一 非日常の日々

 春(はる)生(お)が二、三歳ぐらいの頃だった。兄の秋(あき)生(お)と二人で、母に連れられて初めて北海道の母の実家に行った。
 母の育った村には、丘の南側の中腹に神社があり、その下の傾斜地に役場があった。そして、その丘の向こうから一本の道路が大きくカーブして神社と役場の脇を緩やかに下って町の中心部に入って来る。祖父母の家は、その坂道の麓に建っていた。
 春生がはっきり覚えているのは、バスがその坂道をゆっくり下りてきて祖父母の家の前に差し掛かったとき、春生の目の前で秋生が突然、バスに向かって石を投げつけたことである。バスの車体に石が当たって大きな音を立てた。バスはすぐに止まり、運転士が駆け降りてきて、兄をつかまえ激しく怒った。家から慌てて出てきた祖母が運転士に平謝りに謝った。そして兄をきつく叱りつけ、懲らしめに兄を縛った。縛られた兄は大泣きした。
 母の実家に滞在していた同じ時だが、兄弟でカメラに向かって怖い顔をしようと打ち合わせて、秋生が鬼か般若のような形相をしてカメラを睨み、春生も最初はそんな顔をしたのだがすぐに噴き出してしまった。偶然だが兄弟で対照的な顔をしたその瞬間が写真に撮られて、後々まで残っていた。
 また、これも、たぶんその前後、兄弟二人でふざけて、下駄と長靴とを片足ずつ交換して履いて、秋生が一升瓶、春生が一斗缶を、それぞれぶら下げて歩いている写真もあった。
 たぶん、どちらも秋生が提案し、春生が同調して一緒に行動したのだろう。父が、後から仕事の休みを取って妻子を迎えに来ていた。だから、この二枚の白黒写真を撮ったのは父だった可能性がある。彼らの家では、兄弟がふざけている様子を撮ったそれらの写真があったので、後になっても時々家族で話題にし、幼かった春生にも貴重な思い出として、記憶にとどまったのだろう。兄がバスに石をぶつけた話にはもともと写真はなかったが、母の実家に初めて行った時の強烈な記憶として、写真と同じように春生の脳裏に焼きつけられた。
 母の実家についても兄についても、いや、自分自身に関しても、これらのことが、春生の一番最初の記憶だと思う。もう七十年ぐらい前の話だ。兄の秋生は春生より三歳上だった。ちなみに、春生が生まれたのは父が二十九歳、母が二十三歳の年だった。兄弟のこの時の写真は、両親が相次いで亡くなって、家を処分したときに散逸してしまった。もし春生がこうして書きとめなければ、すべてが茫漠とした時間の中に置き去りにされ、やがて永遠に埋もれてしまう。記憶というのは儚(はかな)いものだ。
 春生は、この時より十数年後の十六歳の時に、母と一緒にこの場所に立ち戻ることになる。その時、春生は母の実家を見て、ほぼ記憶通りだったことに感慨を抱くのだ。その時、春生にとって最初にここへ来た時とは全く違う情況で来るのだが、母と父は前回とほぼ同じ情況にいて、母子の滞在の終わりかけに父が休みを取って母子を迎えに来るところも同じだ。十数年を隔てて、父母はそれぞれ、何を思い、何を感じていたのだろう。

 だが、話を幼い頃に戻そう。一家は、転居が多かった。春生が覚えている子供時代の最初の住居は、たぶんこの後、北海道から戻って、家族一緒に暮らした佐渡の相(あい)川(かわ)町の家である。そこは、春生の出生地の次に転居した家のはずだ。
 その家は、海岸から長い石段を上っていったところにあった。石段を上った正面近くには、「裁判所」と呼んでいた木造の堂々とした門構えがあった。この建物は、インターネットで確かめてみると、現在は「佐渡版画村美術館」となっているようだ。木造の門扉に少し変化はあるようだが、ほぼ子供時代の写真どおりのようでもある。
