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【2万7千字無料公開】高橋和夫『パレスチナ問題の展開』、はじめに〜第二章まで試し読み公開!

2023年10月7日の、イスラム組織ハマスによるイスラエルへの攻撃と、イスラエル軍の報復攻撃から4ヶ月以上が経過しました。ガザ地区の保健当局によると、これまでの死者数は3万人近くにのぼるといいます。

虐殺が続くこの異常事態の背景には、何がそびえ立っているのか? 中東研究の第一人者・高橋和夫先生による『パレスチナ問題の展開』は、「複雑で難しい」と考えられているパレスチナ問題を、丁寧に解きほぐす最良の入門書です。

本書の読みやすさ、わかりやすさをもっと多くの方に知ってもらうべく、冒頭を2万7千字ほど無料公開いたします。2021年刊行の本書は、パレスチナ問題以前のパレスチナから、ハマスとネタニヤフ、そしてバイデン米大統領就任までの範囲をカバーしています。数ある入門書の中から何を読んでいいかわからないという方に、ぜひおすすめしたい一冊です。

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はじめに

 動かないものは何か。中東の動向を見る際のポイントである。つまり何が変わり、何が変わらないのか。変わらない構造を見つめつつ、変わる情勢にも目配りしたい。本書での著者の試みである。本書の母体となったのは、『第三世界の政治 パレスチナ問題の展開』(放送大学教育振興会、一九九二年)である。放送大学のラジオ科目のテキストとして準備した。その後に改訂版を二〇〇五年に出版した。一九九二年版から数えると、本書は第三版という計算になるのだろうか。時代の流れを反映すべく大幅な改訂を行った。これまでパレスチナ問題に関しては、いくつもの著作を発表してきた。これが、著者のパレスチナ理解の現段階での最新版である。

 一九九〇年代以来、変わらなかったのはイスラエルによる占領であり、変わったのはアメリカ・イスラエル関係である。変わったものと変わらなかったものの、意味を本書で考えたい。

二〇二一年二月末
高橋和夫


第一章 パレスチナ問題以前のパレスチナ

「国のない民へ、民のいない国を」
シオニズムのキャッチ・フレーズ

五百周年

 十九世紀以降、人類は民族主義の時代の中にいる。お国のために死ぬという非合理的行動に集約されるこの民族主義という考えは、二つの世界大戦の、そしてナチスによる「ホロコースト」(ユダヤ人大虐殺)の遠景をなしていた。ホロコーストは突然、また偶然に発生したのではない。ヨーロッパのキリスト教社会が長年にわたって育んできた反ユダヤ主義の破局的な発現であった。中世以来、ユダヤ教徒はキリストを裏切った者の子孫として嫌悪され、蔑視され、そして必要とされていた。なぜならば金貸し業に対する宗教的アレルギーがキリスト教徒には強く、キリスト教徒は金融業に従事しなかったからである。しかし、社会は金融業を必要としており、そのためにユダヤ人がその隙間を埋めることとなった。「もしユダヤ人がいなかったとすると、ヨーロッパはユダヤ人を発明する必要に迫られたであろう」とフランスの哲学者のジャン=ポール・サルトルが言ったようにである。ヨーロッパの中世史をどす黒く染めるユダヤ人迫害の嵐の頻発もユダヤ人を絶滅させることはなかった。なぜならば社会がユダヤ人の金貸しを必要としていたからである。当時のカトリック教会の強大な力をもってすれば、ユダヤ人を強制改宗と追放とによって一掃することも可能であったはずだ。なお、ユダヤ人とユダヤ教徒をここでは同じ意味で使っている。
 現にスペインではレコンキスタ(スペインのキリスト教徒による再征服)完了の年である一四九二年以降にムスリム(イスラム教徒)とユダヤ教徒が改宗を迫られ、拒絶した者は追放の憂き目にあっている。一九九二年をコロンブスのアメリカ「発見」の五百周年として祝う傾向が一部にはあったが、ユダヤ人とイスラム教徒の間では反発が強かった。それは長年にわたる両者のイベリア半島での生活基盤が根こそぎにされた事件の五百周年でもあったからだ。この問題に関してだけは、最近は反発しあうことの多いムスリムとユダヤ教徒が同じ側に立ったのも興味深い。

 勤勉かつ有能なユダヤ人を排除したこともあって、スペインはオランダやイギリスなどの新興の重商主義諸国との競争に敗れていく。スペインの没落の種がその国力の隆盛期に播かれていたわけだ。金貸しのいない国で経済が繁栄するはずはない。現に追放されたユダヤ人の一部はスペインの強力なライバルとなるオランダに移住した。また多くはオスマン帝国に受け入れられた。勤勉な納税者を宗教の違いを理由に追放するなどとはオスマン帝国の支配者であるスルタンには理解を超えた狂信であった。そのため、今日でもイスタンブールには十五世紀のスペイン語を話すユダヤ教徒が残っている。

 スペインは、そしてその例に従ったポルトガルは例外であった。ヨーロッパの他の国々ではユダヤ人は度重なる迫害こそ経験したものの、そのコミュニティが消滅することはなかった。前述のように彼らが必要とされていたからだ。ユダヤ人を追放したスペインやポルトガルにしろ、あるいはナチス・ドイツのように絶滅させた国にしろ、いずれも大国としての地位を長く維持できなかったのは示唆的である。こうした歴史的行きがかりから、シェイクスピアの『ベニスの商人』に登場するシャイロックのような守銭奴のイメージがユダヤ人には付きまとうこととなった。

 ユダヤ人をゲットーから解放し、初めてキリスト教徒と同等の市民権を付与したのはフランス革命政府であった。この革命の初期段階を特徴づけていた啓蒙主義的な、反カトリック教会の姿勢の反映であった。これは、ヨーロッパの各国での多数派のキリスト教徒との同化への扉をユダヤ人のために開く行為であった。

 しかしフランス革命は、もう一つの扉を開いた。民族主義の扉であった。革命によって王族支配を打倒した民衆は、国家を自らのものと感じ、その国家の主体である民衆の間での一体感を高めていった。そして運命を共にするとの感情である民族主義を燃え上がらせていった。やがてナポレオンが現れ、皇帝となって君臨するようになっても、一度燃え上がった火は消えることはなかった。ナポレオンは、この民族主義の炎に農民出身の数知れぬ兵の命を注いで数々の戦勝の栄光を我が物とした。「お国のために死ぬ」という民族主義の不思議な情念で武装されたフランス軍は、お金のために戦争をしていた近隣諸国の職業軍人を圧倒した。ナポレオンは無敵であった。近隣諸国に民族主義が伝染するまでは。やがてフランス軍に蹂躙された地域でも民族主義が起こり、ナポレオンの没落が始まる。しかし、敗れたナポレオンは民族主義を遺産として残した。この民族主義という情念が、以降の国際政治を突き動かす大きなエネルギー源となった。

 ところが民族主義の高まりは、ユダヤ人に対する迫害を鋭いものにした。自らの民族と他を峻別することで成立する民族主義は、ヨーロッパの各地で生活するユダヤ人を異物として排除し、自らの内に取り込もうとはしなかったからだ。東ヨーロッパではポグロムと呼ばれる激しいユダヤ人迫害の波が起こった。『屋根の上のヴァイオリン弾き』というミュージカルの時代背景であった。そのため、この地からのユダヤ人の聖地パレスチナへの移民が十九世紀の末には始まっている。その子孫は現在のイスラエル国民となっている。しかし、圧倒的に多くのユダヤ人は移民先として実はアメリカを選んだ。『屋根の上のヴァイオリン弾き』のテヴィエ一家のようにである。十九世紀後半から一九四一年までに四百万のユダヤ人が東ヨーロッパからアメリカに移住している。現在の在米五百五十万のユダヤ人の多くがこのときに移住した人たちの子孫である。そして彼らは今イスラエルの支持者となっている。両者の関係については後に述べることにしよう。

