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炊き出し体験が教えてくれたこと

3月11日が目の前に迫った10日、内陸の岩手県花巻市で能登の被災地支援のチャリティーイベントが開催された。会場は以前に「東北食べる通信」の取材でお世話になったホロホロ鳥の生産者である石黒農場さん。岩手県の田野畑村にあるロレオールの伊藤シェフの声かけで実現したイベントは、能登に想いを寄せる生産者が自身の食材を寄贈し、その食材を使って岩手県内外のシェフと参加者が一緒に炊き出しを体験するというものだった。(参加費や上乗せしてお渡ししたカンパは、能登の被災地での炊き出しに使われるという。)

午前10時過ぎに会場に到着してみると、40人近く(受付の方談、最終的には80人に!)はいた参加者の中で面識がある方は2、3人。
しばらくすると、伊藤シェフが大きなちゃぶ台の上に所狭しと並んだ食材を指さして、3人のシェフと、岩手の「食の匠」の若生さんに、食材の分担を指示。「Aシェフはナメタガレイと○○と△△」「Bシェフはホロホロ鳥と■■と○○」……といった具合に割り当てが決まり、参加者は適宜、分かれて作業する、という流れに。

ずらりと並んだ食材。センターはホロホロ鳥
食材を寄付した生産者さんの一覧。

お昼までの時間を使って、その日集まった食材を使ってできるメニューを(シェフが)決め、初めて知り合った方々と一緒に作る。まさに、それは炊き出しだった。

皆さんがサーっと散り散りになる。料理のベテランだと思われる人生の先輩方の中で、鈍くさい私は、文字通り右往左往し、何をしていいのかわからない……。

包丁やまな板などの道具がどこにあるかもわからないし、どう考えても人数分あるわけはない。野菜を洗おうにも水道のスペースは限られる。

みんな何かしているのに、自分は何もできないことにしばらくは焦ったけれど、しばらく見ているうちに、みんな手がふさがっているので、名札が作れないんだな、とか、あっちはもう少ししたら人手が要りそうだなとか、気づくところがあり、不器用なりに少しはできることがあった。

そうやって手を動かしているうちに、何となく横にいる人との会話が生まれたり、作業を手伝い合ったりするようになる。

同じ料理を作っている人たちの内にそれぞれの役割が生まれ、ゆるやかなチームになる。

そんなことを感じながら、思い出したのは、気仙沼のリアスアーク博物館の学芸員(当時)の山内さんがかつて話していたことだった。近代より前(江戸時代以前)の津波被災地では、被災者自身が捜索やがれき撤去に主体的に取り組むことで、その流れの中で被災者自身が復興の担い手になっていった、という趣旨の話だった。震災の翌年に聞いた話なので、おぼろげな記憶だが、現代は被災者が避難所に囲い込まれて被災したエリアから隔離されることによって、復興の主体性を獲得していくといったことだったように思う。

(復旧と炊き出しではちょっと話は違うが)被災した人たち自身が、自分たちの命の源である食を作り出す「炊き出し」という行為は、その行為の中にそれぞれが自分自身の役割を見出し、支え合い、助け合ういとなみなのだということを、炊き出しを体験しながら思った。

そう考えると、東日本大震災でも能登半島地震でもしばらくは乾パンやパン、おにぎりといった食糧の提供が続いたが、炊き出しができる食材や調味料、鍋や調理道具をいち早く届けることは、単なる栄養源の確保という以上の意味あいがあるのだ。

完成した15品以上の料理は、どれも「炊き出し」というレベルをはるかに越えて、家で作る料理の何倍も豪華なものだったが、ここで得られたのは、単に豪華なランチだけでなく、炊き出しを体験したからこその発見だった。


出そろったお料理の紹介をする伊藤シェフ
右のはホワイトアスパラガスの上に卵のソースをかけたもの。めっちゃ美味!

その場所で自分の役割を見つけることによって、その場にかかわる主体となり、より良くしようという意志が生まれる。

それは避難所であっても、変わらない。人間の行動原理のようなものなのかもしれない。

実際にその場面に直面したら、きっと右往左往するしかないかもしれないけれど、3月10日の花巻で感じたことはずっと覚えておきたいと思う。

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