 一方、その石段を上ってから左側に折れると、インターネットでは確認できないが、すぐに大家さんの家があり、春生たちが住んでいた借家はその先、たぶん大家さんの隣にくっついて建っていたはずである。それは、農家作りの古い土間付きの家だった。大家さんの家とは別の入り口が正面にあり、入ると土間がまっすぐに奥まで通っていて、裏庭に出られるようになっていた。その裏庭は、たぶん大家さんの裏庭と共通で、ちょっとした畑になっていて、畑の外側が竹藪で囲まれていた。そして、竹藪はその先の急な斜面に続いていて、斜面の下の方は上ってきた石段の中腹辺りにつながっていた。
 借りて住んでいた家については詳しく覚えていないが、玄関から入って土間の右側に、住居部分がたぶん一部屋か二部屋あったのではないか。土間の左側の奥には竈(かまど)がいくつか並んでいた。生活の細部について春生の記憶はほとんどなく、覚えているのは、この土間から裏庭にかけて、いつも犬や猫が何匹もいたことぐらいだ。犬は、大型犬から小型犬まで三匹くらいいたと思う。特にシロという名の秋田犬は、その名のとおり白い犬だったが、現在言われる秋田犬よりはほっそりした体型で、目鼻立ちも華奢ですっきりして、性格もおとなしかった。シロを良く覚えているのは、斜め向かいの、裁判所の正門の前で、父が袷(あわせ)を着てしゃがんでシロと一緒に写っている写真があったからだ。三匹ぐらいいた犬のうち、シロしかその名前は覚えていないし、これも複数いた猫は、実際に飼っていたのかどうかすらはっきりしない。ともかく、家の土間から裏庭辺りに犬や猫、それに鶏など、結構な動物が出入りしていた。それらの動物のほとんどは、隣りに住んでいる、大家さんであるお婆さんが飼っていたのかもしれない。
 ところで、裁判所前で写した写真は、他にもあり、秋生と春生の兄弟が祭りの法被を着て、鼻梁を白く塗って二人で並んでいるのもあった。春生たちは、そのほんの少し前に、町で神輿を引いて帰ってきたのだった。祭りで買ってもらった玩具の、バネ足を八本広げている赤い蛸も、手に提げていたり門からぶら下げたりしている。
 家から出て、大家さんの家とは反対の左側にさらに進むと、水のない狭い堀のような溝があり、その向こうに空き地があった。その周囲がぐるりと石垣で囲まれていて、ちょうど小さなお城の跡地のような台地状になっていた。その台地の上で時々、野球をしているような人たちがいた。その石垣沿いに台地をぐるりと回っていく緩やかな坂道があり、その道は落ち葉でいっぱいで、松ぼっくりなどがその枯れ葉の中にたくさん混じっていた。春生はその道がどこにつながっていたのかは覚えていない。しかし、これらの記憶も春生がインターネットで調べると、この台地状の空き地は、実際は「佐渡奉行所」の跡地で、現在は建物が復元されて資料などが展示されているようである。
 大家さんの家の脇の石段は、海岸に向かって下っていくと最初はまっすぐに、やがて緩やかに右曲がりになっていた。石段の右の山側の斜面には竹が生えた藪になっていて、中腹には父の同僚の家もあった。春生たちが家の裏庭からボールを落とすとその家の裏庭に転がり落ちるというような位置関係だった。確か飼っていた小型犬も、裏庭の竹藪に迷い込んで、その家に保護されていたことがあった。一度、秋生と春生も、二人でその竹藪を下りてみようとしたが、急坂で春生はすぐに途中から引き返し、表側から回って石段を下りてその家まで行くと、秋生が竹藪を無事に下りてすでにその家にいた、ということもあった。
 その石段をずっと下りていくと海岸沿いの道路につながり、その道路を右に少し行くと父の勤務先の建物があったと思うが、実はこの辺の春生の記憶はそれほど定かではない。インターネットで確かめても、長い石段はあるが、その上の建物の位置なども含めて、記憶と微妙に違っている。もちろん春生の記憶違いがあるのだろうし。町並みも七十年近くの間に大きく変わってしまった可能性がある。
 ある日、秋生と春生と留守番をしているときだった。炬燵に入って絵本を読んでいるうちに炬燵から煙が出てきた。煙いのと、たぶん何が起こっているのか分からないなりに怖かったせいなのだろう、二人で泣きながら、声を出して絵本を読み続けた。そうしている内に、隣のお婆さんが駆けつけてきて、煙の元である炬燵をはぐって、炭の火で焦げている炬燵布団の始末をしてくれたことがあった。やがて母も帰ってきて子供心にも安心したが、本当は火事になる寸前で、火傷もしかねないかなり危うい局面だったはずである。