砲兵将校

 こうしたユダヤ人に対する迫害事件においても、特に注目されるのがドレフュース事件であった。これは、フランス軍参謀本部に勤務する唯一のユダヤ人であったアルフレッド・ドレフュース大尉が一八九四年にドイツのスパイであると濡れ衣を着せられた事件であった。文豪エミール・ゾラなどの支援もあって、結局はドレフュースの無罪が証明された。しかし、ユダヤ人をいちはやく解放し、ユダヤ人の同化が最も進んでいると思われていたフランスでの事件だけに、ユダヤ人の受けた衝撃は大きかった。反ユダヤ主義に対して理性で立ち向かおうとする流れが弱まっていった。偏見や差別といった非理性、反理性的なものに対し理性で立ち向かうのは不可能であり時間の浪費である、との議論が強まっていった。ユダヤ人は自らの国を持たなければならない、との声が高まっていった。その中心人物は、このドレフュース事件を取材したオーストリアのジャーナリスト、テオドール・ヘルツルであった。ヘルツル自身もユダヤ人であった。なおドレフュースは、後に第一次世界大戦では五十五歳の齢を押して砲兵将校としてパリの防衛戦で奮戦している。そのフランスへの愛国心はドレフュース事件によっても揺るがなかったわけだ。
 ヘルツルは、自らの考えを『ユダヤ人国家』というパンフレットにまとめ、一八九六年にオーストリアのウィーンで出版している。ヘルツルの考えに同調する人々が集まりユダヤ人国家を建設しようとする運動が開始された。当初からこの運動がユダヤ人国家をパレスチナに建設しようとしていたわけではない。ユダヤ人が独自の国を持てればよいということで、その候補地として例えばイギリスの植民地であった東アフリカのウガンダなどもあげられていたほどである。しかし、やがてヘルツルらは、国家建設の土地としてパレスチナを選ぶこととなった。それは、そうしなければ宗教的なユダヤ人の支持を得られなかったからである。自分たちの祖先の地と彼らが考えたエルサレムのシオンの丘に因んだこの運動は、シオニズムとして知られるようになった。そして、その推進者たちはシオニストということになる。「国のない民へ、民のいない国を」というキャッチ・フレーズの下で、ユダヤ人のパレスチナへの流れは勢いを増した。

 しかし、そこは「民のいない国」などではなかった。パレスチナ人の居住地であり、イスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒が長年にわたって共存してきた地域であった。ちなみに、シオニストの移住が始まる前のパレスチナにおけるユダヤ教徒の数は、どう高めに見積もっても二万五千程度であった。そこにヨーロッパのユダヤ人がやってきて自分たちの国を建てるなどは土台無理な話であった。しかし、その無理が無理とも、無茶が無茶とも思われないような知的雰囲気が当時のヨーロッパには充満していた。十九世紀末から二十世紀初頭のヨーロッパは、民族主義と同時に帝国主義的な思考も高まった時代であった。圧倒的な軍事力でアジアとアフリカをヨーロッパが制圧した時期であった。そのため、アジアやアフリカなどはヨーロッパが望みさえすればどうにでもなるとの思考が強かった。シオニズムもこうした時代精神の落とし子であった。さもなければ、現実にアラブ人の住んでいる地域に自分たちの国を造るなどといった発想は出てくるはずもなかった。当初、東アフリカにユダヤ人の国を建てるとの案が出てきたのも、そうした思考の反映であった。

 シオニズムが始まったころにパレスチナを支配していたのはオスマン帝国であった。したがってシオニストは、当初はイスタンブールのスルタンの許可を得てパレスチナへの移民を進めようとした。例えば一八九九年にヘルツルは、移民の許可を求めたスルタンへの手紙の中で、ユダヤ人はアラブ人と平和的に共存しオスマン帝国の忠誠な臣民になるだろうと述べている。この翌年の一九〇〇年におけるユダヤ人の比率は、シオニストの努力にもかかわらずパレスチナの総人口のわずか九パーセントにしか過ぎなかった。

 第一次世界大戦の始まった一九一四年においても人口比は同じようなものであった。ユダヤ人八万五千に対しパレスチナ人七十万がいた。前者の所有する土地はパレスチナのわずかに二パーセントであった。第一次世界大戦においては、オスマン帝国はドイツ、オーストリアの同盟国側について参戦した。このためイギリスは、オスマン帝国の後方撹乱を狙った。オスマン帝国のアラブ地域で反乱を起こさせたのである。メッカの有力者シャリーフ・フセインとイギリス政府は書簡を交換し、戦勝後のアラブ人のオスマン帝国からの独立を約した。そして、その独立したアラブ人の国家の領土にはパレスチナが含まれるはずであった。これは、書簡を交換したフセインとイギリスの高官マクマホンの名前をとってフセイン・マクマホン書簡として知られる。この約束を受けてフセインは、イスタンブールに反旗を翻した。「アラブの反乱」として知られる事件であった。このときに「アラビアのロレンス」として知られるイギリスの情報将校が歴史に登場した。だが、ロレンスは単なる連絡係に過ぎず、映画化されたような重要な役割を果たしたのでは実際はなかったようだ。
 同時にイギリスは、世界のユダヤ人の支持を求めてバルフォア宣言を発し、戦勝後にパレスチナにユダヤ人の「ナショナル・ホーム」を樹立することを認めた。「ナショナル・ホーム」とは主権を持った国家ではないものの、その道程にある政治的存在である。つまり、イギリスは、同じ土地をアラブ人とシオニストの両方に約束したわけであった。そして、戦争が終わりオスマン帝国のアラブ領土の分割が始まると、結局イギリスがパレスチナを国際連盟の委任統治領として自ら支配することにした。これで、シオニストにもアラブにも不公平が生じなかった。紳士の国イギリスならではの三枚舌外交であった。

 委任統治の時代に入っても、「ナショナル・ホーム」樹立の約束を盾にシオニストの流入が続いた。そして、パレスチナにおける自らの将来に不安を高め始めたパレスチナ人の反発が激しくなっていく。ここで指摘しておきたいのは、ユダヤ人のパレスチナへの流入が土地の買収を通じて行われたことだ。パレスチナ人の間では土地を売らない運動もあった。しかし、貧しさ故にシオニストに土地を売却した者もいた。実際に貧しい村では子供たちは靴もはいていなかった。シオニスト組織は、世界のユダヤ人からの寄付を募り、その資金をパレスチナでの土地の購入にあてた。一九三七年までにパレスチナの五・七パーセントの土地がシオニストの手に渡っていた。これが、パレスチナへは正当な手段で移住したのだとのシオニストの主張の根拠を成している。またパレスチナ人以外のアラブ人が、建前ではパレスチナ人の権利の回復といういわゆる「パレスチナの大義」を口にしながらも、本音では「シオニストに土地を売り渡し、揚げ句の果てに国を奪われてしまったお馬鹿さんにはとても付き合いきれない」との感情を持っているゆえんでもある。さらに現在のパレスチナ人が、シオニストに土地を売ったパレスチナ人を非難する理由でもある。

 シオニストに土地を売り渡したパレスチナ人は、父祖伝来の土地を次の世代に引き継ぐという責任を果たさなかったわけだ。したがって、現在のパレスチナ解放運動の指導層が見ならおうとしているのはアルジェリアの独立闘争であり、キューバやベトナムの経験であって、決してパレスチナを失った世代であるイスラエル成立以前のパレスチナの指導層ではない。日本の一部には、この世代のパレスチナ人の闘争がパレスチナ人自身によっても正当に評価されていないとの意見もあるが、それはエアコンの効いた研究室で安楽椅子に座っている人間の発想であって、難民キャンプで呻吟するパレスチナ人のそれではない。現在のパレスチナ人の難民キャンプでは、父親の世代が、そして祖父の世代がしっかりしていれば、こんな苦難をパレスチナ人が味わうこともなかったのにという無念の感情こそが強い。パレスチナを失った世代に対する尊敬の念など、逆さにして振ったところで、ひとかけらも落ちてこないであろう。

逆三角形

 ところで、パレスチナに入植したユダヤ人とパレスチナ人の間の共存は不可能だったのだろうか。シオニストの到着前のパレスチナでは、少数とは言えユダヤ教徒がイスラム教徒やキリスト教徒と長年にわたって共存してきたのではなかっただろうか。ヨーロッパからやって来た人間が成立させたユダヤ社会はパレスチナにおけるヨーロッパの飛び地であり、現地社会との間には埋め難い隔絶があった。またユダヤ人の資本と技術力が現地の労働力と有機的に結びつくことも少なかった。それは、一つにはシオニストたちが夢見ていたユダヤ人国家の理想像の問題であった。シオニストの見るところによれば、ヨーロッパのユダヤ人社会は歪な逆三角形をしている。「ふつう」の社会には底辺に大地に足をつけた農民がおり、そして農民よりはるかに少数の非農民がいる。医者、弁護士、研究者、芸術家、商売人などである。つまり、農民層という広い底辺に支えられた安定した三角形をした社会である。ところが、ヨーロッパのユダヤ人社会には農民がほとんどいない。それは、農村からユダヤ人が排除される例が多かった結果であったのだが。そのためユダヤ人の多くは商売人であり、医者であり、弁護士であり、芸術家であった。つまり、ヨーロッパのユダヤ社会は農民という底辺がほとんど存在しない逆三角形だった。

