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わたしの転職体験(教員)~私立から国立へ~

こんにちは。Sakuraです。タイトルのとおりですが、「教員」の転職活動のことを振り返りたいと思います。特に教員の転職活動って、あんまりフォーカスされないような気もするので、ちょっとでも参考になればいいなと思っています。

経歴

私は教員として15年以上勤めていますが、前任校は私立高校でした。10年以上勤めたのですが、多忙による鬱病の発症をきっかけに転職の決意を固め、現在の勤め先(某国立大学附属高校)に転職しました。その前に、社会人1年目の時は教職とは無関係の一般職に就いていたので、簡単な略歴を記してみます。

社会人1年目スイミングスクール社員(選手コースの指導含む)

英文科を卒業して1年目。最後まで教員と天秤にかけ続けましたが、大学まで水泳をしていたので、それもあってスイミングスクールへ就職しました。ただ、やっぱり英語力がどんどん落ちていくことに我慢できなくなり、「やっぱり私は英語を仕事にしたいんだ」と気づき、1年で退社しました。

社会人2年目(英語科非常勤講師(派遣)+塾講師)

退社したのはいいものの、3月末日までずっと社員としての仕事が忙しすぎて、本来なら前年度末までに必要だった、教育委員会への非常勤講師の登録やらなにやらの手続きなどができませんでした。

とりあえず教員の派遣会社に登録に行きました。一応、模擬授業をしましたが、案の定ぼろぼろで……。
それでも派遣元の会社が何回か研修してくれて、無事私の派遣先が決まりました。そこが、教員初めての勤務先となる、私立の中高一貫校の高等部でした。

この年は、英語を死ぬほど勉強し直した年でした。
一貫校の高3生になると、たとえば文法問題の4択などで、

「なぜ①が不正解なのか」

ということを、「理屈で納得しないと先に進みたくない」、という生徒が大半でした。それもあり、いかにそれまでの私の英語への理解が中途半端だったかを思い知り、毎日テキストの予習と、辞書の定義・説明や文法書の説明をノートにまとめ直しに取り組んでいました。
また、文法の授業以外の、英語の本文を扱う科目(当時の教育課程では英語Ⅰ、Ⅱ、Reading)の授業も、集団授業をするのは初めてだったので、プリントを作ったり板書計画を作ったり、何から何まで初めてづくし。とにかく、教材研究を重ねていました。

そうやってだいぶ授業の進め方に慣れていった頃、塾講師の登録も始め、夕方に塾のバイトも兼務し始めました。これもとてもいい経験になりました。集団授業のやり方、より分かりやすい説明方法など、授業から得られるフィードバックがとても貴重な財産になっていきました。

そして、年度末に間に合うように、教育委員会に非常勤講師の登録を済ませ、都道府県の教員採用試験への申し込みも完了させていました。

社会人3年目(私立高校の常勤講師)

そうして教員2年目を、派遣という形でなく、学校からの直接雇用に切り替えたかった矢先に、登録していた教育委員会から電話があり、「私立高校だが常勤講師募集の話が来ているのでどうか」、という誘いがありました。

渡りに船とはこのことか!
という勢いで、即OKの返事を出しました。
後日、その私立高校の採用試験を受け、無事採用が決まったのでした。

1年目は仮採用という形でしたが、2年目からは本採用として雇用形態が変わり、その後教科主任として以後10年以上、その私立高校で働きました。

社会人十数年目

多忙により鬱病発症。年休等で1か月弱休みながら、なんとか職場復帰するものの、そのまま続けることができないと感じ、転職を決意。近隣の都道府県の私立高校等の募集情報を集めながら転職活動。同時に研究職(大学非常勤、常勤、高等専門学校の募集、研究所職員など)の採用情報も集める。研究職求人サイトにて、現在の勤務校の募集を知り応募。採用枠1人という激戦をなんとか勝ち抜き、採用に至る。

ここが私の人生の大きな転機でした。
鬱病になったのです。
直接的な原因は、新年度になっても、必要な非常勤講師の数が揃わなかったことにあるのですが、その2,3か月前から、「眠れない」「情緒不安定になる」などの症状が長期間続いていました。
そこに来て、非常勤講師が不足している事態のまま新年度になってしまったので、精神的な負荷は計り知れないものだったと思います。

