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『人間失格』滑稽なまでの罪深さを抱えて。

主人公は間違いなく人間失格である。少なくとも、そう烙印を押されるに相応しい生きざまである。

『人間失格』(太宰治)

それにも関わらず、多少なりとも共感するのは「人(世間)とは違う自分」を感じることへの陶酔感だろうか。そして、相反するようだけれど、同時に「でも主人公ほどではない自分」を再確認して、人として破綻せずにいられることに安心しているのかもしれないと思う。

小説を読もう月間を今月も継続中である。長らくビジネス書、実用書だけを読む時期が続いてしまっていたことで、小説を読むことに対して基礎からやり直そうと(?)、これまで何となく読みそびれていた文豪の本にも手を出している。

太宰治は恥ずかしながら、『走れメロス』しか読んだことが無かった。何となく「読むなら覚悟がいる」という思いがあったことが理由だったが、果たしてその通りだった。普段、そこまで自分を「罪人」とは意識していないのに、作品を通して太宰治に語りかけられると、どうにも「自分=主人公」のような錯覚を起こして、このままで良いのだろうかと自問自答を始める羽目になる。解説にもあったが、太宰治という作家は人をその世界に引きずり込む、「語りの名手」なのだろう。

人間は誰しもが主人公の『大庭葉蔵』の気質を持っている。だからこそ、本作が『傑作』として世に残り、評価され、そして反対に問題作として敬遠されることもあるのだと思う。

物語のラストにおける、全ての手記を読んだマダムが主人公について語った、「神様みたいな良い子でした」との評が何とも重い。マダム本人は本気でそう思っているか、もしくは同情しているかであって、責める気持ちは無いだけにかえって残酷な気もする。

その言葉は主人公にとって「こんなにあからさまに醜い内面を曝け出しても許される」という救いではなく、「それでも世間には理解されなかった」という絶望に近いのではないか。いや、それとも、幸も不幸もなく、一切が過ぎてゆく境地にたどり着いた主人公にとっては、それすらも頬を撫でる風のごとき些末事だろうか。

そして最後に。本書は確かに多感な時期に真面目に読むと、己の人生観を変えてしまうかもしれない程の問題作であり、傑作である。そんな時期はとうに過ぎた自分ですら、人生についていろいろと考えることになってしまった。読む前に「覚悟がいる」と思っていたのは間違いではなかったらしい。いずれにせよ、こんなに大変なものが280円(税抜)の文庫本で買えてしまう世界はすごいなと変なところにも改めて感心する。人生は280円で変わるかもしれない、というのが私の本日の「真理」である。

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