 そうした状況への反発として、パレスチナでは「ふつう」の社会の建設をシオニストは夢見ていた。つまり、ユダヤ人は農民になることを理想としていたのである。パレスチナではユダヤ人は「ふつう」の人間に、農民になることができた。ヨーロッパから移住したラテン語やギリシア語が専門の大学教員が喜々として農作業に勤しむといった姿が見られるようになった。イスラエルが農業に注ぎ込む異常とも言える思い入れのルーツは、こうしたシオニズムの自己規定に存している。
 その結果、シオニストたちがパレスチナで農地を購入すると、そこで働いていたパレスチナ人の小作農は排除されることとなった。また、新たに開墾が行われた場合でもパレスチナ人の労働力は活用されなかった。さらにヨーロッパからやってきたシオニズムは、ヨーロッパのもう一つの知的流行に影響されていた。社会主義であった。そのため、シオニストたちはパレスチナ人を雇用して「搾取」することを望まなかった。それゆえ、パレスチナ人の労働力とシオニストの資本や技術が融合することはなかった。いずれにしろシオニストの本心は、行く行くはパレスチナ人を排除して自らの国を持つことであった。パレスチナに伝統的な現地社会とヨーロッパ的で近代的なユダヤ社会という二つの接点のない宇宙が不自然に併存することとなった。

シオニズムのネガティブ(陰画紙)

 ユダヤ人がヨーロッパ社会への同化の試みを放棄し、パレスチナに自らの国を創設すべしというのがシオニズムであるが、ある面ではそれによく似た考えが第一次世界大戦後のドイツに現れた。この考えは、ドイツ人の血の優秀性を信じ、その純粋性を守るためにドイツからユダヤ人を排除すべしというものであった。ナチズムであった。シオニズムの父ヘルツルと同じくオーストリア生まれのアドルフ・ヒトラーの率いたナチスの人種「理論」によれば、諸民族はその血統によって格付けされ、最も優秀なのがドイツ人であり、最も劣等なのがユダヤ人であった。それでは、民族の優秀性は何によって決められるのだろう。それは戦争に強いかどうかであった。戦争に強い民族が優秀であり、日の当たる場所に生存圏(レーベンスラウム)を確保する権利があるとするものであった。古来から武勇で知られるゲルマン民族こそ神が創造した最優秀民族、マスター・レースであった。

 しかし、ナチスのこうした宣伝にも不都合な点があった。それは、そのマスター・レースのドイツの第一次世界大戦での敗北であった。民族の優劣が戦争の勝敗で決まるとするならば、大戦で敗れたドイツ人が最優秀民族である道理は成り立たない。ヒトラーはこの点をいかに説明したのであろうか。ナチズムは、そんな事実ごときにこだわるような生やさしいものではなかった。その宣伝は、まず第一にドイツは軍事的には負けていないというものであった。第一次世界大戦終了の時点では、ドイツ軍は敵国深く進撃しており、決して負けていなかった。にもかかわらずドイツが降伏せねばならなかったのは、ドイツのユダヤ人が裏切り、背後から卑怯にもドイツを突き刺したからだとするものである。第二に、ドイツの敗戦は神がドイツ国民に与えた懲罰であるというものである。神は最も優れた民族としてゲルマン民族を創造した。ところがドイツ人は、愚かにもその神の意思に反し、ユダヤ人と接触し、通婚し、神の創造したすばらしい血を汚してきた。こうした愚行に対する神の懲罰が、負けるはずのないドイツの敗北であったとするものである。したがってドイツの再興の道は、ユダヤ人の排除によってドイツ人の純血を守ることにある、と説いたのである。

 この正体不明の疑似科学的説明はドイツの大衆の心をとらえた。なぜなら、第一次世界大戦の敗北の責任をユダヤ人に押しつけ、そのユダヤ人を迫害する「理論」的根拠まで与えてくれたのであるから。ヨーロッパのキリスト教社会に根強いユダヤ人への偏見をナチスは「科学」にまで高めた。ナチスに言わせれば、ドイツは白い肌をした美しい女性であった。ユダヤ人は、その母なるドイツの内部に入り込み、内側からその純潔を汚す忌まわしい存在であった。ユダヤ人の排除は理論やイデオロギーの問題ですらなく、清潔感の問題であった。つまり、体についたシラミを洗い流すように、ドイツもユダヤ人を一掃すべきだというものであった。ユダヤ人への迫害が熾烈さを増していった。

 だが、ナチスのユダヤ人をドイツ社会から排除するという発想は、シオニズムのユダヤ人を集めてユダヤ人だけの国を打ち立てようという目標と相通ずるものがあった。シオニズムを裏返すとナチズムになる。ナチズムにはシオニズムのネガ(陰画紙)のような面があった。事実、ユダヤ人の虐殺を始める前のナチスは、パレスチナにユダヤ人を送り込むことに興味を示した。何度かナチスの高官が同地を訪れているほどである。ドイツにおけるナチスの台頭は、いずれにしてもユダヤ人のパレスチナへの流入を加速することになった。

 パレスチナへのユダヤ移民の数が増えたもう一つの理由は、このころアメリカとイギリスが移民の流入を制限したからでもあった。これは後に見るように、ペレストロイカ以降ソ連からのユダヤ人の出国が自由になり、また同時にアメリカが移民法を改正したために、やむなくソ連からの多くのユダヤ人がイスラエルに向かうこととなったのと類似の状況であった。
 話を一九三〇年代に戻そう。したがってナチスは、シオニズムにとっての最大のリクルート機関となった。ヒトラーが権力を掌握する一九三三年の前年の一九三二年から一九三六年までの間に、実に二十五万のユダヤ人がパレスチナに到着している。彼らドイツ系ユダヤ人は、資本と技術をもたらした。そのためパレスチナのユダヤ社会は急速に発展した。パレスチナに初めてオーケストラができたのもこのころである。シオニズムの隆盛に最大の貢献をしたのは、こうしたユダヤ人の流入を引き起こしたヒトラーの政策であったというのも、歴史がしばしば用意するアイロニーというやつであろうか。

ハジ・アミン・フセイニー

 ユダヤ人の流入を目の前にして、自らの将来を懸念するようになったパレスチナ人とユダヤ人との間に、早くも一九二〇年代には武力衝突が発生している。そして一九三〇年代のユダヤ社会の発展は、この対立に拍車を掛けるものでしかなかった。ユダヤ人の入植への反対運動の先頭に立つようになったのがエルサレムのムフティ(イスラム教の最高指導者)であったハジ・アミン・フセイニーであった。だが結局フセイニーは敗退し、イラクへと逃れた。反イギリス運動がここでも失敗すると、フセイニーはドイツへと亡命した。この過程で、イギリス官憲の追及からフセイニーを匿うのに日本の中東への外交団が一役買っている。第二次世界大戦中、ベルリンからラジオを通じてフセイニーはイギリスへの抵抗を呼び掛けている。ここでフセイニーは負け馬に賭けてしまったわけだ。一方で戦後の世界の同情がシオニストに集まり、他方ではナチスへの協力者の烙印を押された人物がパレスチナ人の運動を率いることになった。パレスチナ人に分のある話ではなかった。

 これとは逆に、シオニストは連合国側に立って戦った。それは、ナチスの勝利がユダヤ人の絶滅を意味する以上当然の決断であった。シオニストは、連合国の兵士として戦うばかりでなく、ユダヤ人の部隊の創設を求めた。それは、戦勝後に予想されるパレスチナを巡るアラブ人との衝突に備えるためであった。個人としてばかりでなく部隊としての近代戦の経験が将来の戦争の準備となるのを、シオニストはよく理解していた。