最終的には、授業開始日の2日目にすべての必要コマ数を充足させることができたのですが、そこに至るまでの管理職とのやりとりなどで、心が限界に来ていました。その週末、すぐに心療内科に駆け込んだのですが、その日のうちに抗うつ薬を処方されたのでした。

それまでの無理な働き方、膨大な業務量がこなせなくなってきて、ようやく「今の職場では、生きていけない」と感じるようになりました。そこで、夏休みに入ってすぐくらいのタイミングで転職を決意し、活動を始めたのでした。

本命の学校(国立大学附属)への挑戦

「低倍率」になる条件

教員の転職活動は、あまり情報源がありません。私立学校の求人サイトなどはいくつかあるので、そこに登録して情報を集めたりするくらいでした。
ただ年齢制限がある私立学校も少なくなかったので、私が応募できる学校を、より有利な条件になるように探していたところ、研究職専門の求人サイト(「JREC-IN Portal」(国立研究開発法人 科学技術振興機構))を見つけました。私が今の勤務校の募集を見つけたのは、まさにその研究職求人サイトだったのです。

そのサイトは研究職専門だったので、ほぼすべての求人が、「修士以上」の学位を有することを条件にしていました。
実は私立学校の募集では、修士は必須条件ではなく、大半の学校は学士であれば応募することができました。そうなると当然母数が多くなるので、倍率が高いのです。

一方、修士以上となると、母数が減るため、それよりは倍率が下がると踏み、修士以上を条件としている学校を探していると、今の勤務校(国立大学附属高校)が英語科教員を募集しているのを見つけたのでした。

本命への挑戦で心がけたこと

1.徹底リサーチを経た書類審査

心がけたことはいくつかあります。
私はとにかく「その学校のことを知りたい」と強く思い、学校長の挨拶や、学校の沿革、またサイト内で公表されていた『研究紀要』を熟読しました。他にも教員紹介や、勤務している教員の挨拶文などが掲載されているものにも目を通し、どういう教員が働いている学校なのか、リサーチを重ねました。それらや当時勤務していた学校と共通していた取組などを、応募動機の書類(日本語・英語)に生かしました。こうして無事、書類審査を突破することができたのでした。

2.面接で発揮したリサーチ結果

それらの成果は、書類審査通過後の、面接で発揮されました。
転職活動などあまり経験もなく、まして最終面接まで進んだ経験など皆無だった私ですが、その学校のことを隅々までリサーチしていたためか、すごく落ち着いて面接に臨むことができました。
最初は模擬授業でしたが、その後、6、7人の面接官(大学教員2名、附属高校教諭4,5名)による質問が待っていたのですが、そこでもリサーチ結果が大きな助けになってくれました。
特に、『研究紀要』の中の、当時の副校長が執筆した紀要論文の一節が心に強く残っており、それを自分の言葉で、貴校の教育を支えたい、と強く訴えることができた気がします。
副校長が執筆した論文の一節を引用したことが決め手になったのかどうかは不明ですが、晴れて採用通知をもらうことができました。

教員の方々へ

私の場合は、私立高校の専任教諭だったこともあり、公立学校で勤務されている先生方と比較すると、転職活動も比較的容易だったと思います。私立で働いている教員は、他の私学へ移る、ということも多い気がします。

ただ、教員は今、精神疾患(特に鬱病)による休職が増え続けていて、教員不足が大問題になっています。私の場合も、無事今の職場に転職できたものの、鬱病が悪化して、精神科への入院と数か月の休職を余儀なくされた経緯があります。しかし、私学に勤めていたころよりも業務量が少なく、抗うつ薬を服用しながらでも働き続けることができています。

学校は、その学校ごとに職場の雰囲気や業務内容が異なり、それが大きなストレス源となります。私学の場合は、他校に移るしか方法がないため、退職して他校に移ることになるのです。これは公立学校で勤務する先生方にも言えることだと思います。

もし精神的な不調を感じたら、休職という手段の他にも、他校に異動する(転職する)という手段もあることを知ってほしいと強く思います。私立、公立の他にも国立大学附属、という職場もあるので、アンテナを張りつづけ、転職という道を進んで欲しいと思います。

読了、ありがとうございました。


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