五 近江

 一九六五年(昭和四十年)の晩秋、当時の住所表記で近江(おうみ)の沢木家の新居が完成し、兄弟はアパートからそこに転居した。
 この住所の「おうみ」は「淡(あわ)海(うみ)」つまり湖のことで、もともとは古代日本の中心地大和(やまと)で近隣の湖である琵琶湖とその周辺を指す地名だった。琵琶湖は「近(ちか)つおうみ」という呼称もあり、それは東海道の浜名湖一帯を「遠(とお)つおうみ」つまり「とおとうみ」と言うのと区別するためで、結果として両者を対比的にあつかう「近江(おうみ)」と「遠(とお)江(とうみ)」とする呼称と表記が定着した。新潟の「近江」という地名も、おおまかにはこの地域がかつて新潟平野の底と言われた低湿地帯で、現存する鳥(と)屋(や)野(の)潟(がた)など、湖沼が多かったことに由来しているらしい。
 近江の新居は、4Kの間取りの、ささやかな家だったが、一家にとっては大きな意味を持っていた。つまり、新潟に自家を建てるということは、沢木家を継ぐはずだった父母が、祖父母のために北海道に帰る可能性がほぼなくなったということを意味するのだから。しかも、それは一方で、父母のそもそもの結婚の前提を無にすることに等しいのだから。とりわけ母にとって、その問題は人一倍葛藤があったはずだし、資金のやりくりにも相当に苦労したので、この家に対して強い思い入れを抱くのは必然だった。
 春生にとっては、中学の三年間で四カ所目の住居になったが、中学校そのものは何とか転校せずにすんだ。一時的に住んだアパートが中学の校区外で、教育委員会に呼び出されて、母が越境通学の事情を説明して了承された。その後、父母が親しくなったそのアパートの経営者は、もともとその地域の農家で地主でもあったことから、好条件で土地を購入することができた。そこに建てたこの新築の家も春生が通う中学の校区外ではあったが、学年末が迫り、卒業間際だったせいか、教育委員会から特に問い合わせや呼び出しはなかったのだった。

 沢木家が家を建てた近江の土地は、かつて水田だったところを宅地開発したもので、あちこちに区画整理された水田がまだ残っていた。春生は朝か夕方、その水田の間を走っている道路の数区画分をプードルのジニーと一緒に歩くようにした。沢木家では、犬の散歩は、この頃ようやく習慣化され始めたのである。食餌は、まだ子犬だった頃にドッグフードを食べさせていたが、可愛がって人間の食べものも与えていたので、結局、彼はドッグフードを食べなくなった。仕方なく、主として母が、時々春生も、犬用の食餌を別に作って食べさせるようにしていた。
 犬の朝の散歩から帰ってくると、玄関脇にある水道口で手足を洗ってやるのだが、プードルは肉球の間の毛も縮れていて簡単には汚れを洗い落とせない。だが、朝の時間に追われているので、やむを得ずある程度で洗い終え、足ふき用の雑巾で水分を拭き取り、家の中に入れてやる。そこで、起きてきた秋生から、
 「足がまだ濡れている」
などといちゃもんが付くときがあった。確かに廊下に犬の足跡が少し付いている。大急ぎで足をもう一度、今度は念入りに拭き取り、ついでに廊下の足跡も拭き取る。
 しかし、考えれば、兄は犬の散歩も、食餌の世話も、これまで一度もやったことはない。子犬でもらってきた当初こそは一緒に遊んで家の中を走り回らせていたが、それ以降は完全にノータッチだ。そして、何か気に入らないことがあると口出しだけはしてくる。せめて、散歩か足洗い、えさやりなどは分担でもしてくれないと春生の負担は過大になってくる。もちろん、母の負担は春生よりも多いので、家事や雑用も何とか秋生に分担させたいのだが、彼は一切何もしない。アパートでの共同生活あたりからその傾向が顕著になってきたように思ったが、それ以前も母親が世話を焼くのに依存していたから、つまり秋生は最初からただの怠け者だったのではないか。それに、実は秋生が絡むと、中途半端な神経質さと理屈で話が面倒になり、そこで威嚇や恫喝も入ってくる。ヘタをすると暴力沙汰にもなる。結局、こちらが不愉快な思いをするので秋生には何も頼まない、というのが家庭内の暗黙の了解になっていた。それら全ての結果として、彼が家の中のことは一切、何もしない状況は変わらないままである。子供の頃から神経質さを最大のアイデンティティにしている秋生が、もし本当に神経質なら、人に口うるさく言う前に自分自身で物事の処理に動いているはずだと、春生は以前から考えていた。