 この頃の秋生について、後に、父がよく思い出して、
 「秋生は食事前に両手を合わせてお祈りしながら『アーメン』と言っていたんだ」と、笑っていた。春生は半信半疑だったが、母のいる前で何度か聞いた話だから、たぶん、秋生がキリスト教系の幼稚園に通っていたのは本当なのだろう。
 やがて、二年ぐらいでその家から転居することになった。港で投げ合ったテープを引きながら、船が次第に岸壁から遠ざかる時だった。兄弟は両親との会話で、
 「シロはどうしたの?」
 「連れてこれないから大家のお婆さんに頼んで来た」
 「他の犬や猫たちは?」
 「全部人に頼んで置いてきたんだよ」
というようなやりとりをした。シロは確かに自分の家で飼っていたのだ。

 一家は、佐渡から本土に戻って、県の西端近く、内陸の新(あら)井(い)市に転居した。春生の記憶はこの時期からかなりはっきりしてくる。ここには、春生がたぶん四歳頃から二年半ぐらい居住していたが、その期間の最初は、農家の二階に間借りする生活だった。
 その農家は二階建てで、玄関に入ると、道路に沿って左手の前面と、右手の奥へと、土間が鍵の手に走っていた。春生たちはその二階に間借りしていた。南向きで明るい部屋だった。
 また、母屋に入って右側、東隣りに馬小屋が隣接していた。春生はそこで、その大家の小父さんが蹄鉄の交換作業をするのを見ていた。小父さんの作業は手際が良く、馬も従順だった。あるとき、その作業場の壁際のバケツの中に何か赤っぽいかたまりがほとんど透明なきれいな水に浸されて入っていた。それは馬から去勢されたもので、血を抜いて、あとで食べるという話だった。春生はふうんと言ってバケツの中をのぞき込んだ。その話の意味が分かるのはかなり後年で、その時には、自分の記憶している話が本当なのかどうか、確かめようがなかった。
 その辺は田んぼが多かった。間借りしていた家の前も田んぼで、冬は水が涸れて泥が粘土のようになっている。そこで春生は兄について歩いて凧(たこ)揚げをしたりするのだが、風がなかったり、凧(たこ)揚げに飽きたりすると、近くの子供たち数人で代わる代わる「釘(くぎ)くっ立て」をやった。それは、大きな釘の頭を持って地面に投げつけ、釘が回転して突き立ったらその穴を直前の位置からつないで線を引く。今となっては遊び方を正確に覚えていないが、線で囲んだ部分を自分の陣地とし、それを皆で順番にやって、お互いに自分の陣地をどんどん増やしていく。そして、相手の陣地を取り囲んで動けなくしてゆき、最後に残ったものが勝ちとなるという遊びだった。勝ち負けを競うこの種の遊びは、兄の秋生がいつも上手かった。春生はまだ下手だったが、下手なりに面白かった。

 その後間もなく一家は町中の別の住宅の二階に転居した。春生が新井市で唯一覚えているのは、そこの「東雲(しののめ)町」という地名だ。その番地も目印も覚えていないが、これは春生が初めて覚えた地名で、この「東雲(しののめ)」という熟字訓はその後、結構あちこちで目にすることがあった。
 新井市そのものは現在は他町村と合併して名前が妙高市になっている。当時、春生が母に連れられてたぶん父の会社の奥様会のようなもので妙高温泉に行ったことを思い出す。と言っても、浴場で愛用していたハンカチで遊んでいたら、お湯が溢れた瞬間に排水口に吸い込まれてしまった嫌な思い出があるだけだ。日中だったので浴場の窓を開けてみると外の廃湯溜まりに春生のハンカチが浮かんでいるのが見えた。母が、
 「後でホテルの人から取ってもらおう」と言っていたが、その後考え直したようで、「あのお湯は汚いから、ハンカチはもう諦めなさい」と言われてしまった。
