今日の気持ち/20240131

社会生活を送る上で起こる問題のほとんどが「人間関係」に起因していると思います。そりが合わないのに一緒に何かをしなければいけなかったり。気に入らないところがあって陰口を言ったり言われたり。あからさまにえこひいきをしたりされたり。不利益になったりさせたり。そんなようなトラブルを経て、いじめやけんかなどが起こってくるわけです。

こういったわかりやすい「合わなさ」が対人関係にある上で、そこに仕事といったものが絡んでくると、話は余計にこじれていきます。誰かより自分のほうが優秀だとか。誰かの案より自分の案を通したいとか。誰かより自分のほうが偉くならねばおかしいとか。こういったエゴが、漏れ出ているくらいは仕方のないことだと思います。誰だって自分がかわいいものです。

ですが、そのエゴをなんとか正当化して、自分に優位な状況を作り、自分が望む結果を求めようとすると、自分の正当性を立証するために周囲の人間を巻き込まざるを得ず、巻き込まれた人々それぞれの思考も混ざって、問題は複雑に肥大していきます。

人それぞれに個性がある以上、「合わない」場合があるのは仕方がないことです。Aがいいと思う人がいたら、Bがいいと言う人もいる。AとBの両方ともいいと感じる人もいるかもしれないし、AもBもよくは思えない人もいるかもしれない。さまざまな嗜好があるのが自然な状態であり、さまざまに分かれているからこそ、さまざまな好機を捉えることができ、また危機に対応することができて、人類全体として長らえていけるわけです。

しかし、そういった様々な嗜好なり志向を持つ人々が、一緒に何かをやっていかねばならない時には、いくつもある案のどれか一つにまとめざるを得ないわけです。そして、定められた一つの目的に向かって、共に最善を目指さなければいけません。例えばA案が選ばれたとしたら、B案を推していた人は残念でしょう。A案なんてありえないと思う人もいるかもしれません。このような場合に、A案を進めていこうとする人々が行うべきは、A案が受け入れ難い人にA案の利点などを説明し、A案に納得してもらえるように丁寧に働き掛けていくことです。そうして結果的に「A案でよかった」と思ってもらえれば成功なのだと思います。

現実では、決まった物事に反対する人々の声は、黙殺されてしまうことが多いのだと感じます。丁寧な対応などそこにはないでしょう。決まったのだから従うべきだとされ、反対意見は封じられ、決定に逆らう人は退場させられてしまうのではないでしょうか。

社会生活を送る上で起こる問題のほとんどが「人間関係」に起因している、と最初に書きました。何らかの決定がなされたとして、それに従うことができない人がいた場合に、なぜその人が反対意見を持っているのかという事の発端である、その意見を持つ「人」が軽んじられている状態が多いのだと思います。反対する人の思いを少しでも理解しようとする動きがあれば、結果は違ってくるのではないかと思います。

集団の規模が大きくなるほどに、少数の反対者などに構っていられなくなるであろうことは想像できます。ですが、そもそも違っている人々が、一緒にやっていかなければならない状況下では、嫌でも協力関係を結ばなくてはならない場合もあると思うのです。心からの賛成には至らなくとも、その決定に力を貸してもいいという気持ちになってもらったほうが、それが無理だとしても黙認してもらえるくらいにはなったほうがよいのだと思うのです。

誰だって自分のやりやすい方法で、やりやすい人と、楽しく物事を進めていくほうがいいに決まっています。自分が定める条件に当てはまらない人は排除してしまいたい。ですが、それができるほど世界は単純ではないように思うのです。

人に何かをわかってもらうのは大変なことです。その何かを嫌がっている人ならなおさらです。でも、「そう思う誰かをわかりたい」という気持ちなしには、誰かの気持ちはこちらを向いてくれやしないのではないでしょうか。そして、「そう思う誰か」の意見に何かを感じたときには、自分の意見をそちらに寄せていく、変えていこうとする気持ちも、忘れずに持っていなければいけないと思います。双方の完全な納得はきっとあり得ません。わからないものはわからないままかもしれません。それでも、その時点での最適解を求めていくために、異なる意見を持つ誰かを理解しようとすることを、おざなりにしてはならないと思うのです。

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