 高校の卒業が近づいてきても、秋生は、毎朝、まだ自分で起床できていなかった。ちょうど高校受験期の春生が、自分の経験から、
 「寝起きに何か食べさせれば、口を動かしているうちに目がはっきり覚めてくるよ」
と母にアドバイスしたことがあった。その後、母が秋生を起こすのに、春生のアドバイスに従って枕元に簡単な食べ物を用意して起こしたことがあった。しかし、彼は、
 「何で! そんなものを食べるか!」
と怒声を上げてまた布団を頭からかぶって寝てしまった。母は情けなさそうな顔をしていたが、傍で見ていた春生も、
 「あれは、自分で『起きよう』という意志が全くないんだ」
と呆れるしかなかった。秋生は、もう社会人になるのに、自分で起床するという基本中の基本である生活習慣すら確立していなかった。
 実際にこれより二十数年後の話だが、兄嫁がある時、小・中学生になっていた二人の子供に、
 「アキさんが寝坊して出勤時間に遅れて、『何で起こさなかった』と怒って出掛けていったけど、自分の仕事なんだから、あれはおかしいと思うんだ」
とこぼすのを春生は目撃することになった。その時、秋生はもう四十歳ぐらいになっているはずである。

 ところで、近江の家は、春生と秋生が民間アパートを引き払って移り住み、それから間もなく父母も、母が必要に応じて往復していた父の単身赴任先の社宅から主要な家財を運び込んだ。
 そして、その家の新築の祝いが翌年三月にあり、母方の祖母も新しい家を見に来てくれた。
 ささやかな建築祝いの時、珍しく、春生の知る限りおそらく初めて、父の長兄、つまり、旧民法下で父の実家の家督を相続した父方の伯父も来ていた。親族の間では「白(しら)髪(が)爺(じじ)」と呼ばれていた人物である。そして、春生に向かって、
 「おめでとう……。あ、だけどあんたはこの家には住めないんだな」
と言った。春生が十五歳の時だったが、この伯父の言葉が、廃止されてからこの時点でもう二十年近くになる旧民法上の長子単独の家督相続を意味することはすぐに理解した。そして、それは法的には筋の通らない、理不尽で不愉快きわまりない言葉だった。初めて新しい家を建てて家族で喜んでいるときに、家族を分断する「あんたはこの家には住めない」とは、何という時代錯誤、何という非常識で鈍感な言葉か。春生は直後に両親にその憤りを伝えたが、両親は曖昧にしか反応しなかった。一軒の家を建てたばかりで父母はまだ四十代半ばと三十代後半、二人の子供がいる。両親はそれぞれの事情から、その後どうなるのか見通せなかったようで、たぶん、この時点では曖昧にしか答えられなかったのだろう。ただ、子供への公平な説明や接し方はできたはずだった。それが家族間に禍根を残さない唯一絶対の方法だったのだが。
 一方で、兄がこの時、伯父から同様の、しかし逆の、
 「あんたは長男だからこの家がもらえる」というような意味の言葉をかけられたとすると、兄がそれをきっかけにして、長男の自分に有利だったはずの旧制度を強く意識するようになった、ということは大いにあり得るだろう。それというのも、少し後になって秋生が、
 「土岐の家では長男は田んぼに入らない。田んぼに入るのは長男以外だぞ」
と力を込めて、勝ち誇るように春生に断言したことがあったからだ。この前後の会話の流れは覚えていないが、父の実家の土岐家の話題に春生が深入りすることはほとんどなかったから、たぶん、秋生が突然に言い出した言葉だっただろう。どこから仕入れた新知識なのか。しかし、彼の言葉が本当かどうかはともかく、弟妹は決して長男の奴隷でも使用人でもない。しかも、父は旧民法下ではあるが土岐家から出て沢木家に婿養子で入った人間であり、その沢木家がそもそも農家ではなく、父も職業は会社員である。つまり、現在の制度下であってもなくても、誰が長男であってもなくても、沢木家には田んぼがない。だから、長男の秋生がたとえ周囲の反対を押し切って力ずくで田んぼに入ろうとしても、沢木家には田んぼがない。従って、秋生の、「長男は田んぼに入らないんだぞ」という力強い宣言は、虚空にむなしく響く全く意味のない宣言だった。それにもかかわらず、秋生があえて田んぼにこだわった発言から判断すると、この情報源はやはり「白(しら)髪(が)爺(じじ)」なのだろう。そして、この秋生の言葉が、慣習的に運用されている旧民法を強く意識して、しかも、都合良く解釈して、自分があたかも奴隷主ででもあるかのように家で何も仕事や手伝いをしていない理由であることも含ませた発言であることは、容易に想像できた。
 言った言わないで嘘をつくのも弟に暴力を振るうのも、秋生のプライドや自己肯定感がそれだけ低かったせいだ。そして、むろんそれと関係があるのだろうが、秋生にとって、都合良く自分を支えるものとして、現制度では存在しないはずの幻の長子特権が、新たに依存する対象として、この頃急に浮かび上がってきたのだった。
 その根拠が、廃止された旧民法だとすれば、ずいぶん遠くから引っ張ってきたものだが、そのモデルはごく身近にあった。秋生はこの頃から急速に、農家モデルの長子単独相続、家督総取りという妄執に生きる人間になっていくのだ。家業が後継者の必要な農家でも商家でもない、沢木家のような給料生活者の家で、長男が長子特権をあえて声高に言うときは、ただただ、本人が、財産の独占欲を強く抱いていることをしか意味しない。
 このような秋生の意識が、将来への懸念材料であるのは確かだった。春生は嫌な予感がした。