 間借りした家の作りは旧家のようで、玄関に入ると、道路に面した左手の格子の内側の三和土(たたき)に井戸や流しなどが配置されていた。直前に間借りしていた家とほぼ同じ作りで、鍵の手のように、やはり家の真ん中に表の道路から裏まで土間が貫通していた。そういうことでは、すでに佐渡の借家も似たような作りだったから、県内全体でも建築様式の共通性があったのだろう。その土間を入って少し進むと右側に階段の上がり口の二畳ほどの畳敷きがあって、そこで履き物を脱いで階段を上がったところを左に折れると細長い納戸の入り口があるが、納戸に入らず通り過ぎた奥に、表通りに面した八畳か十畳の部屋があり、そこで春生の一家は暮らしていた。
 この家の一階は、土間をまっすぐ進んで裏庭に出るとすぐに用水路が左右に流れていた。改修されて間もなかったらしく、水路そのものも、流れる水もきれいで川底もはっきり見えた。
 その川の流れの上を、薄緑色の大型のトンボが頻繁に飛び交っていた。川の流れが結構早かったから、卵を産むというより、水面近くを飛び回る小虫を捕食するためだったのだろう。川の流れの上を行ったり来たりして飛んでいた。兄は、特に川の上を飛んでいるところを、虫取り網で迎え撃つようにして捕まえるのが得意だった。網に入るとすぐに網を返して袋状にしてトンボを閉じ込める。網の中をトンボが抵抗する力強い羽音が聞こえた。
 川縁(べり)の木々の枝や草などにぶら下がるようにして止まるその大型のトンボは、数年後に昆虫図鑑で調べてみると「銀ヤンマ」とあり、兄弟で非常に驚くことになる。鬼ヤンマと並ぶ豪華な名前だけは知っている、そんなトンボとは知らず、贅沢に捕まえていたものだった。

 当時は、一家は銭湯に通っていて、春生は母や兄と一緒に女湯に入っていた。早い時期の記憶だと思うが、母親に連れられてお風呂に入っている赤ちゃんの手の小ささと可愛らしさに驚いた。しかし、自分の手もお湯の中で指先を上にして浴槽の縁に押しつけると、像が屈折して赤ちゃんの手のように小さく見えることに気がついて、春生は盛んに母にやって見せた。
 また、春生は、石けんケースのふたに冷たい水を入れて、洗い場で体を洗っている女の人の背にかけると叫び声を上げるのが面白く、何度も水をかけて歩いた。彼女たちは、冷水をかけられ悲鳴を上げて振り返ると、男の子がこわばった顔をして立っているので、さらに驚いたことだろう。母がすぐに気がつき、彼女たちに謝って、春生はひどく叱られた。
 最初の頃は秋生も一緒に女湯に入っていたはずだが、その後は彼と一緒の記憶がない。おそらく秋生は、小学校入学などをきっかけとして、その頃にはもう父と一緒に男湯の方に入るようになっていたのだろう。

 小さい頃は、兄の秋生が緑色、春生が青色と、それぞれ好きな色があった。名前との関連から言うと、春なら新緑、秋なら青空と、逆な色が好きになっても良さそうだが、そうなる前に好きな色が決まってしまった。春生は本当は紫が好きだったのだが、紫の商品はほとんどないので、青か紺を代用品とすることが多かったのだ。折り紙には紫もあったが、二人で緑系と青系の色紙を分け合って使っていた。服や帽子にも好きな色を選ぶようにしていた。アルバムなども、緑と青で兄弟の持ち物を区別していた。秋生も春生も子供時代から絵を描くのが好きだったので、画板ケースや丸筒もそれぞれ好きな色のを買ってもらっていた。その青色の画板にクレヨンと画用紙を入れて、写生に良く出かけていた。たいていは母と一緒の散歩だったが、時には兄弟二人で出かけたときもあった。何を描いたのかは、よく覚えていない。山や川などの他に、当時は頻繁に見かけた馬など、動物の絵を描いていたのではないか。春生は後にも、動物図鑑にあった犬のポインターの絵が好きで、その模写をどこにでも描いて秋生からからかわれることになる。
 家では写真や絵本などで見る富士山の絵も良く描いていた。実際に見たことがなくても富士山の絵は定形で描けるから、それは春生たちが描く絵の定番中の定番だった。しかし、あるとき母から、
