解説タイトル04

カジュアルに哲学|『死に至る病』編vol.4 絶望を知らないという絶望

カジュアルに哲学は、哲学の名著を気楽に読んでいくコーナー。
『死に至る病』編も1/3まで来ましたよ!
今回はこれまでのおさらい。改めて、絶望について知らないという悲劇についてみていきましょう。

[今日読むところ]
『死に至る病』第1部 B この病(絶望)の普遍性
[目次]
1. 絶望についてのさまざまな誤解:絶望が「死に至る病」であるということ
2. 「絶望していない」人以外みんな絶望している:絶望の普遍性
3. 絶望してるかどうかは自分では分からない:絶望を知らない絶望
4. 絶望が隠されているという悲惨:永遠は君を知らない

1. 絶望についてのさまざまな誤解:絶望が「死に至る病」であるということ

これまで「絶望とはどんな病気なのか」について、精神の構造から絶望の苦しさの原因まで色々と見てきました。おそらく、「精神の病」としての「絶望」は、普通に思い浮かべる「絶望」とは性質がなんか違うということを感じていただけたのではないでしょうか。

今回読む箇所は、絶望の概要説明の総まとめ回です。というわけで、「精神の病」としての絶望の特徴をざっくりおさらいしていきましょう!

【a】絶望は「精神」の病なので、何もしてないのが絶望!
精神は「カレーライスになるべきカレーとライス」であり、絶望は「カレーライスを作りそこなう」ことでした。

精神は最初からカレーライスなのではなく、「カレーとライスのセット」であるだけです。なので、何もしないでおくと、カレーとライスはカレーライスに成ることが出来ない=絶望していることになります。

これは身体の病気の場合と反対です。身体はそのままの状態が健康であり、病気は異常な状態です。しかし、精神ではむしろ、そのままの状態は「カレーとライスのセット」=「カレーが出来てない」=絶望=病気なのであり、「カレーライスを作る」というアクションが加わった(ある意味で)異常な状態こそが健康なのです。

人間が精神として考察される場合には、健康も病気もともに危機的なのである。精神の直接的な健康などというものは存在しないのである。(p.451)

そのため、「絶望したことがなく、絶望しないために何の努力もしていない」そのままの精神は、健康なのではなくむしろ病気なのだということに成ります。ややこしいね。


【b】絶望は「不幸」じゃないので、幸福でも絶望していることがある!
第二回では、絶望と不幸の違いについて確認しましたが、これも上で見たような精神における健康と病気の関係と繋がっています。
幸福とは「悪いことがなんにもない状態」、つまり精神がそのままの(直接的な)状態にあるということです。
精神の病気は、意識的に対策しないともれなく罹ってしまうものですが、幸福な人はわざわざ絶望しない対策とかしませんよね? 平和ボケならぬ幸福ボケしている精神は、絶望ウィルスにとって格好の的なのです。

あらゆるものの中で最も美しいもの、最も愛らしいものでさえ、すなわち、平和と調和と喜びそのものにほかならぬうら若い女性でさえが、やはり絶望なのである。[…]これは幸福なのであるが、幸福は精神の規定ではな[い、それゆえ]幸福の奥底、これこそが絶望にとって一番このましい[…]住処だからである。(p.451)

無防備な精神にこそ絶望は巣くうもの。ハッピーだからといって絶望予防を怠ってはいけないのです!


【c】絶望は「永遠の」苦しみなので、絶望する前も絶望していることになる!

第三回では、絶望が「死に至る」ほど苦しい病なのは、精神が永遠なものだからという話をしました。精神は身体と違って死滅しないので、治さない限り絶望の苦しみは永遠に続きます。
さらに、絶望は未来永劫続くだけでなく、過去の精神をもむしばみます。身体の病気の場合は、風邪をひく前には当然、風邪をひいていません。しかし、絶望に罹った場合は、絶望に罹る前も絶望していることになるのです[※1]。

絶望の場合には[…]、絶望が現れるやいなや、その人はそれまで[ずっと]絶望していたということが明らかになるのである。(p.449)

それもこれも精神が永遠なのが原因です。「永遠」というのは、「過去も未来も現在も変わらず同一だ」ということです。「今」絶望しているとすれば、連動して、「過去(絶望する前)」も「未来(死後も含む)」も絶望していることになるのです。
だからこそ、精神の病気はヤバイ! 頑張って治すしかないのです!


※1 この話は、おそらく、キルケゴールの堕罪解釈に関わっていると考えられます。『不安の概念』では、堕罪する前には確かに無垢であったアダムも、堕罪後には「元々罪を犯す素質があった」ことが"後から"前提されるという構造が見られます。キェルケゴールはここで自覚された絶望(=罪)が、遡行的に過去の精神も規定する構造に言及することによって、堕罪や原罪について注意を払っているのかもしれません。

2. 「絶望していない」人以外みんな絶望してる:絶望の普遍性

さて、このような「精神の病」としての絶望の性質を踏まえると、絶望がいかにメジャーな病気であるかがわかります。

普通、絶望せずに生きている人が大半で、絶望しているのはごく一部だと思いますよね。というのも、大半の人は「たまに落ち込むこともあるけど、全体としては元気」だと"感じていて"、絶望を"感じる"時が少ないからです。
つまり、大抵は、絶望しているかどうかは、そのひとが絶望を"感じて"いるかどうかで決まる、と考えているというわけです。

普通の考察は、人間は誰でも、自分が絶望しているかいないかについて、自分自身が一番よく知っているに決まっている、と考えている。[…]その結果として、絶望は比較的まれな現象であることになる。(p.448)

