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Letters

プロローグ

陽の光がよくあたるリビングで、ピアノの自動演奏を聞いたり、パソコンでタイピングゲームをするのが好きだった。
リビングで私はパソコンでチャットをし、母は和室でお菓子を頬張りながらテレビを見て、父はゲームに興じる。
私には弟がいた…いや、まだどこかで生きているはずだ。でもいつからか、弟の存在を心の中から消していた。私に兄弟はいない。私の家族は両親だけ、と考えていた節があった。
今でもそうだ。30歳になっても未だに弟の存在を認めることが出来ない。
そんな私を卒業しようと思い、昔と比べて小さくなったパソコンを膝の上に乗せた。

「元気にしてますか。風邪などひいていませんか…」

一般的な始まりを書きだしたあと、何を書けばいいのか分からず、キーボードを打つ指が止まってしまった。弟の近況を尋ね、元気でいてください…そんな内容を書ければいいと思うのだけど、今、何をしているのか全く知らない。
母とのメールで、たまに弟の話を聞くは聞くのだが…今、どこに住んで何をしているのだろうか。
弟の存在を心の中で消した時から、私は大切な何かを失ったのかもしれない。


1通目

I駅からF駅まで向かう電車に乗ったのは、18時半頃だった。この時間は帰宅ラッシュになるため、基本的には椅子に座ることが出来ない。立ったままでも疲れないように、高いヒールを履かなくなった。もちろん、同じ30歳の人でも美を意識して、毎日7㎝ものヒールを履いている同僚もいて、その足で職場までの30分を毎日歩くのだとか。
そのお陰か、その他にもジムに行っているからか、彼女はモデルのようにスタイルが良い。そんな彼女を凄いと思うが、私には真似できない。
常に体の美しさを追求するために努力をする、これを諦めた私は年を取ったということだろうか。

「今度ね、弟とデートするんだぁ!T園に行くの!」
「え? 弟とデート? 気持ちわるっ」
「えぇ? そうかなぁ?」

高校生くらいだろうか。私の隣に立っていた二人の女の子が次の休みの予定について話していた。「弟とデート」…私もそんなこと考えたこともなかった。
髪の毛を二つに結んだ、愛らしい女の子は自分の弟がいかに良い男かを熱弁し、ショートカットでクールそうに見える女の子は、彼女の話をひきつった笑いを浮かべて聞いていた。
兄弟と休みに何処かに行くことは、私にとっても気持ち悪いと思うことだった。
私が高校生の頃には弟はほとんど家に帰って来なかったし、弟が何処で何をしているのか、全く興味もなかった。
だけど…愛らしい女の子のように、兄弟をちゃんと愛することが出来たなら、私は後悔をすることもなかったのだろうか。

私の城に帰って来たのは、いつもと同じ19時半頃。
F駅まで徒歩25分、エレベーターのない3階建ての小さなアパート。近くのスーパーマーケットまで、徒歩10分。近所にナイトクラブなどの騒音を出す建物もなく、夜はとても静か。私の部屋は3階にあり、洋室8帖、バストイレ別、ウォシュレットもついている。この条件で、家賃・共益費込みで2万5千円。I駅まで急行電車で30分程なのに、この値段は本当にありがたいと思う。
まあ…この話をすると、築40年ということもあり、多くの人が不便な所に住んでいるねぇ、と笑ったり、憐れんでくれるが、私にとっては心休まる城だ。

―独身女性の婚活に密着!S駅にあるお洒落なカフェバーで…

テレビをつけると、婚活についての番組が放送されていた。作り置きのおかずを電子レンジで温めながら、仕事用の服を脱いでバスローブを羽織る。
いつもと変わらない、夕食の時間。一人暮らしを始めて、もう10年になるのか…そんなことをふと思った。
一人暮らしを始めた頃は、簡単に作れるおかずの本をよく買ったものだ。よく聞く話が、親に電話をして近況報告ついでに、料理の作り方を教わる人もいるらしいが、私は一人でなんでもやりたいタイプだった。
一人だけの城が欲しかったのに、親に電話をする意味が分からなかった。
だが最近は…親や兄弟に電話を出来る人が凄い、と思うようになった。それほど、家族との距離が近いのだ。
私もそんな、絆の強い家族として生まれたかった…こう思うことはある。