 春先の近江の家の新築祝いに来ていた祖母が北海道に帰るとき、秋生は高校を卒業して就職する直前だったので、まさに卒業旅行みたいな形で、祖母のお供を兼ねて母の実家の北海道に遊びに行った。
 秋生にとって、五歳前後の時以来となる母の故郷訪問だったが、一週間ほどの滞在の後、彼が持ち帰ったのは、叔母夫婦からお土産に持たされた巨大なタラバガニ一杯と、珍しかったのとおいしかったのとで自分で選んだというガラナ飲料一ダース、それに向こうの親族間で過ごして得られた土産話などだった。春生にとっても、タラバもガラナも初めてだったし、向こうの生活のどの話もこの時がおそらく初めて聞くものだった。しかし、中でもとりわけ、母の実家にこのとき実質的に初見参した秋生が、ずいぶん楽しく過ごしてきたようなのが、春生には不思議で意外だった。
 この北海道旅行について、秋生が唯一気にしていたのは、叔母がやっている旅館の前の積雪を深く掘り進んで従弟妹たちと遊んでいた雪洞が、翌朝、壊されていたことだった。
 「あれは、雪洞が危険だという叔父さんたちの判断みたいだった」
と、残念そうに言っていた。秋生の浅慮はいつものことではあったが、この時はたぶん、秋生が成人に近い年齢なので、無言の判断が夜の間に下されたようだった。これが新潟でも、北海道より気温が高めなので、たとえ三月でなくても同じような判断が下されていたはずだと春生は思った。
 そんなことがあっても、ともかく向こうで大人扱いされたという「成功体験」があって、秋生は外(そと)面(づら)を強く意識するようになったらしい。この直後の四月に彼は就職して社会人になったのだが、この頃から、対外的には目立って愛想が良くなったのは確かだった。

 四月の異動で父は本社に戻ってきた。家族全員が新潟市の新居に揃った形だが、父が勤める会社に就職した秋生は、父と入れ替わるように、まず会社の寮に入って研修を受け、週末ごとに帰宅する生活に入った。そして、初月給で母に三面鏡を買ってプレゼントした。このプレゼントは、秋生から相談されて春生が提案したものだった。とかく母親に反感を示すことが多かった秋生にも、母親への思いは確かにあった。しかし、母は常に質素だったので、少しだけ微笑んで、 「買ってくれなくても良かったのに」と言った。母は、結婚時に購入した古い鏡台に愛着も強かったし、特に不満もなかったのだろう。しばらく新旧の鏡台が併存していた。

 一方、春生は目指していた高校に進学した。
 受験勉強の時は、春生の二人用の広い机は六畳の和室の、掃き出し窓の脇に置かれていた。春生は、座布団をそばに置いていて、いつでも机上に広げられるようにしていた。プードルのジニーが時々春生の膝に手を掛けて、ボンボンの形に刈り整えられた尻尾を振り、机に上がりたがったからだ。 当時の高校入試の受験科目は九科目全部で、たとえば、音楽環境が家にほとんどない春生は、音楽のクラシック曲が苦手だった。この家に越してきてから、春生は毎日の夕方、学校から帰宅後に、他の家族が帰宅前の誰もいない時間帯を利用して、教科書に載っている各曲の主旋律の楽譜をハーモニカで再現して頭に入れた。ジニーは、机上にいると座布団に座ったり伏せたりしながらいつも外を見ていて、春生が吹くハーモニカの音に全く関心を示さなかった。春生の方は、楽譜を見れば、すべて誰のどの曲か分かりメロディーも思い浮かぶレベルにして、受験に臨んだのだった。
 そんな努力をして入った高校は、その二年前の地震の前後に住んでいた白山浦の社宅前から広い通りに出れば真っ正面にあり、もしそのままそこに住んでいれば、徒歩で五分か十分で通える近さだった。しかし、残念ながら春生の家自体が、そこからすでに二度の転居をしていた。結局、高校入学一年目の通学は、自宅から自転車で、昭和大橋を超えて信濃川左岸に渡り、当時の県庁の脇を抜けて学校町通をさらに奥に進んで、少し海岸寄りの、かつての砂丘の緩やかな斜面にあるその高校まで通った。

