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あの日のわたしたち ~浦和レッズ30年~ 6月編

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「あの日のわたしたち」6月編です。 数年前のその日に何があったか、清尾淳が一番印象深い試合をコラムふうに毎日投稿しました。 その日に何を考え、何をしていたか、ファン・サポーター… もっと読む
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6月30日(2007年) 伸二が2発、Jリーグ中断前に快勝で首位を追走

 2007年6月30日(土)、浦和レッズはエコパスタジアムに乗り込み、ジュビロ磐田とJ1リーグ第18節を行い、2-0で勝利した。Jリーグはこの第18節を最後に、アジアカップのため約1か月の中断に入った。 首位ガンバは射程距離  2日続けて磐田との試合を書くことになったが今日は快勝の話題だ。  このシーズン、ACLと並行してJリーグを戦っていたレッズは、序盤は首位に立つも、その後3連続ドローなどが響き、第17節が終わった時点で首位のガンバ大阪に勝ち点5差の2位につけていた。

6月28日(1995年)ヤス!

外連味のないドリブル。 ストライカーでもなくパサーでもない。 それまでの浦和にいなかったタイプの選手が現れた。 1.5列目というのだろうか。 あっという間にヤスの虜になった。 福福コンビは、ウーべ〜福田正博ラインとも異なる、新たな魅力となった。 1995年6月28日。 改修前の駒場は、近くて遠い存在だった。

6月30日(2007年)輝く伸二と愛野ダッシュ 

ロビーがいなくても小野伸二がいる。 次々と大型補強を敢行し、強い浦和西変貌したチームは、天才・小野伸二といえどポジションは安泰ではなく、本来の実力を存分に発揮出来るはずのトップ下ではなく、サイドMFやポランチでの出場も多く、オランダに渡る前の輝きを知っているだけに、現状のチーム内での立ち位置は、もどかしく感じていた。 ロビー不在の磐田戦。 ピッチに君臨したのは、小野伸二だった。 浦和に在籍する選手に嫌いな選手はいない。 浦和に在籍する選手はみんな愛着がある。 ただ、小野伸二は

6月27日(2015年)リーグ制覇の通過点・・のはずだった。

 20日のアウェー神戸戦で1stステージ優勝を決めていたので、ホームに戻りやや緊張感の欠けた気持ちで新潟戦に臨みました。しかし、宇賀神選手以外のスターティングメンバーを替えなかったチームに緩みはありません。  立ち上がりの相手チームの勢いを巧くいなしたレッズは15分を過ぎると本領を発揮し、PKと武藤選手のゴールで折り返します。後半も新潟を圧倒、武藤選手・興梠選手と連続得点。次々とやってくるチャンスにスタジアムは沸き、選手たちもゲームを楽しんでいる様子。終いは那須選手の豪快な

6月29日(1996年)変わるレギュレーション

何でもいいからタイトルが欲しい。 毎年そう思ってきた。 レギュレーションがコロコロ変わるナビスコ杯。 リーグ戦のチャンピオンとしての価値と、カップ戦のウイナーという価値に違いがあることに気付き出したのは、この頃だろうか。 今のようにターンオーバー制が当たり前ではなく、常に「ベストメンバー」で毎試合を戦っていたので、リーグとカップの区別が付きづらく、試合があるから試合に行くという感覚が強かった。 96年は「狭き門」だった。 予選を突破出来るほど強くない。 星勘定も次第に予選突

6月30日(2002年) 天皇陛下に一番近づいた日

2002年6月30日は日韓ワールドカップの決勝の日でした。 この日韓ワールドカップ、自分は全部で7試合観戦することができました。 埼スタでのイングランド対スウェーデン(6/2)、日本対ベルギー(6/4)、準決勝のドイツ対トルコ(6/26)、仙台でのアルゼンチン対スウェーデン(6/12)、新潟でのイングランド対デンマーク(6/15)、横浜で行われた日本対ロシア(6/9)、そして決勝のブラジル対ドイツです。 今にして思うと、よくこんなに行けたなぁと思います。 当時、チケット取りの

6月30日(2007年) エコパの思い出

2007年6月30日のエコパスタジアムの試合の記憶は、重箱の隅をつついても出てこない。エコパスタジアムの思い出は幾つかあるのに、である。多分、参戦していなかったのだろう。 試合の記憶はないが、エコパの思い出には印象的なものがある。まず、初めてエコパで試合が組まれた年。私はクルマを走らせ下見に行った。スタジアムまでの道程、周辺の様子を見て回った。駐車場はスタジアムの奥の法多山が便利なことも調べた。ただ、何を血迷ったのか、スタジアム周辺を調べたら即帰京してしまった。私1人だった