―麻子さんは今年で34歳。女性が多い職場のため、出会いを求めてこのパーティーに参加したそう。

おかずを頬張りながら、テレビに視線を向けた。ナレーターが婚活パーティー参加者の情報をコンパクトにまとめて話している。
婚活…かぁ。
そういえば、弟は結婚していた。二人の子どもを設けたが、5年程で離婚した。
どうして弟が結婚出来たのか、私には不思議で仕方がなかった。あんな男のどこが良かったのだろう…
おかずを食べ終え、最後に大きく握ったおにぎりにアジシオだけかけて食べる。
米の甘味と塩っけを口の中で味わいながら思った。
家族には分からない、元奥さんだけに見えた弟の魅力というものがあったのだろうか…


「おはようございます、河合さん」
「おはよう、石井くん」

金曜日の朝。いつもより早めに出社し、今日、取引先に提出する書類のチェックをしていると、後輩の石井くんが来た。
この会社で働き始めて2年目になる、26歳の男の子。弟と同い年のため、親近感があり、つい可愛がってしまう子だ。

「河合さん、早いですね。仕事溜まってるんですか?」
「仕事が溜まっているわけではないけど…今日提出する書類があるから、誤字脱字がないか、内容に不備がないか、改めてチェックしたかったんだよね。石井くんはどうして、この時間に来たの?」
「…いやぁ、昨日遅くまで飲んじゃって、家に帰ってないんですよね。マン喫で仮眠とって、行く所もないんで早めに来ました」

爽やかな笑顔を浮かべながら、早く出社した理由を答えた石井くん。あぁ、こういう風に些細な会話を弟としたかった…こう思うから、石井くんのように年下の男の子を、つい構ってしまうのだろう。内心で呟きながら、そっかと軽く返事をして書類に視線を戻した。

「河合さん、今日空いてます?」

書類チェックも終盤にさしかかった頃、暇を持て余した石井くんが声をかけてきた。
唐突な質問に、思わず書類から顔をあげた。

「え?」
「雰囲気良さそうなバー、見つけたんですよね。もし河合さんが空いていれば、一緒にどうかな、と思いまして」

河合くんはにこっと、また爽やかな笑顔を見せて、バーに行こうと誘ってきた。
まさか後輩に飲みに誘われるとは思ってもいなかったから、驚いた。仕事内では面倒を見るのは好きだけど、プライベートを会社の同僚と共に過ごすということがほとんどなかった。
良い機会だし、正社員2年目となると石井くんにも色々と余裕が出てきたという所だろうか。

「そう、だね。行こっか」
「本当ですか!やった!これで、今日も仕事頑張れます!」

バーに行くことを了承すると、子どものように喜んでみせた石井くん。男性とどこかに行くということもなかったから、ちょうど良かったのかもしれない。そんなことを考えながら、書類に視線を戻した。


金曜日恒例の書類確認、次の一週間のための準備を終え、今日も無事に定時の18時に会社を出ることが出来た。
といっても、9時始業だというのに7時から仕事を始めたものだから、午後はほとんど仕事をせずのんびりと過ごしていただけだったが、これもまた早めに仕事が終わった人間の特権だろうと思い、自分のデスクでだらだらと過ごしていた。

「I駅の西口にあるんですよ、雰囲気の良さそうなバー」
「そうなんだ」

石井くんも滞りなく仕事を終え、オフィスから一緒にエレベーターに乗り込んだ。
同僚と一緒にどこかに行く、なんて何年ぶりだろうか。飲み会などにはときたま参加してはいたものの、プライベートまで一緒に行動をする同僚というのはここ何年もいなかった。
というのも、仲良くしていた同僚は寿退社をしたり、海外の会社に勤めるために退職したり…そのため、元同僚とは連絡を取り合うものの、現在の同僚とはそこまで仲良くしている人もいなかったのだ。

「河合さん、聞いて下さいよ、村田さんが…」
「本当に?それは面白いね!」

会社からI駅の西口までは徒歩10分くらいだろうか。それでも、車の通りの多い道路を渡るため、信号待ちを含めると、遠い道のりのように感じた。
だが、石井くんと話していると、時間が経つのも早かった。他愛のない話をして、目的地のバーにたどり着いた。