 アメリカが第二次世界大戦に参戦した翌年の一九四二年五月、全米のシオニスト組織が代表を派遣し、ニューヨークのビルティモア・ホテルで会議を開いた。これは会場の名をとってビルティモア会議と呼ばれる。またこの会議で採択された政治目標は、ビルティモア・プログラムとして知られる。そのプログラムとは、戦後にユダヤ人の国家の樹立を求めるものであった。それまでは「ナショナル・ホーム」という用語を使い、「国家」という表現をシオニストは避けてきた。それは、ユダヤ人の居住する国でその忠誠心を疑われかねないからであった。また、パレスチナの統治国(最初はオスマン帝国、そしてイギリス)の権威への直接の挑戦を避けたからであった。それだけにビルティモア・プログラムはシオニストたちの自信を反映していた。事実、第二次世界大戦末期には一部のシオニストはイギリス当局に対するゲリラ攻撃を開始することになる。その中にメナヘム・ベギンやイツハーク・シャミールの名があった。この二人の人物については、歴史はさらに大きな役回りをイスラエルの成立後に用意している。いずれもイスラエルの首相になる人物たちである。この二人については、後の章で触れる機会があるだろう。
 またビルティモア会議が象徴していたのは、シオニズムの重心のヨーロッパからアメリカへの移動であった。実際のところ、ヨーロッパのユダヤ人はナチによる虐殺で数百万を失い、人口的にもその比重を下げていた。このビルティモアの会議の最中にも、ナチス占領下のヨーロッパの強制収容所のガス室では、ドイツ的能率でユダヤ人の大量虐殺が進行していた。結局ナチスのユダヤ人問題の最終的解決方法によって、全ユダヤ人口の三分の一が抹殺されることとなった。

 第二次世界大戦が終わり、ナチスの勝利の可能性が消滅した。すると今度は、シオニストは委任統治国イギリスのパレスチナからの追い出しに本格的に取りかかった。イギリス当局の存在はユダヤ人国家建設の障害と見なされたからである。前述のように、シオニストのゲリラ(テロ)攻撃がイギリスに向けられた。十万のイギリス軍をもってしても状況は掌握できなくなった。一九四七年、パレスチナからの撤退をロンドンは発表した。シオニストの狙い通りに事が運んだ。

夢と悪夢

 一九四七年十一月二十九日、国連総会はパレスチナの分割決議案を可決した。賛成三十三、反対十三、そして棄権十(イギリスを含む)であった。その内容は、パレスチナをアラブ人地域、ユダヤ地域、国際管理地域に分割することを勧告するものであった。シオニストが所有していた土地はパレスチナの七パーセントに過ぎなかった。しかし、決議案はその五七パーセントをユダヤ人に割り当てていた。これでは、パレスチナ全土を自らの土地と考えるパレスチナ人が、この決議を受け入れるわけはなかった。また周辺のアラブ諸国がそれに同調した。

 逆にシオニストは、この決議案を受け入れた。そして一九四八年五月、イギリス軍がパレスチナから撤退した。一方でシオニストは、その直後にユダヤ人国家イスラエルの成立を宣言した。他方では周辺のアラブ諸国の軍がパレスチナに進撃した。第一次中東戦争が始まった。シオニストはアラブ諸国軍を撃破して、新生イスラエルの存在を守った。停戦が成立したときには国連決議をはるかに上回る領土をイスラエルは確保していた。パレスチナの七八パーセントがイスラエルの支配下にあった。だが、その代償は安くなかった。わずか人口六十五万のパレスチナのユダヤ人社会がその一パーセントに当たる六千五百の死者を出した。この比率を現在の日本の人口一億二千万に当てはめると百二十万人である。その犠牲の大きさが想像できよう。これが第一次中東戦争のあらましであった。この戦争のイスラエル側の名称は独立戦争である。

 そしてパレスチナ人による呼称は、いみじくも「ナクバ(破局)」であった。だがアラブ側は敗れたとは言え、パレスチナ南部のガザ地区はエジプト軍が押さえていた。そしてヨルダン川西岸地区はヨルダンが制圧した。つまり、パレスチナがイスラエル、エジプト、ヨルダンの三国に分割されたわけである。パレスチナ人の国は、そのどこにもなかった。この戦争において七十万以上のパレスチナ人が難民となって流出し、ヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなどの周辺国へ流入した。その理由については、パレスチナにかかわる他の多くの問題と同じくイスラエルとアラブ側で異なった歴史が語られている。一方のイスラエルの歴史によれば、戦争中にアラブ側がパレスチナ人に避難を呼び掛けた。アラブの軍がシオニストを攻撃するのでその邪魔にならないように、一時脱出するようにとの指令がラジオで流されたというのである。アラブ諸国の軍隊の勝利の後に帰還すればよいと思ったパレスチナ人たちは、そのため故郷を離れたというわけである。例えば一九九一年十月の中東和平国際会議でのシャミール・イスラエル首相の演説は、この歴史解釈を繰り返している。つまり、アラブ諸国の指導者がパレスチナ人の避難を勧告したという説をである。

 他方、アラブ側の歴史によれば、アラブ諸国はそのような呼び掛けは行っていない。イスラエルがパレスチナ人を追い出したというのである。その一つの方法としてとられたのがディール・ヤシーン村での虐殺であった。この村を包囲したシオニストの軍事組織の一つイルグンの部隊は、老若男女を問わず村の住民の皆殺しを行った。この虐殺のニュースはパレスチナ人の間に広まり、恐怖に取りつかれたパレスチナ人の大脱出が始まった。これがアラブ側の歴史である。一九八〇年代に入りディール・ヤシーンの虐殺の実態が明るみに出るなど、パレスチナ人が難民となった原因についてのイスラエル側の説明の虚構性はますます明白になりつつあるのが現状である。なお、ディール・ヤシーンの付近には、現在ヤド・ヴァシェム(ホロコースト犠牲者の記念碑)が建てられている。またイルグンの指導者は、後に首相となるメナヘム・ベギンであった。

 いずれにしろ難民化したパレスチナ人の帰還をイスラエル側は認めなかった。したがって、パレスチナ人は今日に至るまで望郷の念を抱いて世界を放浪することとなった。ちょうどユダヤ人がイスラエルの建設まで二千年の間さまよったと主張するようにである。難民となったパレスチナ人への支援は決して十分ではなかった。テントが不足し、上半身のみをテントに入れ、足を出して寝たという悲惨な有様であった。その脱出には栄光など一かけらもなかった。パレスチナ人の「放棄」した財産の没収、地名の変更、村落の破壊など、パレスチナ人の生活の痕跡の抹消のための施策が、イスラエルによって次々と実行に移された。だがイスラエルのこうした政策も、難民キャンプで呻吟するパレスチナ人の脳裏からパレスチナの記憶を消し去ることはできなかった。

 こうしてパレスチナで少数派であったユダヤ人が多数派に変身し、多数派であったパレスチナ人が少数派に転落した。パレスチナ人の悲しみの上にシオニストの歓喜があった。ユダヤ人国家建設というシオニストの夢が成就し、故郷の喪失というパレスチナ人の悪夢が始まった。


第二章 戦うユダヤ人国家

「俺に続け!」
イスラエル軍将校のスローガン

超大国のディレンマ

 一九四八年という年にイスラエルが成立したことは、その国際的地位を確立する上で幸運であった。というのは、アメリカのトルーマン大統領はイスラエルの成立宣言の直後に、アメリカの国連代表にも通知せずにその承認を発表したからである。この年の秋の大統領選挙でトルーマンは辛勝した。対立候補の勝利を誤報した新聞があったほどの接戦であった。ユダヤ票がなければトルーマンの勝利はなかったであろう。当時は六百万と言われたアメリカのユダヤ人の存在のなせる技であった。

 しかし、イスラエルの承認でアメリカの中東政策は整合性を失った。というのは、アメリカの中東政策には他に二つの目標があり、それらの追求がイスラエルを承認したことで難しくなったからである。その第一は中東原油の確保であった。そのためにアメリカはサウジアラビアをはじめアラブ産油国への接近を図ってきた。ところがアラブ諸国と敵対するイスラエルの承認で、その関係の維持に困難をきたすようになった。しばしば一部では、アメリカは中東の石油を支配するためにイスラエルを支援したと言われるが、実態はそうではない。アメリカのイスラエル支援が石油の確保を難しくしてきた。アメリカが、帝国主義的利益に忠実であったならば、石油会社や国務省が望んだようにイスラエルは承認されなかっただろう。

 第二はソ連の封じ込めであった。ソ連の影響力の中東への波及の阻止が、アメリカの主要な外交目標であった。しかし、これもまたイスラエルをアメリカが援助したことで困難になった。なぜならば、アメリカはイスラエルに敵対するアラブ諸国への軍事援助を拒絶せざるを得なかったからだ。その間隙を突いてソ連がアラブ世界に進出した。アメリカに軍事援助を拒まれたアラブ諸国はソ連に頼らざるを得なかったからだ。こうしてイスラエルの安全保障、石油の確保、ソ連の封じ込めという互いに整合性のない三つの外交目標の間をアメリカの中東政策は揺れ動くこととなった。