 四月から、兄が研修に入るまで短期間使っていた洋室が空いたので、春生が隣の和室からそこに移動して、勉強部屋として使うようになった。沢木家ではベッドはまだ導入していず、春生も寝る時は従来通り奥の部屋に行き、家族と一緒に布団を並べて寝るようにしていた。
 この近江の家は、水田があちこちに多く残り宅地造成されつつある地域に建つので、家の設計当時、まだ下水道は通っていなかった。そのトイレの位置を、母が、
 「北海道の実家のように人目に触れない奥まった場所にしたい」と主張するのに対し、父は、
 「土地が狭いのでその余裕はない。居間に近い方がいいのか玄関に近い方がいいのか」
と二者択一を迫って、結局、玄関を入った真正面にトイレを配置せざるを得なかった。その洋式化にも父と兄が、
 「腰掛けて座るだけでは力が入らない」と反対し、結局、和式にし、大と小を分けたのでドアが二つあった。父が、
 「『WC』というのは『大便』と『小便』という意味だろう? だから、それぞれのドアに『W』と『C』と札をつければいいんじゃないか」と言いだした。
 秋生が、
 「ああ、きっとそうだね」と生返事をしていた。
 「W」と「C」は、確かに「う」と「し」を連想させるが、父にそのような音声的連想が働いていたかどうかは疑問である。しかし、玄関を入ると真っ正面に見えるトイレドアに、そんな意味の札がぶら下がっていると考えるだけでも、その家には客を迎えられない。と言うより、そんな家には誰も帰って来たくないだろうなと春生は思った。
 その時は、話がそのまま忘れられてしまったのは限りなく幸いなことだった。

 あるとき、家で当時使っていたトランジスタラジオを母が使おうとしたら、伸縮性ロッドアンテナが根元から外れていた。最後に使った秋生に母が確認すると、
 「壊れていた」
と言う。母が細かい情況を確認すると、
 「アンテナを引っ張ったら外れた。だから、最初から壊れていたんだ」
と言うので、
 「それならやっぱり、その時あんたが引っ張って壊したんだわ」
と母が言った。笑い話のような展開で、秋生は不服そうに黙った。しかし、壊れていることに気がついたのに、誰にも言わずそのまま放置していた、というのはおかしい。以前はアンテナが外れることはなかったので、そのラジオを一番愛用していた母の判断は正しいのだろう。この時、春生が直近で使っていなかったのは幸いだった。
 少し後の話になるが、秋生は研修期間の終了後、実務について間もなく過労から体調を崩し、仕事を一、二週間ほど休んだ。その間、日中は一人で家にいたので、必要があってポータブル・ストーブの灯油の補充を頼んだところ、彼は一般的な手もみの給油ポンプの使い方さえ、
 「やったことがないので分からない」
と言った。灯油ストーブが我が家に導入されて五年以上経っていたが、秋生はその間、一度も給油を手伝ったことがなく、ただその恩恵にだけ浴していたということが判明したのだ。子供時代を除けば、誰も秋生に家事分担を頼まなかったのは、彼が長男だからというわけでは決してなく、何か頼むと彼がいつも荒(あら)けて後(あと)処理がかえって面倒になるせいだった。それに、もしかすると彼はサイフォンの原理も理解できていないかもしれず、それを教えてやらせるには、と言うより素直に話を聞くかどうかには、少なからぬ困難が想像できた。その結果、この時まで、少なくとも灯油ストーブの給油のように、自分でやった方が早いようなことは、誰も兄にさせてこなかったのである。
 給油ポンプの使い方は、父は単身赴任も経験しているから早いうちに知っていたはずだ。しかし、父と秋生はほとんどジュラ紀恐竜時代の家父長制の中を生きていて、母と春生はほぼ人新世の平等社会を生きていた。父は三男だったので旧民法下では他家に婿養子として入ったが、当初の、苗字が変わったことの不利と悲哀以外に、婿養子としての主たる義務はほとんど果たしていなかった。むしろ旧制度の封建的家父長感覚を内面化して生きていた。母は家を継ぐ長女として育てられ、婿養子を迎えて結婚するところまでは旧民法下で生きてきたが、人生の最大義務としていた親の世話はできず、親から遠く離れた新潟でさまざまな葛藤を感じながら夫と二人の息子の世話をしていた。

