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あの日のわたしたち ~浦和レッズ30年~ 3月編

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「あの日のわたしたち」の投稿、3月分をまとめたマガジンです。 数年前のその日に何があったか、清尾淳が一番印象深い試合をコラムふうに毎日投稿しました。 その日に何を考え、何をしてい… もっと読む
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3月31日(2001年) J1復帰初勝利が自分の誕生日と重なった

 2001年3月31日(土)。浦和レッズは駒場スタジアムにアビスパ福岡を迎え、Jリーグ第3節を行った。  J2での苦しい闘いを経てJ1に復帰したこの年、大望を持って開幕を迎えたが、初戦はアウェイで名古屋グランパスエイトに完敗(3月10日、0-2)。第2節はホーム開幕をスタジアム全体のビジュアルで盛り上げたが、セレッソ大阪と引き分け(3月17日、2-2)。まだ勝ちがなかった。 トゥットが初ゴール、福田が追加点 1週あいて、31日の第3節はまたホーム。福岡はこの前々年レッズが

3月31日(2001年)チッタとフラビオとフィジオセラピスト

ブラジル人体制に方針転換。 監督、コーチ、ホペイロ、フィジオセラピスト…。 分業というのはこういうことなのかと、鹿島はこうしているから強いのかと、興味津々だった開幕からの2戦は結果が出ず、前節は移籍した大柴健二に痛い目に会わされる始末。 1999年、2000年の迷走に辟易としていたところで、方針の定まっているだけでも安心感はあった。 この日の相手は福岡。 このあたりに勝てないようでは先が思いやられる。 選手のネームバリューだけなら浦和が圧倒的ではないか。J2からJ1に復帰した

3月31日 誕生日

清尾さん、レディア君、kaz_goalさん、他3月31日お誕生日の皆さん、おめでとうございます。 浦和がホームゲームの試合前(以前はハーフタイムだった)に、試合日が誕生日のサポの名前を紹介するプログラムが好きだ。私のサポ仲間でも5月生まれ、10月生まれの者が名前を呼ばれ、オーロラビジョンに名前が出て、とても嬉しそうにしていた事がある。選手が観客の多いところでプレーしたいと思うのと同様に、サポも観客のいるところで自分の名前を呼ばれることに喜びを感じるのだろう。私の誕生日の6月

3月31日(2001年)トゥット

♬ お前のために歌うのさ さあ見せてくれよ トゥットトゥットゴール  トゥットのチャント大好きでした。あの肩をいからせた独特な走り方が目に浮かびます。そのトゥットの初ゴール、うれしかったです。 レッズがJ2にいた2000年、FC東京が入れ替わりに昇格し、J1にいました。その東京の選手だったトゥット、東京のキング・アマラオとのコンビネーションが機能し、彼の速さ、強さを発揮していました。そのころからレッズには他チームで活躍している有名な選手が移籍してくるようになり、トゥットも

3月31日(2001年) happy birthday

清尾さん、お誕生日おめでとうございます。 レディアもhappy birthday! 私も同じ3月31日生まれなので、最初にお二人(?)と一緒だと気付いた時は、 「何だかレッズな誕生日だぞ」と嬉しくなりました。 あと48分で、エイプリルフール生まれになるところ、頑張ってくれた母にも感謝です。 2001年のこの日はかなり寒い日で、雪も降っていたと記憶しています。 それでも自分の名前の載ったMDPは欲しいし、オーロラビジョンもチェックしたいので、迷わず駒場へ。 勝利だけでなく、福

3月30日(1996年)鬼門スタジアム初勝利で“破竹”の4連勝

 1996年年3月30日(土)。浦和レッズはジュビロ磐田スタジアム(現ヤマハスタジアム)に乗り込み、ジュビロ磐田とJリーグ第4節を行った。 過去4戦未勝利の磐田スタジアム ジュビロ磐田はJリーグスタートより1年遅れの1994年に昇格したチーム。レッズは、前年までの2シーズンでリーグ戦3勝5敗とやや分が悪いくらいの関係だったが、アウェイの磐田スタジアムでは4戦全敗と惨憺たる成績だった。当時の鬼門と言ってよかった。  僕の個人的な思い出としては、磐田の昇格前の93年、ヤマザキナ

3月30日(1996年)試合結果を知る手段

磐田スタジアムで行われた磐田戦は仕事のため欠席。今ではSNSや公式ホームページにアクセスすれば簡単に情報が手に入るが、当時は知る手段がなく、試合結果は帰宅してから。 前日のテレビ埼玉「GO!GO!レッズ」が試合直近の最新情報を得ることが出来なかった時代。 ギドがいるのにギトがスタメンじゃない、しかも起用されずに延長スコアレスドロー。どういうことなんだろう?情報は現地で、この目で見て確かめる。肌で感じて90分間に全てを掛ける。日常の中の非日常は、まだまだアナログだった。