スターリンの選択

 ソ連もまた早期にイスラエルを承認している。アメリカ、グァテマラに続き三番目であった。何ゆえに当時の独裁者スターリンがイスラエルの承認を決断したかについては明確ではない。しかし、イスラエルの成立によってイギリス帝国主義の力が中東から後退するのを歓迎したのではと推測されている。またイスラエルにおける社会主義の影響力の強さも、スターリンの心証をよくしたのかもしれない。事実、イスラエルの建国以前から一九七〇年代まで一貫して政局の中心にあった労働党とその前身は、その名のごとく社会主義的性格の強い政党であった。シオニストの多くは、パレスチナにやって来るときに東ヨーロッパで影響力の強かった思想を、つまり社会主義を持ち込んだ。いずれにしろ米ソがこぞって新生イスラエルを承認しているのは注目に値する。

自由将校団

 シオニストの手によるアラブ諸国軍の敗退は、アラブの若い世代に大きな衝撃を与えた。その多くは敗戦の原因をアラブ諸国の支配層の腐敗に求めた。そうした青年の一人にアブドル・ガマル・ナセルという名のエジプト軍将校がいた。ナセルは、一九四八年の敗北以前から軍の内部に自由将校団という秘密組織を結成していた。そのメンバーには後にナセルの後継者となるアンワル・サダトもいた。この自由将校団が一九五二年にクーデターを決行、エジプト王制を崩壊させた。権力を掌握したナセルの掲げた主要な政策の一つが、スエズ運河地帯でのエジプトの主権の回復であり、もう一つがナイル川にダムを建設してエジプトの農工業を振興することであった。スエズ運河はフランスの技師フェルディナン・ド・レセップスの指導の下に一八六九年に開通して以来、地中海とインド洋を結ぶ国際交通の要としての役割を果たしている。その六年後の一八七五年にイギリスはスエズ運河会社の株の過半数を買収して、その支配者となった。スエズ運河地帯はエジプトの中にありながらエジプトの主権の及ばない特殊な地域となっていた。スエズ運河は国の中の国であり、エジプトの中のイギリスであった。ナセルはこの地域への主権の回復を目指した。

 しかし、イギリスはエジプトの要求に応じようとはしなかった。国際交易の大動脈であるスエズ運河地帯の防衛・管理を任せるにはエジプト軍は弱体過ぎるというのがイギリスの言い分であった。しかし、エジプト軍を強化するために武器の購入をエジプトが申し出ると、イギリスもフランスも、そしてアメリカもこれを拒絶した。兵器がイスラエルを脅かすことを懸念したからであった。つまり、一方でエジプト軍が弱体であるからとの理由で運河地帯の返還を拒絶し、他方ではエジプト軍が強くなる道を塞いだ。エジプトは躍起になって武器の輸入相手を探した。日本にまで秘密裏に使節を派遣したほどである。このエジプトに一九五五年ソ連が兵器を供給した。表向きはチェコ・スロバキアが兵器を輸出する形であった。ソ連製の兵器の代金をエジプトは綿花で支払う。そうした体裁が取られた。共産圏の外に初めて大々的にソ連製兵器が流れ始めた。このソ連のエジプトへの武器輸出の背景には、クレムリンの第三世界戦略の変化があった。

モスクワのディレンマ

 一九五三年にスターリンが没すると、その後継者たちはソ連の第三世界政策を変換させた。第二次世界大戦後にアジア・アフリカの民族主義者たちが次々と独立を獲得していったにもかかわらず、スターリンは彼らへの援助を行わなかった。民族主義者を信用していなかったからだ。しかしながら、その後継者フルシチョフは、アジア・アフリカの民族主義者に新しい機会を見ていた。新興の独立国と接近してアメリカがソ連の周辺に張り巡らせた封じ込めのネット・ワークを飛び越そうとした。エジプトへの援助はその第一歩であった。

 だがソ連の方向転換には、直接的な経済的負担の増加という以上のコストがかかっていた。それは、民族主義の政権が往々にして現地の共産主義を弾圧していたからだ。国際共産主義運動の総本山としてのモスクワの義務は、世界の共産主義者の支援であった。しかし、そうすることは現存の政府との関係の改善を妨げる。いつ政権を取れるともわからない共産主義者を支持し続けることのコストであった。逆に現存の政権との関係を改善すれば、短期的にはソ連は外交上の利益を享受できる。だが、それは現地の共産主義勢力の見殺しを意味する。結果は、国際共産主義運動のメッカとしてのモスクワの威信の低下である。ロシア革命によって成立した政権が国際政治の現実に対応する際に発生したディレンマであった。こうして二つの超大国はそれぞれの矛盾を抱えながら中東に進出した。

スエズ危機

 すでに述べたように、パレスチナ問題がソ連の中東進出の突破口となった。エジプトへのソ連製兵器の流入は、中東の武器市場における西側の独占を打破した。しかし、ナセルはフルシチョフを信用しきれなかった。将来、ソ連が西側との交渉でエジプトへの武器供与を停止する事態が起こるのを懸念していた。そうした計算もあったナセルは、北京の中華人民共和国政権を承認した。いざという場合には中国からの武器輸入をも考えての措置であった。これがアメリカとの関係を悪化させた。アイゼンハワー政権は、ソ連の武器に対抗してエジプトへの大規模な経済援助を予定していた。ナイル川にアスワン・ハイダムを建設する資金を貸し付ける交渉が進んでいた。しかし、ナセルの北京政権承認によってこの交渉が中止された。ナセルはこれに対してスエズ運河の国有化をもって応えた。運河の通行収入をダムの建設費用に充当しようとした。これが、エジプトと運河を支配してきたイギリスとの関係を一気に緊張させた。

ノルマンディーの英雄

 イギリスは、フランスとイスラエルと共謀して、ナセルを打倒するための軍事干渉を計画した。まずイスラエルがシナイ半島に侵入してスエズ運河に向かって進撃する。そしてイギリスとフランスが、紛争から保護するとの名目で運河地帯を占領する。この軍事干渉の衝撃でナセル政権を転覆させようとのシナリオであった。フランスとイスラエルがイギリスの誘いに乗ったのはなぜであろうか。フランスは、このころに激しくなっていたアルジェリアの独立運動をナセルが支援しているものと信じていた。それゆえ、ナセルを倒すことでアルジェリアの独立運動に打撃を与えようとしていた。またイスラエルは、エジプトがソ連製の兵器で強大になる前に先制攻撃をと望んでいた。

 こうして一九五六年の十月二十九日、イスラエル軍がエジプト領土のシナイ半島に侵入して戦闘の火蓋が切られた。独眼の将軍モシェ・ダヤンの率いるイスラエル軍は、エジプト軍を圧倒し、運河地帯へと進撃した。そして自らがけしかけておいて、戦闘から運河を守ると称してイギリスとフランスの連合軍のパラシュート部隊が運河地帯に降下した。しかし、アイゼンハワー・アメリカ大統領はこれを激しく非難し、三国の撤退を求めた。またソ連も侵略行為の停止と撤兵を求め、ロケット兵器の使用も辞さないとイギリスやフランスを脅迫した。この時期には珍しい米ソの一致した反発の前に、三国は撤兵せざるを得なかった。
 三国は、両超大国の、なかんずくアメリカの反応を完全に読み違えていた。イギリスがイスラエラルの軍事干渉への参加を求め、しかも十月末を作戦の期日に選んだのはアメリカの反発を押さえるためであった。イギリス首相イーデンは、十一月初旬に予定されていたアメリカ大統領選挙を考慮すれば、アイゼンハワー大統領はイスラエルの参加した軍事行動に強い態度は取れないであろうと踏んでいた。六百万のユダヤ人の存在をアイゼンハワーは考慮せざるを得ないとの読みであった。一九四八年のトルーマンのイスラエル承認をイーデンは想起していたはずである。だがアイゼンハワーの反応は、すでに見た通り、イギリスの予想を裏切るものであった。なぜアイゼンハワーはイギリス、フランスに激怒したのであろうか。それは、ちょうど一九五六年のこの時期にハンガリーで民衆の反ソ蜂起が発生していたからだ。フルシチョフは軍事力でこの暴動を鎮圧する機会をうかがっていた。逆にアイゼンハワーは、世界の目をハンガリーに集めてソ連を牽制しようとしていた。その矢先にスエズで戦争が始まった。世界の注意が中東に移る中、フルシチョフは戦車部隊を首都ブタペストに突入させてハンガリーの反乱を押さえ込んだ。こうした一連の流れは、ハンガリー動乱として知られる。スエズでの戦争が、その煙幕の役割を果たした。