 秋生が、どうかしたきっかけで、
 「フランス語が世界で一番美しい言葉だ」
と言い出したことがあった。春生が、
 「そんなのは人それぞれの感覚だから、一番美しいかどうかは何とも言えない」
と当たり前の疑問を呈したら、
 「何言ってんだ。フランス語が一番美しいんだ」
と怒り出した。もちろん秋生も春生も、フランス語どころか英語もろくに知らず、話せもしない。これは、雑談の中でも独断で何かおかしなことを言い出し、家族の誰かがそれに疑問を呈したり反論したりすると怒り出す、という秋生のいつものパターンである。秋生の論法が隙間だらけで、ただ怒声で強く威嚇して人を黙らせようとするだけなのは、子供の頃からはっきりしていた。秋生は自尊心が低いから、その分、ありえない嘘を交えた主張を平気で言うところがある。そして、こういうときに父は何を勘違いしているのか、また春生を慰めようとしてくる。秋生の言動こそ問題なので、そこを根本的に解決しなければ同じような問題はいつまでも起こり得る。威嚇を受けた方を慰めても、何の役にも立たず、ただ煩わしいだけだった。本質は秋生の問題であり、また、既に暴君的恐竜として育ちつつある子供の成獣化にどこまで対応できるか、という父の判断力と教育力の問題でもあった。子供の頃は母が秋生の言動にさまざまな注意をして抑えていたが、秋生が次第に体格的に大きくなってきて反発、反感も強くなり、現実に暴力的な要素もあるので母も簡単には口出しできなくなってきていた。

 沢木家が家を建てた区画にもすぐ隣にまだ水田が残っていて、その境界には用水堀が通っていた。そこにはまだ緩やかな水流があり、春先には小魚が群れて泳いでいた。春生は思いついて小さな釣り針と細い釣り糸を買って来て、あり合わせの工作用の細い角材にテープを巻いて補強し釣り竿の代わりにした。エサのミミズは、庭の一角に父が転居してきてから作っていた堆肥の山から探し出して針に付け、浮きはないまま、試しに庭先からその用水堀に垂らしてみた。するとすぐに小魚が食いついてきたのには、狙い通りとはいえ、春生は驚いた。週末で家に帰ってきた秋生にも教え、実際に彼も釣れたので、面白がった彼は、
 「いいところに家を建てたもんだ。庭先で釣り堀が楽しめるわ」と家の中にいた母に大声で叫んだ。その用水堀は、その後、一帯に住宅が続々と建設されて暗渠になってしまったのは残念だった。
 その用水堀で春生が面白半分に釣りをしていたときだった。腰掛けの傍らの堆肥の下から何かの動物が地面の下を動いている音が聞こえてきた。モグラだ、土(ド)竜(リユウ)だ、と思った。土をかき分けるような音とともに、匂いを嗅ぐ鼻息も聞こえた。その時は春生の存在を察知したのか、すぐに気配はなくなった。
 しかし、その後少し経って、ある日、庭で、微かにミーミーというような小さな鳴き声が聞こえた。地面に両手をついて聞き耳を立てると、庭の中央に父が小径を作りかけている、その脇の地面の下だった。鳴き声を頼りに、少し離れた周辺から移植ごてで掘り出した。すぐに移植ごての先端が地面下の空洞に抜けた。そこから鳴き声が聞こえた方に向かい、慎重にモグラの通路を掘り返した。突然、少し離れたところ、父が植えたばかりの木蓮の木の根元から、小さな動物が飛び出して堆肥の山の向こうの藪に逃げ込んでいった。その後ろ姿が一瞬見えた。定かではないが、やっぱりモグラだと思った。
 春生は、急に激しい後悔に襲われた。
 大急ぎで、周辺に散らばった土を穴に戻し、たまたま堆肥の上にあったトタン板をその上にかぶせた。数日経って春生はトタン板の下の穴を完全に埋めてしまった。穴の奥がどうなっているか確認する勇気はなかった。ただ深い自責の念と後悔だけが残った。穴を掘って、モグラの巣を発見したとして、自分はそれでいったい何をしようとしたのだろう。唯一願うことは、あの後、親モグラが戻ってきて、子モグラを別の巣穴に運び出していることだった。あれはモグラではなく野ネズミのようなものだったかもしれない。しかし、どちらでも同じことだった。これまで昆虫や小魚、爬虫類と、次々と殺戮してきて、今度は自分はいったい何をしたのか。子犬や小鳥も命だ。子モグラも命だ。どこまで責任を取れるのか。お前はいつまで経っても中途半端なことしかできないじゃないか。