 「富士山の絵を描きに行こう」と誘われ、母に連れられて兄弟で画板道具を持って出た。連れて行かれたのは木立の間にある広い登り坂の道で、
 「ここが富士山だよ」と言われた。
 〈富士山も山だから、近くに来れば登っていくんだ〉と子供なりに考えて、陽光が透ける緑葉の下を歩いてゆっくり「富士山」の坂道を上っていった。上の方に行くと母の知り合いの家があった。そこで室内に通され、おやつを食べて、遊んで、それだけで帰ってきた。
 結局、富士山の絵は描く場所もきっかけもなかったが、自分たちが直接登っているのだから富士山そのものは見えないし描けないんだと、これもそれなりに納得はしていた。そこが富士山だとしばらく思っていた、子供の頃の不思議な体験だった。
 きっと、この「富士山」の坂道とは別の坂だと思うけれど、坂道の片側にきれいな水が流れているところに、春生は母に連れられて行ったことがある。間借りしている家の裏を流れている用水堀もそうで、きれいな水が流れているのは、たぶんそこが山に近い土地のためだろう。正確には覚えていないが、その坂道では、水の流れる側溝のところどころに石で作られた段差があり、水路の一部が板でせき止められて水が溜まるようになっていた。大勢の女の人がその流れに沿って洗濯をしていた。母もその中に入って周囲の人と話をしながら洗濯をしていた。春生は母の洗い物が終わるまで、水遊びをしたり、他の人が洗濯をするの見て回ったりして遊んでいた。そこに兄はいなかったから、たぶん兄はすでに小学校に入学し、学校にいる時間帯だったのだろう。洗濯をしに行く母に連れられて、春生だけがそこに行ったのだと思う。記憶にあるのは水遊びができる暖かい時期だったが、冬の洗濯はどうしていたのだろうか。

 その年の冬は、その地域では大雪が積もって住居の二階から出入りした。一階の連子格子の窓が雪に埋まって家の中は真っ暗だった。二階は一家の間借りしている部屋が表通りに面していて、その部屋の窓から出入りするのが子供たちには面白かった。大家さんはどこから出入りしていたのだろう。いずれにせよ、二階から出入りするのはあくまでも一時的だった。すぐに玄関周辺が除雪されて表に出られるようになり、玄関から斜め上に出る雪の階段も作られた。
 表通りの雪は凍って固まっていて、大家さんが大きなノコギリででかい角砂糖のように切り出し、そりに乗せて近くの川まで何度も捨てに行った。その川は、裏の用水堀がそこで合流し、雪の捨て場になっていた。冬の終わり頃には、春めいた陽気と川の流れで溶けて汚れた雪の塊(かたまり)が、中州のようになって川に残っていた。
 川と用水堀の合流点にあった三角地形は、雪が消えて地面がすっかり乾くと、川を見下ろす広場か空き地のようになる。そこで、盆踊りもやっていたが、近所の子供たちと一緒に「はないちもんめ」で遊んだこともあった。その時は、普段は遊ばない女の子たちも混ざって二手に分かれる。これも正確な遊び方は覚えていないが、相手側から、特に大きな女の子たちから自分が指名されたときは嬉しかった。女の子たちは、小学校に上がった秋生の同級生だったのかもしれない。彼も上気したような顔で手をつないでいた。彼にとっても、「はないちもんめ」を歌って遊んだのは生涯でこの時一度だけだったのではないか。
 その川の合流点よりもさらに一町ぐらい離れて、かなり広大な空き地があった。と言っても、そこは、単なる空き地ではなく、廃屋や土蔵が崩れたような建物が数棟並んでいて、旧時代の工場か倉庫の跡地だったのだろう。子供たちの間では、土蔵の中に人が住んでいて寝起きしているという怖い噂もあった。時代を考えると帰還兵がいたのかもしれない。土蔵の周囲を少し離れると一帯には段差や溝もあったが、草が密生している中に丈の高い草も繁茂していて、樹木もあった。あたりはほとんど野生に還り、原野化、森林化が進んで、一部の建物も草木に埋もれつつあった。