 それでは、なぜアイゼンハワーはイスラエルを巻き込んでの対エジプト軍事干渉を非難することが政治的に可能だったのだろうか。大統領選挙を直前に控えてユダヤ人の反発を心配する必要はなかったのだろうか。共和党推薦の大統領候補であるアイゼンハワーは、いずれにしてもユダヤ票の大半は当てにできない立場にあった。その理由は、伝統的にユダヤ人は民主党支持であるからだ。また現職でしかもノルマンディー上陸作戦を指揮したアイゼンハワー将軍は、ヨーロッパ解放の英雄として国民的人気を博していた。ユダヤ人の支持がたとえ得られなくとも、再選が危ぶまれるような立場ではなかった。一九四八年のトルーマンとは全てが違っていた。こうした強い国内的基盤がイスラエルへの強い姿勢となって現れた。そして十一月の七日、大差でアイゼンハワーは再選された。
 実際のところアイゼンハワーは、イスラエルへの強硬な政策にもかかわらずユダヤ票の四〇パーセントを獲得している。この数字は当時のユダヤ組織の集票力が言われていたほど強くなかったことを示している。こうした苦い経験がユダヤ・ロビーの組織化に拍車をかけることになった。その中核となったのが、この事件の二年前に設立されたユダヤ・ロビーの代表ともいえるAIPAC(American Israel Public Affairs Committee アメリカ・イスラエル公共問題委員会)である。最初の名前はアメリカ・シオニスト公共問題評議会(American Zionist Council of Public Affairs)であったが、一九五九年にAIPACに改名された。そして巨大な組織に成長した。五〇ドル程度の年会費を払う六万五千名の会員に支えられ、一九九〇年代末には年間予算規模千五百万ドル、職員数百五十名程度の組織に成長している。そして現在では会員数十万を自称している。しかし、そのインパクトは予算規模や職員数が示唆するよりは、はるかに強い。それは、このAIPACが、全米の五十を超えるユダヤ人組織を束ねる役割を果たしているからだ。そのいくつかは、予算規模でも会員数でもAIPACよりずっと大きい。AIPACは、全米のユダヤ人のエネルギーをイスラエルのために結集する世話係である。アメリカとイスラエルの関係については後に詳しく論じよう。
 戦後の中東史を貫く三つの大きな流れがある。第一に民族主義の台頭であり、第二にイギリスとフランスの後退である。そして第三に米ソの進出である。こうした三つの流れが交差したのが一九五六年のスエズであった。以降、十九世紀以来中東に君臨してきたイギリスとフランスの最後の軍事的冒険がエジプトへの干渉であった。スエズは、衰退過程の二つの帝国の最後の雄叫びであった。なお、こうした一連の展開は「スエズ危機」、「スエズ動乱」、「スエズ戦争」あるいは「第二次中東戦争」などの様々な名称で言及されている。

ナセリズム

 米ソの支援を受けて、ナセルは錬金術師のように軍事的敗北を政治的勝利に変えた。それがナセルの影響力を急激に上昇させた。これまでイギリスとフランスの横暴に苦しんで来たアラブ人の覚えた興奮は想像に余りある。遂に帝国主義者を撃退した指導者がアラブ世界に現れたのである。アラブ人の民族感情は一気に沸騰し、このナセルの指導の下に全アラブ世界を統一しようとの動きが高まってきた。ナセルの名を取ってこの運動をナセリズムと呼ぶ。アラブ世界はカイロから聞こえてくるナセルの演説に耳をすました。そして一九五八年、シリアとエジプトの間にアラブ連合が成立した。また、この年イラクで軍部のクーデターが起こり、親イギリスの王制が崩壊した。さらに一九六二年には、遂にアルジェリアからフランスが撤退した。アラブの民族主義は上げ潮にあり、その波頭にナセルが立っていた。

 しかし、夏の盛りに秋の気配が忍び寄るように、このころからナセリズムに陰りが見え始めた。それは、一つには一九六一年にシリアがアラブ連合から離脱したからであった。アラブ連合の名は残ったものの、実質はエジプト一国の「連合」であった。またイエメンの内戦に出兵したナセルは、出口のない長期戦でエジプトの国力を消耗させていった。しかも、ナセルと同じようにアラブの統一を掲げるバース党の力が伸び始めたのも、ナセルの野心にとっての障害であった。バース党はナセルの風下に立とうとはしなかったからだ。こうして影響力を弱め始めたナセリズムに止めを刺したのが、一九六七年の戦争であった。

六日戦争

 イスラエル軍がシリア方面に集結しているとの情報が、ソ連からナセルへ伝えられた。これが一九六七年の戦争への発端となった。それに対抗して、ナセルはエジプト軍のシナイ半島への集結を命じた。アラブ諸国とイスラエルの間に緊張が高まった。イスラエルとエジプトの両軍の間には、国連軍が展開していた。これは、一九五六年のスエズ危機の収拾策の一環であった。ところがナセルは、この国連軍の撤退を求めた。そして五月十六日、国連軍が撤退した。さらにその次の週に、エジプトはアカバ湾と紅海を結ぶチラン海峡の封鎖を宣言した。チラン海峡封鎖は、イスラエルがアカバ湾に持つ唯一の港エイラートから紅海そしてインド洋へ通じるルートの遮断を意味していた。当時スエズ運河の通行を拒否されていたイスラエルにとってみれば、チラン海峡の封鎖は戦争行為にも等しかった。

 そして六月の五日、イスラエル空軍の奇襲で戦闘が開始された。超低空飛行でレーダー網をかいくぐり、早朝にエジプトの空軍基地に殺到したイスラエル空軍のミラージュ戦闘爆撃機は地上で三百機のエジプト空軍機を破壊した。シリアとヨルダンの空軍も撃滅され、昼までにはアラブ側の空軍が全滅した。エジプトの空軍相は責任をとって自殺した。遮蔽物のない砂漠で、制空権を確保したイスラエル軍は、圧倒的優位に立った。イスラエル軍の電撃作戦が展開された。六月十一日に戦闘が停止されたときには、エジプトはガザ地区とシナイ半島を、ヨルダンはヨルダン川西岸地区全域を、シリアはゴラン高原をイスラエルに奪われていた。戦闘は六日間続いた。そして六日後には、中東の政治風景は一変していた。

生ける屍

 この敗北で、ナセリズムは死んだ。ナセルは、その地位だけはかろうじて維持したものの、もはや昔日の影響力は望むべくもなかった。一九七〇年に死亡するまでの三年の間は、ナセルはナセリズムの生ける屍に過ぎなかった。エジプトはナセリズムの死臭を立ち上らせながら敗戦処理に当たらざるを得なかった。この敗戦の後スーダンの首都ハルツームで開かれたアラブ首脳会議は三つの「ノー」を決議した。イスラエルと「和平」を求めず、「交渉」せず、イスラエルを「承認」しないというものであった。あまりのひどい敗戦に、アラブ側は交渉を始める心理的余裕を全く失っていた。戦場での屈辱を拭い去ることなしに和平を始めれば、それは降伏を意味している。アラブのプライドはそれを許さなかった。

イスラエル国防軍

 一九六七年の戦争でのイスラエルの勝因は何だったのか。このときのアラブ側の主要装備はソ連製であり、イスラエル軍のそれはフランス製であった。それは、一九五六年のスエズ危機以来のフランスとイスラエルの密接な関係が、このときまで持続していたからだ。しかし、イスラエルの圧勝の要因は兵器ではなかった。フランス製兵器がソ連製兵器より圧倒的に優れているという証拠は何もなかった。問題は、イスラエルとアラブ側の兵員の質と組織力の差であった。ここで、六日戦争の勝利をもたらしたイスラエル国防軍について若干の解説が必要であろう。

 ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の異常な記憶を共有する人々が造り上げたユダヤ人国家イスラエルは、戦争の中で生まれ、周囲のアラブ諸国との戦争の中で成長してきた。常に敵意に満ちた隣人に囲まれて生きてきた。そのため、安全保障という面には特別に敏感である。その防衛の重責を担っているのが、女性をも含む国民皆兵の市民軍である。十八歳になると男性には三年、女性には二年の徴兵義務があり、その後は男性は五十五歳まで予備役に編入される。その間は年に一カ月の訓練を課せられている。なお、アラブ系の市民は徴兵を免除されている。というよりは、ユダヤ人がアラブ人を信用していないというのが正直なところであろう。

