親となっても『魔女の宅急便』を好きでいられたこと

アニメ大国である日本が世界に誇る、ジブリ映画。
その中でもわたしは『魔女の宅急便』が大好きである。

『魔女の宅急便』は、14歳になったキキという少女が、故郷を離れ、黒猫のジジとともに一人前の魔女となるべく成長していくストーリー。
魔女に黒猫に箒というヴィジュアルだけで、もうわくわくしてくる。
小学生の頃『魔女の宅急便』を観て、自分とそう年齢の変わらないキキが奮闘する様にとても興奮し共感した覚えがある。
その後、庭に転がっていた竹箒にまたがったくらいには、この映画に影響されている。

そして大人になっても、それは変わらなかった。
成人したわたしは竹箒にまたがりこそしないものの、時折思い出したようにこの『魔女の宅急便』を観ては、ひとり涙した。
年齢を重ねていっても『魔女の宅急便』は魅力的で、わたしの中で特別な存在だった。

『魔女の宅急便』のどこにそんなに惹かれているのかと言えば、一言で言うと「共感」だろう。
スランプや挫折から立ち直り、立ち向かっていくキキの姿に自分を重ねてしまうのだと思う。
キキを見ているようでいて、キキを通して自分を見ている。
キキを応援しているようでいて、自分を奮い立たせようとしている。
わたしにとって『魔女の宅急便』はそんな応援ソングならぬ、応援映画なのである。

ところが。
事態は急変する。

いつまでもキキのような少女の心だったわたしも、ついに親になったのだ。
出産を経験し、ひとりの男児をもうける。
しばらくは、映画などとてもじゃないが観る余裕などない日々だった。
しかし息子が成長してきて、一緒にテレビなどを観ることも増えたある日。
わたしの一番好きな映画だよと言って『魔女の宅急便』を息子と一緒に鑑賞した。

すると、どうだろう。
はじまって数分と経たぬうちに、わたしは号泣していたのだ。

おかしい。
キキはまだ故郷を旅立ってすらいない。
わたしの泣き所は、キキがトンボのために奮闘するあのラストシーンだったはずなのに。

そう、親となったわたしは、キキの父親の台詞で号泣していた。

「いつの間にこんなに大きくなっちゃったんだろう。上手く行かなかったら、帰ってきていいんだよ」

それは今まで、これっぽっちもなんとも思っていなかったシーンだった。
むしろキキと一緒になって、「そんなことにはなりませんよーだ!」と思っていた。
それなのに。
親になったがゆえに、この台詞が痛いほど理解出来た。

もう以前のようには『魔女の宅急便』を観ることが出来なくなってしまったことが、わたしにとっては大きな衝撃だった。
人によって受け取り方は様々だと思うが、その時のわたしには、それが残酷な現実に思えた。
親となることで「自分」という存在がどんどん消えていくような気がしていたのだ。

わたしが「わたし」ではなく「ママ」という存在になっていく。
その感覚が恐ろしかった。
決して子どもが可愛くないとか、そういったことではない。
息子は本当に可愛くて、愛しい。
けれど、「わたし」は「わたし」だ。
そう思いたかった。

しかし、そうではない現実を、この『魔女の宅急便』にまざまざと見せつけられてしまった。
わたしはもう、すっかり「ママ」に、親になっていたのだ。
自分では気づかないうちに、少しずつ、少しずつ。

でもそれは、「ママ」が「わたし」に成り代わるわけではなかった。
「わたし」の中に「ママ」という感覚が増えただけだ。
その証拠に、「わたし」は結局「わたし」のままで、『魔女の宅急便』のラストシーンでは盛大に泣いた。

ジジの言葉を借りれば、息子が生まれてからはじめて観た『魔女の宅急便』の感想は、こんな風にも言える。

なんだ。ただの「わたし」じゃないか。

親としての泣き所が増えただけで、以前と同じように『魔女の宅急便』を好きだと思えた。
最初は心配したけれど、観終わってみれば、なあんだ、わたしはわたしだったのだ。
そんなことは当たり前なのだけれど、当時のわたしには大きな発見だった。

もちろん親となって、色々な変化はある。
楽しい嬉しいことばかりではない。
悲しいこと、悔しいことだってある。
そんな中で、『魔女の宅急便』を変わらずに好きと思えたことは、わたしにとっての今後の希望となるような出来事だった。

それに、わたしがどんなわたしになったとしても、作品の良さは揺るがない。
親になっても変わらず『魔女の宅急便』はわたしの一番好きな映画である。

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