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小説「弦月湯からこんにちは」第8話(全15話)



これまでのお話


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第8話


 その夜、久しぶりに獅子頭の男の夢を見た。

 驚いたことに、いつもの白い部屋の中ではなかった。子供の頃に遊んだ公園で、獅子頭はブランコを漕いでいた。獅子頭の表情はわからないが、うっすらと微笑んでいるような空気を感じられた。空を見上げると、夕方の時分だということがわかる。

 獅子頭と目が合った。獅子頭はブランコを漕ぐのをやめると、座ったまま私を静かに手招きした。躊躇したものの、その招きに乗ってブランコに足を進める。彼は立ち上がると、自分の隣のブランコを無言で私に奨めた。

「なんのつもり?」
「別に。ただ、この公園でブランコ遊びをしないかい?」
「なんのために?」
「なんのためでもなく。ただ、儂がイチコとこの瞬間を一緒に過ごすために」

 獅子頭の男の声は、驚くほどに静かで柔らかかった。私は戸惑いながらも、ブランコに腰をおろした。獅子頭の男は、ブランコを漕ぎ始める。私はそれを眺めた。

「こうしていると、昔を思い出すな」
「……あんたが私の夢に出始めた頃のこと?」
「違う、違う。もっと昔の話だ」
「もっと昔?」
「こんな夕焼けの日に、一緒にブランコ遊びをしたことがあっただろう」
「え?」
「イチコは泣いて、まだ帰りたくないと言った。それでも儂は────」


 ぱちっと瞼を開けた。暗い天井が広がっている。私は布団に身を横たえたまま、首を左右に動かした。そうだ、こっちが現実。ここは弦月湯の離れ、7号室。いま、私が暮らす部屋。

 枕元のスマホを確認する。午前3時半を少し回った時間。変な時間に目が覚めてしまった。

──「こんな夕焼けの日に、一緒にブランコ遊びをしたことがあっただろう」

──「イチコは泣いて、まだ帰りたくないと言った。それでも儂は────」


 夢の中の獅子頭の男の言葉を反芻する。子供の頃の記憶なんて、すっかり薄らいでいる。あんな獅子頭と会ったことなんて、ましてや一緒にブランコを漕いで遊んだことなんて、あるわけがない。私はなんだか腹立たしくなって、布団から立ち上がった。お手洗いに行きがてら、下で水を飲んでこよう。

 用を済ませてから階下に降りると、台所の灯りがついている。誰か起きているのだろうか。いずみさんにせよ、暦くんにせよ、顔を合わせるのに少し恥ずかしさを感じたが、どのみち毎日暮らしを一緒にしているのだ。私は恥ずかしさをぐっと飲み込み、台所のガラス戸を開けた。

「あら」

 起きていたのは、いずみさんだった。眠そうな目をしばたたかせながら、パソコンと向き合っている。

「遅くまでお仕事ですか」
「ええ……ちょっと。お水飲みますか?」
「あ、はい」

 いずみさんは立ち上がると、流しに置いたままの暦くんのマグカップを布巾で拭いて、水を汲んでくれた。そういえば、このマグカップはずっとここに置きっぱなしだった。この二週間、暦くんはどんな思いで眺めていたのだろう。

「どうぞ」
「ありがとうございます。あと……お夕飯もありがとうございました」
「お口に合いましたか」
「はい……! ありがとうございます」

 いずみさんの眼鏡の奥の眼差しが緩んだ。

「……まさか、暦くんがいずみさんの従弟さんだとは思いもよりませんでした」
「言い出せなくて、ごめんなさいね」
「いえ……。こちらこそ、あんなひどい状態だったのに受け入れてくださって、本当にありがとうございます」
「とんでもない。こちらこそ、いつもありがとうございます」

 沈黙が訪れた。話の接穂を失ったまま、私が考えを巡らせていると、いずみさんがややあって口を開いた。

「……壱子さん、お願いがあるのですが、いいでしょうか」

 驚いて、いずみさんを見つめる。ポーカーフェイスを装ってはいるものの、いずみさんの表情からはわずかに戸惑いと悩み、そして微かな覚悟が感じられた。

「私でお役に立てることでしたら」
「ありがとうございます。……もしよろしければ明日の午後、オンラインミーティングにご同席いただけないでしょうか」
「え?」

 弦月湯に似つかわしくない言葉に驚いた。でも、ほかでもない、いずみさんからの願いだ。断る理由は何もない。

「オンラインミーティングですね。お相手は?」
「……弦月湯を買い取りたいとおっしゃる企業さんです」
「え……!?」

 予想外の言葉に、心臓を掴まれたようになった。

「すぐに、という訳ではないのですが……。ただ、以前よりご先方から強いご要望をいただいていて」
「……相手方の企業の名前を教えていただいてもよろしいでしょうか」
「株式会社シャボンフロンティアさんです。都内で銭湯のリノベーションを手掛けられている会社さんです」
「いずみさん、ちょっとパソコン貸してもらっていいですか」

 私はパソコンの画面に向かう。Googleで「シャボンフロンティア」と打ち込み、検索するとすぐに会社のWebサイトが上がってきた。クリックする。華やかな色合いのトップページから「☆おふろ☆」と書かれた項目をクリックする。清澄白河や浜町、この近くだと西日暮里でも事業を展開しているらしい。清澄白河の店舗をクリックする。どうやら、廃業した銭湯の建物や設備をリノベーションして、新しくエンターテインメント性の高いスーパー銭湯に生まれ変わらせているらしい。これはこれで、行ってみたい銭湯ではあるが、弦月湯の方向性とは違っているのではないだろうか。私は眉根を寄せた。

「相手方は何と言ってきているのですか。いつ頃からのことか、差し支えなければ教えていただければ」
「……2年半ほど前、ご先方がうちを引き取りたいと言ってきたんです。ずっとお断りしてきたのですが、年々客足は遠ざかる一方で……。そこに今回のウイルスの影響を大きくかぶってしまったことで、ご先方が『話だけでも聞いてくれないか』と強くおっしゃってこられて……」

 いずみさんは俯いた。

「私ひとりの力ではここまでが限界かと思い、弱気になっておりました。明日のミーティングに向けても、何も知恵が浮かんでこず、どうしたものか途方に暮れておりました。明日で何らかの方向性が決まってしまう可能性もなくはないのですが、壱子さんがご同席くださればたいへん心強いかぎりです。」
「……いずみさんは、弦月湯を守っていきたいんですよね?」
「はい」

 いずみさんは、きっぱりと答えた。私もまた、覚悟を決めた。そうだ、ここで生きていくほかないのだ。失うものは、もう何もないのだから。そして、私に出来ることが明確に見えているとするなら、あとはそれに従うのみだ。

「いずみさん、明日の朝までご一緒にお時間いただいてもいいですか?」
「もちろんです。……壱子さん、何か考えてくださるんですか?」
「弦月湯をこのまま残していけるような事業計画を練ります。午後のオンラインミーティングまでに、いずみさんも納得できるような対抗案を作りましょう」

 いずみさんは、口元に両手を当てた。瞬きが多くなり、鼻がみるみる赤くなっていく。私はそっと視線をそらして、パソコンの画面を見つめた。

 さあ、久しぶりの徹夜だ。忙しくなるぞ。




(つづく)



つづきのお話


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※第13話は、5/29(水)公開です。














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