 春生は高校一年生になって一ヶ月あまり経った。
 偶然だが、その日は春生の十六歳の誕生日だった。誕生日と言っても、春生の家ではお互いの誕生日を祝う習慣は定着していなかった。思いついてプレゼントをすることがたまにはあったが、それも春生が小学校ぐらいまでだった。家族の中では女性は母のみで、後は男三人。男同士では普段は無口なのに加え、感情を表現するのに言葉の不器用さと面倒くさがり、それに根本に羞恥心があった。そして何と言っても、子供に小遣いが定期的に与えられるという条件もなかったのだ。小学六年での転校先の誕生日会も、臨時の小遣いをもらって参加していた。
 だから、その日は春生の誕生日だったが、普段の日と同じ平凡な日常があった。その日、帰宅するまでは。

 授業を終えて夕方、春生が学校から帰宅すると、ジニーは喜んで出迎えてくれたが、家の中がしんとしている。母は、台所の椅子に座って不機嫌に押し黙っていた。部屋が薄暗いまま、すべてが止まった状態だった。こういうときはあまり関与せず、目立たずひっそりとしているのが、長年の春生の習慣だった。
 夕食前に帰ってきた父が、そのまま急に、母に何か弁明し始めた。母は黙ったまま、父の饒舌な弁明を聞いていたが、何かのきっかけで突然怒り出し、すぐに爆発した。父が何か問題を起こしたようだった。
 父は頭を下げて謝った。母が声を荒げ、父はしばらく弁明を続けたが、母がさらに激しく言いつのった。
 春生はこの事態をどう理解していいか分からなかったし、口出しのしようもなかった。取りあえず途中でぬけた。二人の言い争いが不安だったが、犬の世話をして、自分の勉強部屋に戻っていった。父に対する母の怒り声が続いた。
 その夜、父の指示で春生がいつもより早めに奥の寝室に行くと、直後に父方の若い親戚が訪ねて来た。彼は、母の一回り年下で、十年ほど前の高校卒業時に彼が父に就職の相談に来て以来ずっと親しくしている。父母ともに彼をその頃からの愛称でヨッコと呼んでいた。彼は何があったか分からないまま父に呼び出されたのだろう、ただ事ではない様子を感じたのか、ほとんど無言で居間に入ってきたようだった。彼らがいるその居間と春生の寝ている家族の寝室とは、間に客間一部屋が挟まっていたが、三部屋が一本の柱に九十度ずつ角(かど)を接していて、結局その柱近くの二つの欄(らん)間(ま)を通して間近に聞こえる声や音で話の内容と様子はほぼ推測できた。春生は布団の中で黙って聞いていた。父が彼を前にして話し出した。
 「奥の部屋で春生が聞いているかもしれないが、俺は女に失敗したんだ。今、ヨッコの前で謝る。俺が悪かったんだ。お母さんには本当に悪いことをした。この通りだ」
 そう言って、父が母の前に手をついて頭を下げたような動きをしたのが分かった。
 春生は聞いていて、なるほど、父が起こした問題は、やはり「女に失敗した」ということになるのかと思った。先ほどまでの父母の口論で、父が女性絡みで深刻な状況に陥っているようなのは理解していたが、それを要約するとそういう言葉に該当するのか。
 親族の中で一番親しくても、家族外の人間を立会人として呼んだので、たぶん父の狙い通り、この夜、母はほとんど無言だった。
 夜中過ぎにその親戚が帰ると、両親は静かになって、この日、父は寝室で寝たが、母はその日から、客間で薄物を掛けて寝るようになった。春生もそのまま眠り込んでしまった。

 翌朝、父は、寝たのか食事をしたのかは分からないが、早く出勤して行った。母はまだ客間で寝ているようだった。春生は犬の世話をし、一人で簡単に朝食を済ませ、いつもの時間に自転車で登校した。
 その日の夕方、春生が学校から帰宅すると、母が前日と同じく険しい顔で台所の椅子に座っていた。母は今日も昼のパートの仕事を休んでいたようだったが、しばらくすると春生に昨日の顛末を話し始めた。
 父に対して、母は完全に怒り心頭に発していた。時折、怒りの涙をこらえながら、強い感情のまま堰を切ったように話し出した。春生は質問や確認をしながら、ほとんどの時間を聞き役として過ごした。父が帰宅し、母の話が中断した。しかし、それまでの話だけでも問題の概要がうかがえた。母は春生にだけ話しかけ、父に口をきかなかった。沈黙がちに夜が更けた。

 春生が自分の部屋にいると、父の呼び声がかすかに聞こえた。急いで行ってみると、母が寝室に倒れていて泣きながら自分の首をひもで絞めていて、それを父が抱きかかえていた。
 春生は母の手からひもを取り、声を抑えて泣く母を居間に連れていった。母が静かになって寝付いたようになってもしばらく一緒にいた。
 父は寝室にいて、それなりにほっとしたようだった。その話によると、父が寝室で寝ているところに母が入って来て、「一緒に死んでくれ」と手に持っていたひもで父の首を絞めた。しかし、母は腕の力が弱って絞められなくなり、今度は自分の首を絞め始めた。春生が部屋から呼ばれて寝室に行ってみるとそんな事態になっていたのだ。
 「女の力では人の首は絞められない。そう思って俺の首を絞めるのに任せていたが、だんだん力が入らなくなってきたら、今度は、自分の首を絞めだした。これは危ないんで、俺も止めたけれどどうにも身動きできなくなって、春生を呼んだんだ」
 そう、父は小声で経緯を説明した。