 春生は兄とよく虫捕りにきて、トンボやセミを捕った。一人で来たときは、トンボを捕ると次々と左手の指の間に羽を挟んでいき、それは各指の間に数匹ずつになった。その時捕っていたのはほとんどが小さな赤トンボだった。赤トンボとは言っても少し赤みを帯びているだけで、時々は羽先に黒い縁や幅広の線が付いていた。ごく稀に、全身が赤尽くしの豪華な赤トンボがいたりした。捕ったトンボは、遊び終えて疲れて家に帰る前にはすべて逃がしてやるのだが、すでに春生の指の汗で羽が濡れて飛べなくなっていて、そんな時は草むらの中にまとめて放してやった。羽が乾いたトンボから一匹ずつ、弱々しく飛び去っていったが、完全に飛べなくなっている数も多かった。結果的にトンボの殺戮をしているようなところもあった。
 セミは、当時はあまり種類を気にしなかったが、鳴き声からするとミンミンゼミか油ゼミ、熊ゼミ、それに数は少なかったが一番印象深い鳴き声のツクツクボウシぐらいではなかったか。セミが木に止まっているのを横から見ると、手足で幹をつかんでいるので体が浮き、幹に接した尾部から頭部にかけて、斜めに空中に突き出るような独特の骨太のラインが見える。鳴き声を手がかりに木のそばに行き、青空に斜めに突き出るその特有のシルエットを探しあて、虫取り網を出すのに手頃な距離と角度になるように近づき、押さえる。大きな木の場合は押さえやすいが、木が細いと網との隙間が幹の両脇で大きく空き、セミは良く逃げた。
 トンボもセミも、手づかみの方が面白かった。トンボは人差し指を立てているとすぐに指先に止まってくれ、親指をゆっくり出してその足をつまむだけで、手づかみで捕れた。この方法は後に息子にも伝えてやった。セミは、手の届く高さで鳴いているなら、そっとそばによって、手のひらで押さえるぐらいにはなったが、機会が少なく難度もトンボより高かった。押さえた手のひらの中でセミが暴れる感覚は面白かった。この頃は、トンボもセミも、特に大物捕りは三歳上の兄が断然上手かった。もともと虫捕りの勘も良かった。
 セミは、木に止まっているのを捕(と)るだけでなく、地中から這い出てきた幼虫を捕(つか)まえて家に持ち帰り、家で羽化させることもあった。日中に窓際の父の片袖机の上に放して見ていると、赤銅色の鎧を着たセミの幼虫は、割り箸や壁などを伝ってゆっくり上に登っていく。そこで反り返ったりしながら何とか鎧を脱ぎ残して、透明な淡い緑の、一度は弱々しいセミになる。そして、辛抱強く待機して、日光写真のように褐色の色が着いてくると同時にパワーが満ちてくる。彼はやがてセミの完成形になり、机の前の窓から飛んでいくのだった。
 木の下にはセミばかりでなく、雀の子が時々落ちていた。見つけると拾ってきて、これも何羽か育てた。米粒などをかみ砕いて指先に乗せ、目の前に突き出すとピーピーと鳴きながら啄む。やがて慣れてきて、指を出すだけで嘴を開けるようになる。箱や籠の中で飼っているのだが、まだみすぼらしかった雛が、羽が生えそろって大きくなってくる。身だしなみも立派に整って、そろそろ飛べるようになったある日、表道路に箱ごと持ち出して、ふたを開けてやる。彼女は驚いたようにしてすぐに飛び上がり、頭上をばたばたとせわしなく飛び回って、そのまま見えなくなってしまう。手元には無音の空箱だけが残されるのだ。
 一度だけだったが、冬に向かう頃に子雀を拾った。何代目かのピーコと名前を付けてそれまでと同様に育てていた。寒くなってきたので母が炬燵の中に入れてやり、結局それが仇になって、雀の子は一酸化炭素中毒で死んでしまった。その亡骸は裏庭の用水路沿いの、少しとがった大きな薄色の石の根元に、穴を掘って葬ってやった。母が手を合わせて、
 「今度は人間になって生まれてくるんだよ」と言った。春生たち兄弟も手を合わせていたが、ピーコが死んだことにショックを受けていて、そこに母の言葉を聞いたので、兄弟で洟をすすり上げた。

 父の肘掛け回転椅子と片袖机は、日中は春生たちのものでもあったのだが、夜には父がまじめに勉強していたのだろう。父が昇進試験に受かって研修に行っていた期間があった。在職中に何回かあった昇進は、同期入社の中でいつも一番早かった。
