【会話と対話と批判と】

長年、一言では形容しがたい、とある夫婦についてぼんやりと考えていて、「きっとこういうことだったのだ!」と腑に落ちる時もあれば、「でも、〇〇の部分はどういうことなんだろう?」と、さらに謎が迷宮入りすることもあった。

昨日、つらつらとその夫婦についてぼ~っと考えていて、全く異なる性質の二人で、全く同じことを繰り返しやっているのかなぁと思い至った。

それは、

1.会話はできるけど、対話ができない。

2.批判はできるけど、改善、解決ができない。

3.自分が馬鹿にされたら怒るけど、相手を分かった気になって日常的に馬鹿にする。

どれも夫婦に限らずよく見かける光景だろうか。

夫婦に限らず、長年慣れ親しんだ人と付き合っていると、「この人は〇〇の時は××だ」「〇〇が好きで△△は嫌いだ」と、既知の情報が増える。そうすると、固定されたフィルターがかかり、相手に対して、未知の可能性に気付かなかったり、「あの人は〇〇だから無理、できない」と既知の情報で可能性を潰したりもする。

対話とは、フィルターや、色メガネを掛けないように意識的に注意して、相手に敬意を持って0ベースで接する、捉え直すことではないだろうか。それが出来ている付き合いは、長続きするし、状況の変化に耐えられるのだと思う。

対話ができないまま、付き合いだけ長くなると、会話によるフィルターに磨きがかかり、「自分こそが正しく、相手が間違っているのだ」と固定観念もお互いに(夫婦なら夫婦ともに)強化され、批判されている欠点をお互いに改めない。

改めないから、同じ様な批判が繰り返し生まれ、対話ができないから改善、解決ができない。自然と、ピリピリした空気が生まれやすく、相手を馬鹿にすることで一時的にスッキリするが、根本的な解決に至っていないので、批判を繰り返す。

今思えば、本当に不思議なのだが、毎回真剣に、お互いに同じことを批判するのだが、批判している問題がそもそも起こらない方法を一緒に考えたり、取り組んだりは決してしない夫婦だった。

それは「相手が自力で解決すべき問題だ」と、お互いに思っていたのだろうが、自力で解決できないから、毎度同じ問題を繰り返すのだ。

あるいは過去に改善案を出し合っても、相手が応じないから、諦めて、我慢や批判だけが残ったのかもしれない。

そして気が付けば私も、

・会話で相手を分かった気になって、対話を疎かにする

・批判に終始して何かをした気になる

・相手を分かった気になって馬鹿にする

悪い癖がついているなぁと思った。

会話も対話も批判も、どれも大事なことだけど、どれか一つに終始して、何かをした気になったり、分かった気になるのは、あんまり良くない。

そして、「あんな風になりたくないなぁ」と思った人に、気を抜くとなってしまうので、(30過ぎてから気付いたけど、本当に恐ろしい)
忘れては、繰り返し、思い出したい。

写真は自由が丘のカフェ。
電源充実、読書が捗って良かった~。

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