 日本の外務省のホームページに掲載されているイスラエルに関する資料では、二〇一七年段階で正規軍の兵力は約十八万である。この正規軍の兵力十八万というのは、日本の陸上自衛隊の定員数の十五万よりも多い。人口九百万にも満たないイスラエルが、一億二千万の人口の日本の陸上自衛隊より多くの兵員数を維持している。そして、緊急時には四十六万五千の予備役が召集される仕組みとなっている。動員が完了するまでは、職業軍人が先頭に立って盾となって戦うことになっている。事実、イスラエルの将校団のスローガンは、「突撃!」ではなく、「俺に続け!」である。その結果、将校の死傷率が高いと言われている。人口が少なく、予備役の動員によってようやく十分な戦闘能力が出てくるというイスラエル軍の体質からすると、当然のことながら先制攻撃による短期決戦がその基本戦略になる。この限られた人口で長期戦に入れば、経済的にイスラエルは貧血状態に陥ってしまうだろう。またイスラエルは、一度動員を掛けると、長期にわたって臨戦体制を維持するのは困難である。そんなことをすれば、一発も撃たなくともイスラエルのGNPはたちまち何パーセントか低下してしまうだろう。さらに動員を支障なく行うためには、敵の攻撃の前に動員を完了しておくのが望ましい。となれば、いやが上にも先制攻撃への誘惑は高まらざるを得ない。イスラエルを余りに威嚇するのは先制攻撃を呼び掛けるようなものである。一九六七年の戦争がその一番の好例である。

東南アジアの「イスラエル」

 こうしたイスラエルとよく似た動員体制を持っている国にシンガポールがある。マレーシアとインドネシアという二つのイスラム教徒が多数派の国に挟まれた状況は、イスラエルに似ていなくもない。しかし、よく似たシステムを持っている理由は、イスラエルとシンガポールの状況の類似ばかりが原因ではない。実はシンガポール軍の創設にイスラエルがかかわっているのである。一九六五年にシンガポールがマレーシア連邦から離脱、独立したとき、この淡路島ほどの都市国家がやって行けると考えた者は少なかった。それゆえ、シンガポール軍の創設にアメリカもイギリスも協力しようとはしなかった。どうせ失敗しそうな負け馬に賭ける馬鹿はいなかったわけだ。そこで、イスラエルにお鉢が回ってきた。イスラエルが敢えて火中の栗を拾った。イスラエルの顧問団がシンガポール軍を訓練することとなった。シンガポールは東洋のスイスを目指すはずであったのが、イスラエルになりそうだと当時は評されたものであった。しかし、以降この都市国家は驚異的な経済発展を遂げ、国民一人当たりのGNPで東アジアでは日本を抜いて第一位である。イスラエル国防軍と類似の動員システムにその安全保障を裏書きされながら。

マサダの誓い

 話を東南アジアから中東に戻そう。こうしたシステムで訓練され、動員されるイスラエルの兵士を支えるエトスは、精神は、魂は、いかなるものであろうか。イスラエルの国防観の根底にある考えは、自らの運命を他人に委ねないということである。ナチスのガス室で六百万のユダヤ人が焼かれたときには誰も助けには来なかった。そうした歴史的経験を踏まえて、自らの安全は自分たちの手で守るのだとの気概が横溢している。またイスラエルの若い世代には、屠殺される羊のようにガス室へと引かれていったユダヤ人に対する反発がある。「なぜ抵抗しなかったのだ?」との批判である。「なぜ、もっと抵抗しなかったのか?」という問い掛けである。たとえ結果は同じ虐殺でも、抵抗すればナチスは六百万発の弾丸を使わねばならなかったはずだ。当時の追い詰められ、強制収容所に送られ、虐殺された人々を責める行為にどれほど意味があるのかという疑問は残る。またワルシャワ・ゲットーでの絶望的かつ英雄的なユダヤ人の蜂起などを無視した非難でもある。しかし、そうした心情がイスラエル国民のかなりの部分に抱かれていたのも事実であった。

 ナチスに大した抵抗もできなかったユダヤ人は、その埋め合わせでもするかのように強力な軍事力を育成してきた。差別され、ゲットーに閉じ込められ、武力を持たず、キリスト教社会に運命を弄ばれてきたユダヤ人の歴史への反動として、イスラエル国防軍が存在しているのだ。強くなければならない。それはイスラエル国家の生存のためばかりでなく、強いユダヤ人としての新しいアイデンティティーの確立と確認のためにもである。そうしたイスラエル軍の精神の象徴となっているのがマサダである。マサダとは死海の西に位置する岩山で、その山上に築かれた砦に少数のユダヤ人が立てこもり、ローマの大軍に長期間にわたり抵抗した。そして遂に砦の陥落が迫った。だが砦の守備隊は降伏をいさぎよしとしなかった。まず男たちがその家族を殺害した。そして、次に男たちの間でクジが引かれ、一人が選ばれた。そしてその一人が他の男たちを殺害した。最後にこの男が自害して九百六十名の集団自決が成就したと伝えられる。壮烈かつ悲痛な結末であった。紀元七十三年頃のことであった。

 このマサダの遺跡が発掘され、現在は観光地になっている。また、イスラエルの新兵は、訓練の仕上げにこの遺跡に野営し、マサダを二度と陥落させることはないとの誓いを立てる儀式を挙行する。マサダはイスラエル軍にとって巡礼地である。マサダが象徴するものは現在のイスラエルである。ローマの大軍はアラブ人の大軍に代わったものの、少数のユダヤ人が多数の敵に包囲されている状況には二千年前も現在も違いがないという見方である。ホロコーストを決して繰り返させないとの決意の反映である強大なイスラエル軍の精神的象徴がマサダの遺跡である。またマサダの遺跡は、というよりはイスラエルの遺跡一般は、かつて自らの祖先がこの地に生活していたのだというシオニストの主張の裏づけとして利用されている。考古学がシオニストにとっての重要な武器になっている。銃を持って国境を、ショベルを持って祖先の過去と自らのパレスチナにおける生存の正統性をイスラエル国民は主張している。

モサドの活躍

 イスラエルの強さの秘密の一つは、その情報収集能力である。スパイ小説でも御馴染みのモサドと呼ばれる諜報機関が、イスラエルの安全保障のために大きな功績を残してきた。例えば、一九六七年の戦争でイスラエル軍が奪取したゴラン高原におけるシリア軍の配備は、シリアの上層部に食い込んでいたエリー・コーエンというスパイの手によって詳細かつ正確にイスラエルに伝えられていた。また一九五六年、ソ連のフルシチョフが共産党の秘密会でスターリンを批判した際に、その情報をアメリカに伝えたのはイスラエルであった。アメリカのCIA(中央情報局)さえ出し抜いたのだ。モサドは、国家の生存を賭けた情報収集と分析を行っている。イスラエルという国が世界各地からのユダヤ人の移民ででき上がっているので、世界各国の言葉を母語として話し、その習慣に詳しい人間が多い。スパイとして、また情報分析官として最適の人材に恵まれてきた。前述のエリー・コーエンもエジプトからの移民で、家庭ではアラビア語を話す環境に育っている。

 しかし、モサドは有能ではあっても万能ではない。限られた人材と資源でやりくりを行っていたので、全然と言って良いほど研究を怠ってきた国でもある。一九八二年にPLO(Palestine Liberation Organizationパレスチナ解放機構)を壊滅させるためにイスラエルがレバノンに侵攻したとき、イスラエルはレバノンに関してよく知らなかった。レバノンとの戦争をイスラエルが想定してこなかったからだ。そういった意味ではイスラエルにとって最も効率の良い諜報活動は、全世界で大規模に諜報活動をやっている国から情報を盗み出すことだ。つまり、アメリカの収集した情報を入手できれば、これほど効率の良い諜報活動はない。事実、一九八五年アメリカ海軍に勤務するジョナサン・ポラードがイスラエルのためにスパイ活動を行っていた罪で逮捕され、世界はイスラエルの友好国アメリカに対する諜報活動の実態を知った。まさに仁義なきスパイ活動であった。

 今、イスラエルの諜報活動は様々な意味で曲がり角に直面している。一つには、こうした友好国に対するスパイ活動の是非が問われている点である。第二に恐らく優秀な諜報活動員の不足する時期を迎えつつあるのではないかと推測されるからだ。それは、イスラエルを建国した世代あるいは次の世代までは、アラブ世界で育ち、その言葉、習慣などを空気を吸うように身につけていた人々がいた。しかし、新しいイスラエルの世代には、もはやアラブ世界やイラン生まれの人間は少なくなりつつある。現地の雰囲気を知らない担当官が情報分析を担当せざるを得なくなりつつある。テヘランの街角の喧騒も空気の汚れも実際に経験してない人間が、文字情報からイラン分析を導き出さざるを得ない状況になりつつある。あたかも衛星から送られてきた写真を見て火星についての議論をするようにである。もちろんスパイの潜入は可能だが、その数も期間も頻度も限られていよう。モサドの情報活動に転機が訪れつつあるのではないだろうか。