 研修は一ヶ月か三ヶ月か半年か、そのような期間だったと思う。その間、一家には母と春生たち兄弟しかいなかった。母は数日おきに新聞を折りたたんで父に送っていたが、研修先では、母から頻繁に郵便物が届くので、父は同僚たちからだいぶ冷やかされた、と言っていた。
 父は体質的に酒が飲めなかったが、つきあいで飲むことがたまにあり、そういうときは真っ赤になって苦しそうな顔をして帰ってきた。しかし、あるとき、酷く酔って、しかも上機嫌で帰ってきたことがあった。母が鞄を持って先に階段を上がり、その後ろに続く父を、兄弟で下からお尻や背中を押した。父はふらつきながら、
 「ダイジョウビ!」と言って上がっていくので、兄弟で笑った。
 しかし、両親の夫婦喧嘩もあった。春生が覚えているのは、父母が何かで言い争いをして、部屋の外に出ようとする母を父が引き倒したことだ。横向きに倒され、唸り声を上げながら起きようとする母を、父は行かせまいとして母の横向きの胴を腕の上から両手で押さえつけ、怒声を上げた。兄と弟はただ驚いて見ていた。口論はこの後も時々あったが、身体に触れるほどの争いは、この十数年後になるのだ。

 その家の前で、ある日の夕方、兄は物干し竿のような棒状の長い物を振り回していた。近くで見ていた春生の頭にそれがひどく当たった。春生はその家の土間に逃げ込み、二階への上がり口に腰掛けて頭を押さえて泣いていた。家主の小父さんが一階の居間にいて、春生がたいしたことではないのに泣いていると判断したのだろう、
 「手を離してごらん」と声をかけてきた。手を離してみると、手に血が付いていたので、春生が今度は血に驚いてまた泣き出して、二階に駆け上がった。竿をぶつけた兄のその後の姿が記憶にはない。しかし、その時の傷と覚しき数センチの傷痕が、今でも春生の左後頭部の髪の中にある。鏡で見ても、手で探っても、つるつるした細長い傷跡だ。

 兄が小学校に入り、たぶん二年生ぐらいの時だった。町中の商家の二階に間借りしている兄の同級生の女の子の家に時々遊びに行っていた。そこの父親がやはり父の同僚だったので、母親同士も親しくなり、結局、父親がいなくても日中、親子で遊びに行くときもあったのだ。そこで生まれたばかりの男の子を話題に、母たちが話をしている脇で、女の子と秋生、春生の三人はちょっと時間をもてあまして、階段の上がり口の、板敷きから畳敷きになる境界付近でごろごろしていた。その時、女の子が、スカートから出ている素足の膝を折り曲げて、内側の折れ目の両側を親指と人差し指で挟むように押さえ、その丸い膨らみを外側に押し広げて、
 「ほら」と言った。「そっくり」
 秋生と春生は黙って見ていた。
 部屋の中央で話しながら男の子をあやしていた母親が、娘の方を見て、
 「やめなさい」と言った。

 春生はそこに住んでいた最後の年に幼稚園に入った。幼稚園は兄の通っていた小学校に付属して設置されていて、建物も小学校の一角にあった。春生は松組だった。理由は分からないが担任の着任が少し遅れて、その間、園長が松組の担任を兼ねた。入園式の時に壇上で話していた先生で、他の先生より年配だったが、姿勢が良く、てきぱきしていて、何でも知っているその先生が、春生は好きだった。後に着任した本当の担任は街で良く見かける小母さんみたいな印象で、好きになれなかった。
 入園後まもなく幼稚園では歯の健診があった。少し後になって、春生は虫歯がないとして体育館で表彰された。賞状と賞品の歯磨きセットを持って松組の部屋に戻ったら、ほとんど知らない男の子が寄ってきて、
 「口を開けてみろ」と言った。口を開けて見せると、「虫歯だらけだ!」と叫んで逃げていった。
 これは、春生が明らかな嘘で決めつけられた最初の体験だった。特に腹も立たなかったが、このことを春生は後々まで良く覚えていて、世の中には、現実に目の前に見ていることと関係なく、根拠のないことを決めつける人間がいる、しかもそれは自分と同年代の幼い子供でもそうなのだ、という教訓になっていく。