「läkaです」
「れーか?」
「はい!スウェーデン語で、癒しという意味らしいです!」

そうなんだ、と返事をしながら、石井くんの後を追いかけるように、バーのある2階へと階段を上った。
店内は木を基調とした作りになっていて、明るすぎず暗すぎずの優しい照明に照らされたバーカウンターに、テーブル席が3つ程。各テーブル、バーカウンターに小さなロウソクの飾りが置かれている。
先に来ていたお客さんは二人組の男性だった。彼らはバーカウンターの端っこで、煙草を吸いながら世間話をしていた。
綺麗な店内にいると、そんな二人の男性まで素敵に見えてくるものだ、と内心で思った。

「こんばんわ、マスター!」
「あぁ、いらっしゃい、健太くん。テーブル席にするかい?」

バーカウンターの後ろでグラスを拭いていたマスターは、私を見てテーブル席を案内した。そんなに大きくない店内の、奥まった所にあるテーブル席に座った。
「弟とデート」ふと、先日電車の中で聞いた女子高生の会話を思い出した。そうだな、彼女たちのように仲が良ければ、こんな風に兄弟でバーに行って、酒を酌み交わすのも良いのかもしれない。

「何にしましょう?」
「そうだな...アメリカン・レモネードをください」
「それと、ビールで!」

石井くんは元気な声でお酒を注文した。改めて、石井くんの顔を見てみた。短めに切りそろえられた髪の毛、外回りのおかげでこんがりと焼けた肌。
一重だけど、細すぎないしっかりとした瞳。会社で仕事の話はするが、こうまじまじと石井くんの顔を見たのは初めてだった。

「僕の顔、何かついてます?」
「あ、ううん...石井くんってこんな顔してたんだなぁ、て思って」
「へ? どういう意味ですかそれ!」

石井くんは、不思議そうな声を出して軽い笑い声を出した。意味などはない。本当に、こんな顔をしていたのか、と思っただけだったから、どう答えていいか分からなかった。

「とりあえず、乾杯しましょ!」
「う、うん...」

少し気まずい空気が流れたが、マスターがお酒を持ってきてくれたお陰で、なんとか空気を変えることが出来た。

この乾杯から、私たちは他愛のない会話をしていった。
取引先の社員の面白い話、電車で見かけた子どもの可愛い話、動画で見つけた感動した動物の話...
石井くんとはとても話しやすかった。まるで昔から知っていた友達同士のように、時間を気にせず話し続けた。
お酒も3,4杯は飲んだだろう。しばらくお酒から離れて生活していたため、久しぶりのカクテルもウィスキーも美味しく感じた。

「うわー、もう22時なんですね!終電、大丈夫ですか?」
「そうだね、あと1杯くらい飲んだら帰ろうかな」

飲み始めたのは18時半過ぎくらいだったと思うが、気が付くと3時間も経過していた。一人で家にいるとき、スマホをだらだらと見て3時間経過した時とは違う、人と一緒に話すことならではの楽しさがあった。
石井くんと私は、終電前の最後の1杯を頼んだ。

「河合さん、彼氏とかいるんですか?」
「今はいない」
「どれくらい、いないんですか?」
「そうだな...3年くらいかな」

いつの間にか、色恋についての話になっていた。3年の間、付き合った男はいないが、それなりに営みはしている。10代の無垢な少女でもないので、飲みに行った先で誰かと意気投合して、一夜を明かす...そんなことはしているが、「この人と一緒にいたい」と心がときめくような人はいなかった。

「僕は去年、彼女と別れたんですよね。仕事に集中し過ぎて、休みの日は疲れてデートなんかも断ってたら、私のこともう好きじゃないなら別れようって言われまして...」
「それは残念だったね。私は女だから、彼女の気持ち分かるよ」
「...河合さんも、休みの日は必ず会いたいって思う人ですか?」

ホットワインを飲みながら、元彼女の気持ちは分かると伝えると、石井くんは少し眉をひそめて聞いてきた。

「必ず...じゃなくてもいいけど、会えたら嬉しいよね」
「やっぱり、女性はそうなんですね」

もちろん、私にも一人で過ごしたい休日があるし、無理に彼氏と会おうとする必要はない。こう思ったが、あえて言う必要はないだろうと思い、口を閉じた。

「河合さんは男にべったりしないタイプだと思いましたけど...」

そう言って、石井くんは飲んでいたハイボールを置いて、テーブルの上に何気なく置いていた手に触れてきた。

「手、小さいですね」
「...うん、小さいの」

石井くんの大きく温かな手に包まれる。私の表情を確認するでもなく、手持無沙汰のように大きな親指が私の手の甲を、そろりそろりと撫でていた。
26歳。営業部2年目、人当たりもよく、仕事も卒なくこなせる男の子。
爽やかな笑顔で、年上の女性にうまく取り入ることが出来る特技もある。
こんな子が私の弟だったなら、もっと良好な関係を築けていたのだろうか...