3月30日(1996年) “ヤマハの武田”

1996年のこの日、義務教育期の私は家族に連れられて現地で観戦していました。 四半世紀ほど前の単なるリーグ戦にすぎませんが、この日の思い出は結構ハッキリと残っています。 0-0のスコアレスで突入したPK戦という長丁場の試合でしたが、まだまだ冷え込む春先に強く降りしきる雨に打たれながら観戦した事で手の皮膚がしわくちゃにふやけ、 大雨でポンチョがポンチョとしての機能を果たさない中で寒さと冷たさに耐えながらも勝利を掴んだ喜びはひとしおでした。 そして何よりも強烈なインパクトだ

3月30日(1996年):行ってみたいランク上位のスタジアム

この日は、いつものことですが記憶にありません。 以前の投稿にも書きましたが、1996年は気持ち的にレッズから一番遠かった年だと思います。ただし、「まだ参戦したことがなかった」というのは間違いでした。初参戦は昨日書いた通り95年でした。 ヤマハスタジアムは、未訪問スタジアムのうち、行ってみたいランク上位のスタジアムです。試合中にいいつも思うんですが、テレビカメラが手前のサイドラインを撮るのに苦労してます。ピッチが近くてスタンドが切り立ってるからだと思うんですが、現地に行かないと

3月30日(2013年) 一番戻ってきてほしい新潟

3月30日で写真を検索したら、2013年の新潟戦が出てきました。前年に達ちゃんがレッズを去ってすぐに対戦だったですね。それと東口がいたんだ。でもメンバーには入ってなかったなぁ。 他にもこんな写真が出てきました。 新潟は美味しいものばかり、自分としては、また上がってきてほしいチームNo.1です。

3月30日 東海アウェー

3月29日の投稿で、私は「鬼門・名古屋戦」と書いた。今日の清尾さんの投稿で磐田、清水を加えた「東海アウェー」も鬼門化していたのを思い出した。 1年遅れてJFLから上がってきた磐田だったが、1993年、JFL時代の磐田にも浦和は一蹴されていた(職場で静岡出身のアルバイトに「ジュビロ強いですね」と言われて、歯噛みする思いをした記憶がある)。2000年前後は磐田の黄金時代だったし、清水も2000年のチャンピオンシップで磐田と覇を競うほどの力を持っていた。これに名古屋を加えた東海地

3月31日(2012年) 嵐の中のWe are REDS!

自分の中では3月31日といえばこの年です。2012年3月31日は、北の爆弾低気圧の影響で、関東は嵐のような天候、そして、この日は川崎フロンターレ戦でした。 まずはポポが見事な反射神経で高速クロスに反応して前半10分に先制。幸先良いと思われましたが、天候の影響からかパスミスが多く、危険なエリアでボールロストすることが多発していました。 そんな嫌な流れの中、失点して同点に追いつかれると、ディフェンス陣が相手カウンターを防ごうとカードを貰いまくることに…。 そして、阿部ちゃんが2枚

3月30日(1996年)磐田スタジアム

私は磐田(ヤマハ)スタジアムに行ったことありません。私がアウェイに行くようになってから、磐田はレッズ戦ではエコパスタジアムを使う事が多く、たまに磐田スタジアムを使う時には私の都合が悪くて、未知のスタジアムです。 当然、この日の試合も現地ではなく、テレビ観戦だったかと思いますが、試合内容も覚えていません。でも、オジェック監督の2年目で連勝をしたことは覚えています。あのレッズが強くなったものだと浦和界隈では評判になり、都内にあった職場でも少しは大きな顔ができました。そのころ私は

3月29日(1995年)居られなかったことが残念、28人のPK戦

 まったく、この試合に行っていないとは、なんて間が悪い奴だ。いや、自分のこと。  1995年3月29日(水)。浦和レッズは国立競技場をホームに、名古屋グランパスエイトを迎えてJリーグ第4節を行った。  ホルガー・オジェック新監督を迎えてスタートしたシーズン。開幕戦をアウェイで落としたが、第2節はホームで勝利。アウェイの第3節は敗れ、1勝2敗でこの名古屋戦を迎えた。 “弱小仲間”だったが相性最悪の名古屋 1993年と94年、連続年間最下位という屈辱を味わったレッズだが、94