 幼稚園が早く終わったある日、春生は小学校の玄関の前で兄が出てくるのを待っていた。前庭にはコンクリートで四角く囲われた池があり、稲科の草の葉が水面に飛び出ていた。水中でも水草が芽を出しかけていたが、水底の草の根や石ころなどは灰褐色の沈殿物で覆われていた。陽光で温まった水面をアメンボが動き回っていた。
 兄は、その頃、古竹で作った短刀のようなものを持っていて、特に何かを探すということではなかったが、それを使って草をかき分けながら歩くときがあった。兄とそれとなく虫を探すようにして、道ばたの草むらを時々かき分けながら歩いていた。そのとき、草むらの根元から急に、全く突然に、何かが頭を出した。蛇だと思った一瞬、兄が持っていた竹の短刀でその蛇の頭を上から突き刺した。同時に二人はその場から逃げた。かなり離れてから走るのをやめ、荒い息をして歩きながら、兄が、
 「あれはマムシだった」と言ったので、春生もそうだと思った。黒っぽい地肌に黄色い網目のような模様だった。もたげた頭も三角だった。兄はその頭を反射的に地面に刺し通して逃げたのだった。短刀は刺したまま残してきたが、翌日、兄がその現場を見に行くと、蛇も短刀も見えなくなっていた。

 母が盲腸の手術で入院した。兄弟で学校や幼稚園の帰りに毎日病院に見舞いに行った。手術後の母は、ベッドの掛け布団の下に半円筒形のガードを置いて手術跡をカバーしながら、ガードの内側についている電球でお腹を温めていた。そんな母と、兄弟で夕方まで一緒に過ごし、父が仕事の帰りに立ち寄るのを待ち、父と一緒に帰る日が何日か続いた。その非日常の日々はそれなりに楽しかった。
 母の退院時には、事前の打ち合わせで、春生が幼稚園を早退して病院に行き、寝具を運ぶ車に一緒に乗って退院することになっていた。そのことは幼稚園の担任の先生にも言っていたのだが、当日、幼稚園で何かの行事があって皆が慌ただしく動くので、春生は言いそびれてそのままずるずると幼稚園にいた。時間がかなり遅れてから先生に申し出ると、
 「あら、そうだった。何をしているの。早く帰りなさい」
と叱るように言われた。春生は泣きそうになって、大急ぎで帰り支度をして退園した。外はかなり激しい雨で、春生は動揺したままカッパを着て母の入院している病院に急いだが、途中、自転車に乗って急ぐ、やはりカッパを着ている男の人とすれ違った。その人は、自転車を急停止させて振り向いて、春生の名を確かめた。見たことのある人だった。
 「お母さんはあんたを待っていたんだけれど、あんたが来ないので、もう退院したよ。私は今、病院から帰ってきたところだ」
と言うので、春生はそこで不安を抑えていた糸がぶっつり切れてしまい、爆発的に泣き出した。その人は困ったのだろうけれど、向きを変えて春生を自転車の荷台に載せてくれ、雨の中をそのまま家に連れて行ってくれた。
 家には母の退院の荷物がすでに運び込まれていた。その中で、母が運び込まれたままの布団の山に寄りかかって来客と話をしていた。春生は布団の裏側に隠れるように座って、洟をすすった。
 母は、この時の手術について後になっても度々憤っていた。手術着に着替えて手術室に歩いて入ったときに、何人も無言で廊下のガラス窓に張り付いて室内を覗きこんでいて、甚だしく不快だったこと。また、医師が麻酔の効果を確認しないで、完全に効かないうちに手術を始めたこと。母はお腹にメスを当てられ、悲鳴を上げた。医師はその悲鳴に慌てたが、何も有効な手を打てず、看護婦たちが母を押さえてそのまま手術を続けた。やがて母に麻酔が効いてきて、何とか手術が終わったという。考えられないような酷い不行き届きが重なったらしいが、そんなことが当時の病院ではあったのだ。

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