しかし、そもそも「絶望という病気がどんなものか」知らないのに、どうやって自分か絶望してるかしてないかを判断するんでしょうか
アンティ=クリマクス先生に言わせれば、ほとんどの人は絶望という病気の性質についてわかっていません。たしかに、これまで見てきた絶望の性質は、私たちが普通に考える絶望とはだいぶ異なるものでした。

そうすると、「ほとんどの人は絶望しておらず、絶望しているのは一部の人だけ」という私たちの診断も間違っていることになります。実際は、「絶望していない」人=絶望対策を意識的にしている人以外は絶望しているんですから、絶望(を意識)していない人は全員絶望者カウントです。

この[一般的な絶望の]考察は、絶望していないこと、絶望していることを意識していないということ、それこそが絶望の一つの形態にほかならないということを見逃しているのだ。(p.448)

「そんなこと言ったら、絶望してない人なんていないことになるじゃないか!」と思ったそこのあなた! 

大正解です!

この世界には絶望してない人はいません!!

絶望したことがないという人間は、キリスト教界の外部にはかつて一人も生きていたことがなかったし、また現に生きてもいない[…]。人間は真のキリスト者に成りきっていない限り、結局、なんらかの意味で絶望しているのである。(p.447)[※2]

毎日元気に過ごしている君も、他人事じゃないぞ!


※2 キリスト者(信仰者)だけが絶望から救われている人とみなされていますが、「キリスト教の信者なら絶望してない」「教会に通ってれば絶望してない」というのは誤りです。というのは、キェルケゴール式キリスト教は、信仰者判定がめちゃくちゃ厳しいので、人間にはほぼ不可能なレベルだからです。気になる人は『キリスト教の修練』や『おそれとおののき』を読もう!

3. 絶望を知らないという絶望:「絶望していない」ことと「絶望を知らない」こと

結局のところ、絶望という病を理解するうえで一番大事なのは「絶望してなくても絶望している」という点です。一般的な絶望と、病気としての絶望の違いは、大体この点にあります。
またこのことから、「絶望している人の方が、絶望していない人よりも、絶望が治っている」とも言えます。絶望は意識的に対策しないと治らない病気です。自覚症状のある人の方が「絶望を治そう!」と考える分、治癒に向かって一歩進んでいるのです。

むしろ逆に、自分は絶望していると[…]言うものの方が、[…]、少しばかり、弁証法的に一歩だけ、治癒に近づいているのである。(p.452)

早期発見が治療につながるのと似たようなものです。自分が病気であることを知らなければ治しようがない。絶望するということが、絶望を治すための第一歩なのです

絶望は[…]病ではあるけれども、それにかかったことがないというのは最大の不幸であり――それにかかるのが真の神の恵みであるといえるような病なのである。(p.452)

そういうわけで、絶望はある意味罹った方がいい病気でもあります。罹らないと絶対に治らないからです。逆説的ですね。

4.絶望が隠されているという悲惨:永遠は君を知らない

絶望は絶望しないと治せない。でも、世の中には絶望せずに、安らかに死を迎える人もたくさんいますよね?
そう、それこそが絶望の一番怖いところなのです! つまり、ひとは絶望せずに生きていくことが出来るということ、絶望しているのにそれに全く気付かないということがありえるということが、この世の最大の悲惨なのです!

インフルエンザには一日二日潜伏期間がありますが、絶望の潜伏期間は一生です。死んでから絶望していたということが分かるという悪質なドッキリ審判が死後に待っているのです!
「汝、カレーライス作ってないよね?」と言われ、「そんなの聞いてないよ!」と思っても遅いんです。やってないものはやってない。カレーライス(精神)は未完成のまま、絶望は絶望のままなのです。
しかも、精神は不死なので、絶望から逃げることもできません。精神という永遠なものは、永遠に失われたのです……

以下、アンティ=クリマクス先生の嘆きをエンディングテーマとしてお楽しみください。

ああ、しかし、いつか砂時計が、時間性(この世)の砂時計がめぐり終わる時が来たら、俗世の喧騒が沈黙し、[…]君の周囲にあるすべてのものが永遠の内にあるかのように静まり返るときがきたら――その時には、君が男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏であったか、[…]幸福であったか不幸であったか、[…]このようなことにかかわりなく、永遠は君に向かって[…]、ただ一つ、次のように尋ねるのだ、君は絶望して生きたかどうか、[…]と。

そして[…]もし君が絶望して生きたのだとしたら、たとえその他の何を君が手に入れ何を失ったのだとしても、君にとっては一切が失われたのだ、永遠の味方をしない、永遠は君を知らない、[…]もっと恐ろしいことに、永遠は君が知って居るとおりに君を知っている、永遠は君を君の自己もろともに絶望の内にかたく縛り付けてしまうのだ(p.454)



そんなこんなで、「絶望とはどんな病気か」を説明する『死に至る病』第一部第一章A&Bは終わりです。
ここから先は、絶望を種類&レベル別に分類して紹介していく、たのしい小話がいっぱいの絶望診断パートに突入します! この辺は読みやすいので、ぜひ原典もチェックしてみてください!

というわけで、第五回「あなたの絶望はどこから? 前編|C-a-α 有限性―無限性の絶望」では、卑屈型と自意識過剰型の絶望を紹介していきますよ! お楽しみに~!

[備考]
訳は『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社,桝田慶三郎編,収録の『死に至る病』を使用し、ページ数もこれに対応しています。

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