 イスラエルの防衛のための最後の砦は、実はマサダでもなければモサドでもない。それは、核兵器である。核の保有を肯定も否定もしないのがイスラエルの現在の政策である。これは、日本に寄港するアメリカ海軍艦艇が核兵器の搭載に関して肯定も否定もしないとの立場とよく似ている。イスラエルは、核拡散防止条約に調印しておらず、当然のことながら国際原子力委員会の査察も受け入れていない。イスラエル南部のネゲブ砂漠のディモナで核兵器が開発されていると一般的には信じられている。イスラエルが核兵器を最初に開発した日時は定かではない。しかし、一九六七年の戦争のときには恐らくすでに実戦配備されていたようだ。ドゴール政権下でフランスが核兵器の開発を行った際に、イスラエルの科学・技術者がこれに協力した。そして、核兵器開発のノウハウをイスラエルに持ち帰った。この核開発計画を推進した中心人物は、後に首相となるシモン・ペレスと噂されている。

 一九六七年の戦争中に、イスラエルの沖に迫ったアメリカの情報収集艦をイスラエル空軍が爆撃するという、あまり報道されなかった事件があった。アメリカは、イスラエルの核配備の状況を探るためにスパイ船を派遣し、イスラエルはそれを隠蔽するために攻撃したのだろう。イスラエルは、これをアラブの艦艇と誤認したためとの説明を行った。また後に触れる一九七三年の戦争においては、緒戦で劣勢に立ったイスラエルは、アメリカの緊急軍事援助を要請し、仮にそれが容れられない場合には核兵器の使用も辞さないと示唆している。イスラエルの核戦力は周辺の中東諸国ばかりでなく旧ソ連南部をも射程に収めている模様だ。それでは、イスラエルは核実験をどこで行ったのだろうか。どうもこれは、南アフリカ政府の協力を得て南部アフリカの砂漠地帯で行ったと信じられている。アメリカは、スパイ衛星によってこの事実を知りながら、政治的配慮からこれを問題にしない態度を取ってきた。かくして西側諸国がイスラエルの核開発を大目に見てきた間に、イスラエルは中東で唯一の核保有国となった。

アメリカの援助

 イスラエルはこうした強大な軍事力を維持するための膨大な資金をどうやって捻出してきたのだろうか。二〇一九年の数値では、イスラエルのGNPの六パーセント近くが防衛費である。これは日本の一パーセント弱はともかく、アメリカの三パーセント強の倍の数字である。いかに軍事費の負担がイスラエル経済の肩に深く食い込んでいるかが実感できるだろう。イスラエルの人口が、九百三十万であり、そのうちの約四分の三がユダヤ人、そして残りがアラブ人などとなっている。ユダヤ人口は、ざっと六百八十万である。前にも触れたように、ユダヤ人以外は基本的には徴兵されないので、イスラエルの軍事力の基礎となる数は、この六百八十万ということになる。これは千葉県の人口六百三十万並みの数字である。仮に千葉県が単独で中東地域で最大規模の軍事力を保持していると想像してみるとよい。その異常さが想像できるだろう。いくら国民から税金を吸い上げたところで十分ではない。

 実は、イスラエルの国防を支えているのは様々な形でのアメリカからの援助である。一九六七年にフランスがイスラエルへの武器輸出を停止して以来、イスラエルの主要装備はアメリカ製に転換された。これは、ひとえにアメリカの援助のお陰であった。また最新兵器の価格の上昇は、イスラエルが独自でその経済的負担に耐えられる限度をはるかに越えてしまった。アメリカの援助への依存は高まる一方であった。その総額に関しては諸説あるが、最近では年間三八億ドルという数値がよく使われる。前述のようにイスラエルのユダヤ人口が六百八十万であるので、イスラエルのユダヤ人が一人当たり五五〇ドルを毎年アメリカから受け取る計算になっている。

「蜃気楼」から「幽霊」へ

 アメリカからの多額の軍事経済援助がイスラエル軍の装備の変遷にも影を落としている。例えば、一九六七年の戦争でのイスラエル空軍の主力機はフランス製のミラージュ戦闘爆撃機であった。ミラージュとはちなみに蜃気楼という意味である。ところが一九六七年の戦争以降、フランスのドゴール大統領はイスラエルとの関係を冷却化させた。イスラエルがミラージュを使ってアラブを奇襲したことにドゴールは激怒したと伝えられる。

 しかし理由はそればかりではなかった。一九六二年にアルジェリアに独立を与えて以来、フランスとアラブ諸国の間には紛争はなかった。そればかりか、フランスへのアラブ諸国からの石油供給を考慮すれば、イスラエルと密接過ぎる関係を維持してアラブ諸国の不興を買うことは得策ではない。ドゴールはイスラエルと距離を置いた。フランス製の兵器のイスラエルへの流れが止まった。一九七三年の石油危機がドゴールの見通しの良さを証明してみせた。というのは、このときにアラブ諸国は、石油輸入国を敵対国、非友好国、友好国に三分類し、友好国のみに危機以前の水準の石油供給を行うと発表したからであった。一九六七年以来のドゴールの政策のお陰でフランスは友好国扱いであった。アラブ世界を植民地化し、一九五六年にはエジプトを侵略したフランスがである。逆に、中東では手を汚していないと主張していた日本は非友好国として分類され、石油供給の削減の通告を受けた。日本はアラブの友好国にしてもらうために大慌てをした。指導者の国際情勢認識の差の産物であった。この問題には以降の章で戻ってこよう。

 脱線が長くなったが、一九六七年以降、イスラエル軍の装備はフランス製からアメリカ製へ、そして時には国産へと切り替えられた。次の戦争、つまり一九七三年の戦争においては、例えばイスラエル空軍の主力は、アメリカ製のF4ファントム戦闘爆撃機であった。ファントムとは英語で幽霊を意味している。つまりミラージュ(蜃気楼)がファントム(幽霊)に化けた。

戦場から議場へ

 安全保障が国家の最優先事項となっているにもかかわらず、イスラエルの政治が民主制を維持してきたのは評価される。軍の力が大きくなり過ぎ、結局は民主主義が窒息死するという第三世界にお決まりのパターンは、イスラエルでは起こっていない。その面ではイスラエルは「武装国家」ではあるが、「軍事独裁国家」ではない。言わば「民主的要塞国家」(democratic garrison state)だ。

 しかし、軍はクーデターという方法ではなく、政界に人材を供給するというルートでイスラエルの政治に影響力を与えてきた。イスラエル国防軍のエリートたちは四十代で軍籍を離れ、政治に転向する場合が多い。常に兵士の先頭に立ち、また常に新しい兵器、戦略、戦術に適応していくためには、老人の指揮官は役に立たないとの発想がある。生存を賭けた国防努力を迫られているイスラエルには老害に付き合っている余裕はない。「アラブ諸国は何度でも戦争に負けられるが、ユダヤ人国家は一度しか負けられない」との言葉をイスラエルの宣伝はしばしば使用する。つまり、アラブ人は敗れても国が亡くなるわけではなく、いつの日かの再起を期すことができる。しかし、イスラエルは一度負ければ国が滅亡し、二回目の戦争を戦う機会はない。軍のエリートが比較的若くして重責を担い、そして政界に転向していくというのは、日本の中央官庁のエリートたちにも最近目立ち始めた傾向に似ていよう。

 したがって、イスラエルのクネセット(議会)には、元将軍たちが溢れている。一九五六年と一九六七年の戦争の英雄であった独眼のダヤン将軍は、亡くなるまでイスラエル政界の大物であった。労働党の故ラビン首相は一九六七年の戦争時の参謀総長であった。リクード党の党首であったシャロンは、一九七三年の戦争時にスエズ運河の逆渡河作戦を成功させて戦局を逆転させた英雄である。後に触れるベギン政権が、シャロンを含め一時期五人の元将軍を閣僚として抱えていた事実などは、軍が政界への登竜門となっている実態をよく示している。これは、各政党が票集めのために国民的英雄となった将軍をスカウトするからでもある。国防が最重要課題である以上、軍事の専門家が政治指導に大きな役割を果たすという現在のパターンは変わりそうもない。クネセットでの将軍たちの第二ラウンドが続いている。


★★★ 続きは本書で ★★★

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