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無意識の差別とズートピア

わたしは毎年アカデミー賞授賞式を楽しみにしている。煌びやかな衣装、感動的なスピーチ、きらきらした雰囲気や皆が受賞者を称え合う姿全部ニコニコしながら見ている。特に好きな回はエディ・レッドメインが博士と彼女のセオリーで最優秀主演男優賞を撮った時のスピーチ。チャーミングで本当に大好き。何度も見ている。
私は賞で鑑賞する映画を選ぶことはあまり、というかほとんどしない。filmarksで映画を調べる時はどのサブスクで配信されているか確認する程度で、賞の欄はほぼ見ない。でも作品賞を取った作品は欠かさずチェックしている。羊たちの沈黙は作品賞を取った唯一のスリラー映画として知られているが、何度観ても本当に面白くて、ハンニバル・レクターを演じるアンソニー・ホプキンスを恐れ、何故か羨望の眼差しを向けてしまう。

と、アカデミー賞への愛はこの辺にして、今年のアカデミー賞でのRDJとエマ・ストーンについて。彼らの演技はとても大好きだし、ラ・ラ・ランドなんてほんと言葉にできないくらい最高、なのはわかってる。けど悲しかった。彼らが本当に無視したのか、それは誰にも分からない。けど心はモヤモヤしたし悲しかった。渡したのがメリル・ストリープやロバート・デ・ニーロでも同じような行動をしたのだろうか、と考えてしまった。アジア人が無視されることをアジア人の透明化と言ったりするが、もしかしたらそうかもしれない、と思ってしまった。もし彼らがあからさまに嫌そうな顔をしたり、差別的な行動を取っていれば世間はもっと楽に批判できた。でも多分本当に、彼らは差別したなんて1ミリも思っていない。差別は大抵無意識に行われるんだとつくづく実感する。今年オーストラリアの歴史についての授業を取っていた。教授が「オーストラリアの人は皆とてもいい人です。なにか特別な差別を受けたことは1度もありません。でもぼくがバスに乗った時隣に座ってくる人はまずいません。混んでてもいないですね。」と言っていたのを思い出した。社会の中で無意識の差別はこうやって根を張っているのだと思う。


ズートピアという大傑作ディズニー映画がある。作中うさぎのジュディが「肉食動物は生物学的に凶暴になりやすい。」といった趣旨の発言をしてしまい、そばにいてくれたキツネのニックやズートピアの肉食動物を傷つけてしまうシーンがある。この映画では誰もが偏見や差別に繋がる価値観を持っていることを表現していて、無意識の差別がどこでも起こりうるのだと訴えている。
 ジュディはおひとり様用にんじんを味わうことなく捨ててしまう。一方ニックはネズミ用のケーキを美味しそうに味わう。ジュディは自分がうさぎであることについて「可愛い」と見た目で判断されることをとても嫌う。その割に周りのことについて見た目で判断してしまう。このちょっとしたバイアスのようなものは私たちの社会全体に蔓延しているのではないか。

 このちょっとしたバイアスと無意識的な偏見や差別が染み付いた結果今回のような心がモヤっとしてしまう行動が現れてしまうのではないかと思う。気のせいという人もいるし、舞台裏では仲良くしてたよっていう人もいる。でもこの心のもやもやを私は忘れたくない。 

島国という他国との繋がりが薄い国で育ち、外国人と関わる機会が少ない社会で育った日本人の私には差別というものが上手く理解できない。差別された経験はない。なぜ肌の色が違うだけで、文化が違うだけで、宗教が違うだけで差別されるのか、歴史として、事象として理解出来る。でも根本は理解出来ていない。おなじ人間なのにと思ってしまう。私は国際的に見れば人種的に圧倒的弱者として生きている。日本という日本人が圧倒的マジョリティで生活していると自分が差別される立場にあるはずがないと思ってしまう。でも現実は違う。多様性が叫ばれる世の中なのに、肌の色で差別される社会に生きる矛盾を感じてむず痒い。

彼らを今回の行動だけでレイシストと決めつける気は全くない。しかし、彼らの行動が私の心をほんの少し引っかいて傷つけたことだけは確か。これを何となくで終わらせたくなかったし、もっと私たちは怒っていい。飲み込まず、声をあげていい、そう思いたい。


今回のアカデミー賞で、私の中でキリアン・マーフィの株が爆上がりしました。ほんとうに。


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