 父は翌朝も、たぶん朝食を取らずに家を出た。春生も、犬の世話をして、母の様子をうかがい、母が起きて来ないので自分で簡単に食事を取って、少し早めに家を出た。
 そして、通学途中の交差点にある公衆電話ボックスで自転車を止め、秋生に電話した。事前に調べていた彼の会社の研修所に電話をかけ、その電話口に呼び出してもらったので、時間がかかった。
 「どうした?」
と兄が出た。春生は、一昨日からあったことをかいつまんで早口で伝えた。春生自身にもよく分からないことがあったが、ともかく何が起こったのかは、兄に伝えておきたかった。兄は先週末に帰宅してつい数日前までいたのだが、その後に激変した家庭内の情況に驚いたようで、黙って聞いていた。そして、
 「週末にまた帰るから、それまでともかく何とかやっていてくれ」
という意味のことを答えて、電話は切れた。兄はこれから研修が始まる時間帯だし、呼び出された電話口で細かいやりとりができる内容でもないので、一方的な話になるのは仕方がない。しかし、ともかく兄と大まかな情況を共有することができて、春生は少し気が楽になった。

 夕方、春生が学校から帰ると、家には犬以外に誰もいなかった。室内は荒れた情態で閑散としていた。直後に斜(はす)向かいの家の奥さんが来て、玄関の立ち話で、お昼頃に救急車が来て母が運び出されたことを春生に告げた。その人は不安な様子がありありで、事情がよく分からないまま、ただ怯えた表情をしていた。春生は礼を言った。昨夜のことがあったので情況はだいたい推測できた。しかし、それで、自分はどうすればいいのか。
間もなく、父が帰ってきて、春生に、今日起きたことの説明をした。昼に父が様子を見に家に戻って母の異常に気づき、救急車を呼んだそうだ。母は薬を飲んだが、発見が早くて軽く済んだということだった。
 「お母さんの容態はは大丈夫だそうだから、春生は病院には行かなくてもいい」と。父親は、これから病院に行くと言ってまたすぐに出て行った。
 父から指示されたとおり、春生はその夜、一人で犬の世話をしながら夕食を済ませた。
 たぶん、かつて、母が家出をしたときと似ている要素もあるようだった。母のことはひとまず安心できそうなので、時間を見計らって、今度は家から、また兄に電話した。今日二度目の電話で、しかし朝から一変した情況を伝えると、兄はまた黙って聞いていた。ともかく兄にもどうしようもないのははっきりしている。結局、朝と同じようなやりとりで電話が終わった。
 春生は、同級生に自分が二人兄弟で弟の方だというと、友達の間では驚かれることが多く、
 「長男だと思っていた」「長男みたいだ」と言われることが常だった。
 「長男のようだ」という言葉には良い意味と悪い意味の両面があるのだろうが、春生が物事をほぼ一人で判断する習慣が付いていることにも関係があるのかもしれない。ただ、今回だけはどうすればいいのか判断に迷うことが多く、また兄にも知らせておくべきだとも思い、その後も頻繁に電話するようにした。

