見出し画像

西の魔女が亡くなった

祖母が亡くなった。
父から連絡を受けて、頭の中に浮かんだ言葉は
この題名だった。私と、私の家族を長らく苦しめてきた西の魔女が亡くなった。

享年105歳。大往生の大往生もいいところだ。祖父が亡くなった時は確か82歳だった。つまり彼女は23年間も未亡人だったのか。もともと元気なひとだったが、一人になってからも、とてもとても元気だった。


私の実家は学歴重視の家庭で、有名大学に入ってないと人間じゃないみたいな、発言権も与えられないような、そんな家だった。別に家柄が素晴らしいわけでもなく、一族にそのような考え方を根付かせたのは、単に祖母の価値観がそのようなものだったからだ。祖母は小さな頃に母親を亡くし、何でも自分でやってきた人で、とても強かった。看護師で民生委員で浪曲と生花の先生でもあった。努力の人だ。努力こそすべて。努力の結果である学歴を人の判断基準としていた。

祖父がたまたま優秀でスゴイ人だった。私自身、彼をとても尊敬している。祖父の血が流れていることを誇りにも思っている。どのようにスゴイかを表すには、私の語彙力で全く表現できそうもないため、スゴイ人だと自慢するに留めておく。スゴイんだぞぉ🐘

祖父がスゴくて人望も厚かったため、周りには優秀な人たちが続々と集まった。これにより祖母は学歴が高くてすんごいところにお勤めしている人はすんばらしい!という価値観に拍車かかったのかもしれない。一人息子の父に対して、とても期待が厚かったらしいが、残念ながら父はそんなにすんごい人にはなれなかった。そこそこの大学に行って普通のサラリーマンになった。祖母はそれを恥じていた。だが、そのことに対して1番傷つき恥じていたのは父自身であった。

私の叔母にあたる父の姉達は、すんごい祖父のおかげで、これまたすんごい人達に嫁いだ。これにより親族で集まりがあると父はいつも肩身が狭かった。祖母もまたそのような場で叔母の旦那達を褒める褒めるエンドレス担ぎ上げるものだから、父は針の筵だったに違いない。わざとやってるのかやってないのか今となっては分からないが、容赦ない人だった。

さぁこのような背景により、当然のごとく父は、すんばらしい大学に入ってすんごい人になれ!と自分が果たせなかった重責を私たち兄弟に背負わせることとなる。自分の子供達が優秀であれば、祖母を見返せると思ったのかもしれない。いや頑張るべきなのはお前だろ?と今となっては思えるが、当時の私は必死だった。

いい大学に入らないとこの家では認められない。どういう育て方してるのと祖母に母が怒られてしまう。いつも隠れて泣いている母を私は知っていた。勉強しなきゃ勉強しなきゃ、、大企業に入らなきゃ、、、そんなプレッシャーを抱えながら私は思春期時代を過ごした。


歳の離れた兄はそういった確執を一切受け付けなかった。学歴?くだらない!!ばっかじゃねーの?と、全力でNO!!と反抗しまくって適当に入れる大学に行って、自分のやりたいことをやった。髪を金髪にしたり、音楽やったり、会社辞めたりDJになってみたりパーティーピーポーチェケラッチョォオオぱふぱふ!どんだけー!徹底的に祖母や父が嫌がることをやっていた。

そうして順調に家庭崩壊を遂げた我が家である。残された私は、いやもう、、兄があんなんだから私がやるしかないじゃないかと一人で期待を背負うことになる。母が泣くのはもう嫌だったからだ。哀しそうな父も見たくなかったからだ。



つづく〜


思ったより長くなってしまった。完全に自分史なんだけど、これ面白いのかな。面白くないだろうけど、自分のために書く。


文章を書くことをどうにかして夢に繋げられたらなと思っているのです。 頑張ります!