「河合さん、僕の部屋に来ませんか」
「...うん」

20代後半であれば、自分本位な営みはしないだろう。勝手に石井くんと交わるシーンを想像した。


石井くんの住むアパートに着いたのは、夜中1時頃だった。
N駅から徒歩10分程。その間も手を繋ぎ、人目のない場所になると唇を重ねた。

「んっ...」

玄関の扉を閉めてから始まった、キスの嵐。ごつごつとした男性特有の腕に強く抱きしめられ、強引に入ってくる舌は、激しく口内を犯す。
お互いを食べあうように、舌を絡ませ、唇をついばむ。あぁ、久しぶりに男に犯されてるなぁ...そんなことを思いながら、最後に飲んだホットワインのお陰で、目を瞑ると意識が遠のいていくのを感じた。

「河合さん?」
「ごめん、もう、限界...」

少し悲しそうな声音の石井くんをよそに、私は石井くんの腕の中で体が崩れていくのを感じた。


光の眩しさを感じて、目が覚めた。起き上がってみると、ベッドの上にいた。
石井くんの姿はない。玄関でキスをして、眠気に勝てず落ちていった昨夜を思い出す。石井くんには悪いことをしてしまったな...そんなことを思いながら、ベッドからおり、寝室を出た。

「おはようございます」
「おはよ...」

寝室を出るとリビングでは、コーヒーを飲みながら、換気扇の下で煙草を吸っている石井くんがいた。少し罪悪感を感じるものの、石井くんは笑顔で挨拶。

「河合さんも、コーヒー飲みます?」
「うん...トイレ、借りるね」
「あ、こっちです」

リビングの先にある扉を開けて、トイレのある場所を教えてくれた。
用を足しながら思った。広いリビングに、お洒落なカフェなどで見かける高そうなトイレ。N駅まで徒歩10分以内で、2LDKくらいはあるだろうか...
まるで家族が住むような広さ。しかも、都心に近い場所でこの広さは賃料も20万は軽く超えるのではないだろうか。

「コーヒー、甘めが好きだったら自由に使ってください!」
「ありがとう」

用を足し終えてリビングに戻ると、コーヒーと一緒にミルクポーションと砂糖の入った瓶をダイニングテーブルに用意してくれていた。

「昨日はごめんね」
「え、何がですか?」

突然の謝罪に、石井くんは驚いた顔をしていた。煙草を吸い終え、マグカップを持ってダイニングテーブルの方に来た石井くん。

「私、寝ちゃって...」
「え、そんな、気にしないでくださいよ!」

私の隣に座り、そっと腰に腕を回してきた。私の瞳をしっかりと捉えて、微笑んだ。

「河合さんの寝顔も見れたし、僕は満足です」

そう言いながら、石井くんは私を抱き寄せて、履いていたスカートをまくしあげ、露わになった太ももをなぞり始めた。

「悪いと思ってくれるなら、今からでもどうですか?」
「きゃっ...」

私の髪の毛をかきあげて、左耳を舐め始める。その行為に、体は素直に反応し、ビクッと震えた。存分に耳を犯した後、私の体を自分の方へ振り向かせ、またキスが始まった。
今度は眠らせない、とでも言うように、石井くんの左手はサマーニットをたくし上げ、胸を揉みながら、蕾を人差し指でいじり始めた。

「やっ、あぁ...」

唇が離れ、次は胸を両手で揉みしだきながら、蕾を舌で転がし始めた。優しく、激しく石井くんの舌は動く。赤ちゃんのようにその蕾を吸ったり、いやらしく舐め回したり。
念入りに胸をいじられ、脳天が痺れていくのを感じた。気持ちよさに体はビクンッビクンッと震え、下着がじんわりと濡れていくのが分かった。

