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届かなくても届けと願うことはやめない

自分が発信する物の届かなさについて思い悩むのはよくあることだが、最近ますますその頻度が高まっている。原因の一つとしては、地震で不安になっているため、せめて話を聞いてほしいということがあると思う。ただこれには「こんなにかわいそうな私を見て」という感情も含まれているような気がして、その思考と主張の幼さに我ながら嫌悪する。

さて、そんな醜い欲望は、たくさんの人に発信物を見てもらえることで満たされるだろうか。否だろう。見てもらえたら、今度は評価がほしくなるのだ。しかも賛辞が。批判など受けでもすればすぐに潰れてしまう。

では、何であってもちやほやと褒めそやしてくれる世界にいればいいのかというと、それは嘘だと感じるのである。本当のことを言えと主張し、本当のことを言わせておいて、酷いことを言われたと泣く姿が見える。

一体、何がどうなればいいのだ。「本当の称賛」が得られれば満足するのだろうか。しかしその「本当」はどうやって認識されるのか。先に挙げたように、何であっても褒めそやしてくれる可能性がある以上、本当に誰かに自分の発した物が届いたか、そしてそれを良いと思ってもらえたかなんて、発した本人に確かめる術はなく、「なんとなく届いた気がする」としか言えないのではないか。

その「なんとなく」を信じるしかないのではないか。発する側が、これは誰かに届くはずだと信じているしかないのではないか。それは根拠のない自信である。根拠を積み重ねてできる土台のしっかりした自信ではないから、すぐに壊れて不安になる。それでも、崩れたらまた作り直して、はりぼてでも、これは自信だと呼べる物を見せておくしかないのではないか。

ここまで書いてきた中に、受け取る側の観点がないことに気付く。発する側が何をどう考えて受け取ってもらいたいかより、受け取った側が何をどう考えるかが大事であるように思う。自分が発するからには自分の要素は含まれてしまうが、その自分が、受け取る誰かに対して何を届けることができるのか。

受け取った人にとって何か良い物になれと願いながら届けようとする。届かなさに悲しみながら、それでも何か良い物を放ちたいという気持ちを持ち続けなくてはならない。届きさえすれば物がなんだっていいのだという考えでは、誰も良い思いにはならない。そして、なんだっていい物を適当に作っていると自分が腐っていく。

そもそも、宛先を指定していない物が誰かのところにきちんと届くことが、もう奇跡のようにわずかなことなのだ。受け取ったとして「良いな」と思ってくれるかといえば、それはさらに希少なことだ。

それでも、海に小瓶を流すように、どこにいるかはわからないけれども、自分の発した物を良いと思ってくれるような誰かに届けたいと思うならば、届かない現実に苦笑しながらも、顔から笑みをすっかり消してはしまわない。かつて、誰かに届いたのかもしれない、という小さな幸福を思い起こし、また願いながら送り出すだけだ。

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