時には住み込みの従業員さんが20人程いたらしい。
そのお店の上階が住まいだったが、今は町から坂道を10分ほど上がった平屋建てに義母、義姉、義兄 の3人で暮らしていた。

86歳になった義母は少し認知症状があるらしいが、耳も聞こえ、受け答えもちゃんとして、よちよち歩きだが、トイレにも立って行けた。
見た感じは本格的なおばあさんになっていたが、思ったよりしっかりしていた。
わからなくなった分、以前ほど神経質な感じがなくなり、朗らかな印象を受けるほどだ。

義兄は訳あって2年ほど療養所にいたので、戻ってきた時は歩くこともままならなかったそうだが、
今はゆっくりとだが、しっかり歩いていた。
義母と義兄はB型さんなので、2人で掛け合い漫才のような会話を繰り広げていた。

ふたりとは対照的に見るからに参った様子だったのが義姉だった。
介護保険の申請もしていないらしく、八方塞がりの様相だったが、
急に来た私たちの話しは耳に届くはずもなく、今回は様子を見に来たということだけにして退散した。

3時間ほど滞在して、私は小倉駅に向かった。

観光船が着く波止場
門司港レトロのおみやげ物屋さん


⑥小倉駅から新幹線で自宅へ

小倉駅で少し時間があったので、
おみやげを買った。


そして駅弁は量が多そうだったので家で食べた。




課題山積みだが、
その課題が目に見えただけでも進歩があったとするかな。

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