「濡れちゃったね...感じやすいの?」
「うん...」

石井くんの左手はスカートの中の濡れてしまった下着へとたどり着いていた。そして、男らしい長い指は布を超え、直接、秘部をいじり始めた。

「あっ...」

中はもう濡れていたため、石井くんの指はすんなりと入っていった。そして、その指を激しく動かし始める。

「あっ、あぁ!」

抑えられない声。両足を自ら広げ、石井くんの指を全身で感じる。指でピストン運動をしている間も、石井くんの舌は胸を犯し続けていた。
十分に濡れそぼったのを見た石井くんは、私をダイニングテーブルからソファへと移動させ、スウェットを脱ぎ始めた。私も服を脱ぎ、下着も取り、ソファの上で両足を広げた。
大きくいきり勃ったモノにゴムをつけて、挿入する。硬いそれが入ってくるのを感じていると、

ピンポーン

呼び鈴が鳴った。
一瞬、二人して顔を見合わせたが、石井くんは動きを止めなかった。そのまま奥深くまで一気に突き上げ、私の反応を見ながらゆっくりと動かしていく。

「あっ...あぁ!」

ゆっくりだった動きは、だんだんと激しさを増していく。私の感じている顔を見ながら、唇を重ね、二人の興奮した吐息が静かなリビングに響き渡った。
もう一度呼び鈴が鳴ったが、私たちはもう気にかけることはなく、お互いの快感を求め、永遠にこの快感が続けばいい、そんなことを思いながら、二人して腰を動かし合った。


朝から二回も互いを求めあった後、シャワーを借りた。浴槽も男の人がゆっくりと足を伸ばせる程広かった。
正社員二年目で、うちの会社の給料だけで、こんな良い所に住めるはずはない。
石井くんはお金持ちの家の生まれなのか...?そんなことを思いながら、バスルームを後にした。

「こっち!」

先にシャワーを浴びていた石井くんは、ソファの上でコーヒーを飲みながら、テレビを見ていた。
言われるままに、用意してくれた大きなTシャツを着て、隣に座る。

「ここに座って!」
「あ...うん」

石井くんはにこっと笑いながら、自分の足の間に座るようにと言ってきた。素直に従うと、嬉しそうな顔をしていた。
大きな体に包まれるように、ソファに座り、ぼうっとしながらテレビを見る。
ふと、気になったことを聞いてみた。

「ここ、高いよね」
「あ、このマンション、叔父が管理してるんですよ。親戚のよしみで格安で住まわせてもらってるんです」
「そうなんだ...」
「一人でこんな部屋借りたら、僕の給料じゃ払いきれないです」

ははっと笑いながら、コーヒーをテーブルに置いて、ぎゅっと抱きしめてきた。
そうか...叔父が管理しているマンション。だから、正社員二年目の男の子なのに、こんな広い部屋に住むことが出来るんだ...石井くんの答えに納得しながら、石井くんの体に体重を預けた。
土曜日の11時過ぎ。都心部のお洒落なカフェをめぐる、という番組が流れ、久しぶりに恋人同士のように過ごす時間。
営みが終わった後、こんな風に抱きしめられたことはなかった。一夜限りの相手とは、行為が終わったら、さっさと解散する。それが一種のマナーかのように、冷たいような、後腐れのないような、そんな風に終わっていた。
だから、久しぶりに感じる甘い時間は...女心も高揚するように思えた。

「そろそろ、帰るね」
「え、もっとゆっくりしてって下さいよ」

石井くんの体にもたれかかったまま呟いた。折角の休日を男と過ごすのも悪くない。悪くはないが...私にも休日にやりたいことがある。
石井くんは寂しそうな声をあげたが、ソファから立ち上がり、着てきた服に着替え始めた。
すっぴんで電車に乗ることに少し抵抗はあったものの、仕方がない。昨日、出勤する時点では、仕事が終わったら真っ直ぐ帰る予定だったし、お泊りをする準備もしていなかったし。

「じゃぁ、また、会社でね」
「はい!」

服を着替え終わると、すぐに荷物を持って玄関に向かった。相変わらず、寂しそうな顔をしたものの、石井くんは元気な声で答えた。
石井くんの部屋を後にすると、10月なのに夏らしい熱気を感じた。まだ、残暑は続きそうだ。

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