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自己表現することで何か救われていく感覚

お願い誰か。ありのままのわたしを、そのままでいいよと認めてほしい。受け止めてほしい。

若い頃はずっとずっとこのような思いを人知れず抱えていたように思う。とても寂しかったわたし。うまく甘えることができなかった子供時代の影響なのか、自己肯定感の低さによるものなのか。それともHSPであるが所以の生きづらさからなのか。何をやっても孤独感は拭えなかった。

前の夫と結婚した時、これでもう楽になれると思った。寂しさとはおさらば、ずっとこのひとが一緒に居てくれるし大丈夫だと。ところがそうではなかった。よく言われることだが、結婚はゴールではなくスタートだったのに、私はそれを理解していなかった。自分の心の弱さに立ち向かうのを放棄して、寂しさを結婚相手に丸投げした。配偶者が自分の全てを受け入れて支えてくれるのは当たり前だと考えていたのだ。

前夫が他の女性と浮気していることを知った時、私はどうしてもそれを許すことができなかった。それは彼の不貞行為が悲しかったというよりかは、私の抱えてきた孤独感が全く理解されてなかったことの方が悲しくて、許せなかったのだと思う。そんなことをしたら私が精神的に破綻するって思わなかったのかな?なんて酷い仕打ちなんだろうって。前夫が外へ逃げた理由を考えもせず。

もちろん90%いや95%は絶対に浮気したあちらが悪いのだけれど、私は婚姻中、前夫に求めるばかりで、相手を受け入れ理解する努力はしていなかったように思う。記憶の限りでは。ただただ精神的に依存して、夫が自分に寄り添ってくれないことや向き合ってくれないことに対して不満ばかりぶつけていた。自分の機嫌は自分で取って精神的に自立し、正しく彼と対話することができていたら、また展開は色々違ったのかもしれない。まぁそう思えるようになったのは10年以上経った今だからこそなのだが。

自分さえ持て余している感受性の強さを人様にどうにかしてもらおうとすること自体がそもそも間違いだった訳で。


私の孤独感は、幼少期の家庭環境の悪さが根本的に起因しているけども、でも結局は、自分が突き詰めて考え込み過ぎることに一番の原因があるのではないかと40代になってから気がついた。その繊細さゆえに、自分が感じたことを自己処理できなくて、そんな自分を解ってもらいたくて、誰か寄り添って欲しくて、助けて欲しくて、ずっと心細かった。だけどそんな人はいないという答えにようやく最近、やっとのことで辿り着いたのである。

そうか、人間は所詮1人だ。それを受け入れてしまうと、なんだかとても楽になった。そして偶然なのか必然なのか、同時に自己表現という方法を見つけることができた。それがTwitterとこのnoteである。これらの場所で自分の気持ちをチマチマと綴ることで、私はとても救われるようになったのだった。息がまともにできるような感じというか。

思えば、小さな頃から日記帳は一番の友達だったし納得がいく。自分との対話。自分の考え事を書くことで、自分の中の生きづらいと感じさせられるよく分からないナニカが溶けていくように感じる。思考を整理しながらも、不要な感情は添削して捨てているような、不思議な感覚。

もしかすると、私にはずいぶん前からきちんと自分自身がずっとそばに居て、ほんとうは孤独ではなかったのかもしれない。だからこそ何だかんだで今日まで生き延びてこられたのだろう。

今夜は書いててそんな結論に辿り着いた。



顔も名前も知らないどなたかがこれを読んでくださることで、やはりまた救われています。読んでくれてありがとう。おやすみなさい。



文章を書くことをどうにかして夢に繋げられたらなと思っているのです。 頑張ります!