6月30日(2007年)エコパへ

エコパスタジアムにはジュビロ戦やエスパルス戦で何度か行きました。山の上にあるので、行きは上り坂、帰りは下り坂ですが、どちらもそんなに気になるほどの距離ではありません。他に寄り道をするわけではなく、ここへ行く時にはただ試合のために日帰りで往復をすることがほとんどです。 この日もJR愛野駅から歩き、途中でエスカレーターに乗り、目的地に着きました。目的地のスタジアムに近づくにつれて、邪念が無くなっていく感じがします。 試合は、開始早々に伸二がフリーキックを沈め、前半のうちに伸二

6月29日(1996年) ナビスコ予選リーグは敗退決定、気持ちを切り替えて中断へ

 1996年6月29日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムにジュビロ磐田を迎えて、Jリーグヤマザキナビスコカップ予選リーグ第5節の第1戦を行い、1-2で敗れた。 8チームで2チーム抜けの超狭き門  この年のナビスコカップ予選リーグは変則的な形で行われたことは「6月8日」に書いた。  リーグ戦なのに、ホーム&アウェイ2試合の合計得点で勝ち、負け、引き分けが決まるというのも変則的だったが、それよりも8チームのグループで2チームしか決勝トーナメントに進めない、という「超」がつく狭

6月29日(1996年):楽しみだった中島豪

この日は、いつものように記憶がありません。 なんか手掛かりをと、この試合の出場選手を眺めてたら、中島豪選手を見つけました。 中島選手は、1994年から1996年まで浦和レッズに所属していました。3年間で公式戦26試合出場で2得点。国見高校出身なので、大分出身のワタクシは、同じ九州出身の中島選手を応援してましたが、後ろの選手だったことと、ワタクシ自身、今よりさらにサッカーを知らなかったこともあって、彼のプレーの記憶はほとんどありません。レギュラー定着を期待したんですが、1996

6月29日(1996年) レギュレーション

1996年は、まだシーチケを所有していなかったため参戦数が少なく、このナビスコ杯の記憶もわずかしかありません。ただ、清尾さんの記事にある通り、8チーム中突破は2チームというレギュレーション、途中に中断期間がある変わった日程であったことは覚えている。 ナビスコ杯(ルヴァン杯)は、世界各地で行われているリーグカップの中で、同一企業協賛の最長記録としてギネスブックにも記載されているという。ヤマザキビスケット株式会社には頭が下がる思いだ。 ナビスコ杯は、ほぼ毎年レギュレーションが

6月29日(1996年) 記憶を絞り出してみました

レギュレーションが度々変わるのは困ったものです。 価値が下がってしまいそうで、ヤマザキさんにも申し訳ない気持ちです。 さて、6月29日に行われた試合。 30年でこの一戦のみ。 家にMDPが無いから、参戦していないのは確か。 テレビで放送されたなら見ているはずだけれど、それすら定かじゃない。 全く思い出せないので、Jリーグのデータサイトでチェックすることに。 得点者は、福田正博、中山雅史、スキラッチ。 数多く点を取っている人たちばかりで、やはり試合の内容は思い出せない。 中

6月28日(1995年) ルーキーがVゴールをアシスト ついに勝率5割へ

 1995年6月28日(水)、浦和レッズは大宮サッカー場に横浜マリノスを迎えてJリーグ1stステージ第20節を行い、延長の末2-1で勝利した。これでレッズは10勝10敗。ステージ終盤に差し掛かろうかという時期に勝率が5割になったのは、これが初めてだった。 半ばを過ぎての5割は初めて 開幕戦で大勝すれば第1節を終えて首位、ということになる。  レッズも開幕直後であれば、1勝1敗の勝率5割になったことはあった。また1994年の2ndステージは第7節時点で4勝3敗と勝ち越してい

6月28日(1995年):10番じゃない福永

この日は、テレビ観戦でしたが、Vゴール直後にオジェック監督がピッチに駆け込んで、大喜びで誰彼かまわずハグしてたのを、よく覚えてます。その映像が、何度もオンエアされたからかもしれませんが。 1995年には、まだレッズサポを名乗るにはほど遠かったワタクシ。先に記事を書かれている皆さんのように、大宮伝説をリアルタイムで意識していなかったし、デビュー当時の福永選手には、それほど強い思い入れがありません。 ワタクシの福永選手のイメージは、彼が10番つけてからです。重心は低いけど、背筋が