 父の説明は今日起きた事態の概略でしかないが、情況と母の心理はだいたい想像が付いた。ただ、今回はこれまでの夫婦間の口論とは違う、全く思いがけない経過を辿っていて、この先どうなるのかもあまりよく見通せなかった。
 この数日の父母の口論と母の話で春生が理解したのは、だいたい次のようなことだった。
 父には数年来の愛人がいて、母への不実な関係を続けていた。問題が起きた最初の日の昼頃、突然、その女性が家にいる母と父の職場とに電話をしてきて、二人の関係を自ら暴露したらしい。それが騒動の発端だったが、直前に、父とその女性が白山公園で会い、何かの話がこじれて、その際、彼女が腹を立てて砂をつかんで父の頭に投げ付けたということがあったようだ。いわゆる痴話喧嘩の結果なのだろうが、父は自分で髪をかき分け、その砂だらけの頭を母に見せようとした。父はたぶん、愛人と揉めた証拠を示そうとしたのだろうが、母は父のその目的の愚かしさを春生に言いながら、再び激しく感情を高ぶらせた。話を聞いている春生にも、父の愚かしさと滑稽さが感じられた。実際、父と愛人が本当に揉めたのかどうかが問題になっているのではない。そんなことは枝葉末節もいいところだった。父は母を常に「お母さん」と呼んでいるが、夫として妻と向き合う姿勢がそもそも欠落しているのだろう。母の心の中には、これまでの父の不実な行為そのものへの憤り、裏切られたことの悔しさ、自分が侮辱されたことの悲しみ、そして父が家庭的にも社会的にも極めてみっともない状況になっていること、何よりも父自身が自分の行為の意味と置かれた状況に全く無自覚なことへの怒りが渦巻いていた。
 しかも、もっと悪いことがあった。実は、父が女性問題を起こしたのは今回ばかりではなかったことだ。これが二度目だったのだ。子供たちがまだ幼かった十数年前にも同じようなことがあり、母は、
 「その時、子供たちを連れて、結婚以来初めて北海道の実家に帰ったんだ」とくぐもった声で言った。「片道で何日もかかるので、結婚してからそれまで、実家に帰ることはなかったんだけどね」と。
 「それじゃあ、僕たちが覚えている、子供の頃に北海道のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家に行ったのは、その時のことなんだね」
 母はうなずいた。
 つまり、春生たちが覚えている母の実家風景は、まさにその時の記憶だったのだ。ただし、その帰省の時に、母は両親を悲しませたくなくて、父の女性問題については一言も親には話さなかったらしい。父にとってはそれがかえって真摯な反省をせずに済むことになり、再度の女性問題を引き起こすもとになったのだろう。
 母の言うことには、その時も勤務先に知られて、その社内処分として父は県内の遠い地域に連続して転勤させられた。それが本当かどうかは春生には判断できないが、確かに、春生が生まれて間もなく子供たちは母の実家に行き、父はそれとほぼ同時に佐渡に転勤、その二年後には上越の新井市に転勤と、四年余りの間は、県内の端から端への移動だった。母の言葉が正しければ、母の実家風景と同じく、兄弟にとって思い出の深い佐渡や新井市での生活そのものも、父の不行跡による結果だったことになる。父が母を裏切った結果、家庭存続の危機が生じたが、それと並行して、家庭生活の場も大きく左右されていたのだった。
 さらに最悪な情報があった。今回の女性がどういうわけか父の十数年前の女性関係のことも知っていた。その理由は、その女性が母に電話で告げたそうだが、実は彼女は、十数年前に父と関係があった女性の妹だ、ということだった。それなら、自分の姉と父との関係、そしてそのために父が処分を受けたことを彼女は充分に知っていたはずだった。それでもなおかつ彼女はそれを承知の上で父との関係を持ち、今回は、喧嘩した後、あえて母と、父の勤務先とに自ら電話して、再度の父の不行跡を暴露したことになる。それは悪意と破壊衝動以外の何物でもないだろう。この姉妹は沢木一家にとって、まさに不吉で邪悪な存在だったとしか言いようがない。
 どういう経緯があったのかは分からないが、この二つの女性関係がそれぞれ偶然に起きた全く別個の出来事だったかどうかは極めて怪しい。もし、この話が全て真実なら、むしろ父こそが、人を見る目が完全に濁ったガラス玉であるのは確かであり、もっと言えば、目玉以上に父の脳髄は腐っていて、倫理観はおろか、最初の女性問題を起こした時に真剣な誠意ある反省はかけらもなかったことになる。彼女が母に明かしたことが本当なら、父の、母への裏切り、家庭への裏切りは、夫として、父親として、最低最悪の部類に入ることになる。母の父への怒りと憤りは、それらをすべて踏まえた上での、正当と言うしかない怒りと憤りだった。春生にとっても、大地のように安定しているはずの家庭が突然ぐらつき出して、その元凶は、幻滅としか言いようがない父の実態だった。父こそが、むしろ家族にとって、正真正銘の邪悪で不良な人物、「凶状持ち」そのものでしかなかったのだ。
 女性関係の乱れは当人が育った家庭環境にも関係があると言うが、そのことで春生は、父方の祖父母が川端町の社宅に来て泊まった時に、祖母が、祖父と二人並んで寝るのを嫌がって自分だけ部屋の反対側に離れて寝たことがあったのを思い出した。その二人の間に何があったのかは分からないが、実父母のそんな夫婦関係が、父の夫婦観や女性観に何らかの影響を与えたということはあるのか。土岐家には、あるいは乱倫の、不実の血とも言えるものが流れているのか。
 父が母に対して不実なことがもう一つある。それは、旧民法下で、本来、婿養子として沢木家の長女と結婚したにもかかわらず、実質的に北海道の義父母の世話は地元に残った妻の妹夫婦に任せきりにしていて、自らは何をすることもなく、自分の仕事の都合と言いながら新潟に居続けたことだった。父がもし婿養子としての義務を真剣に感じていたなら、本来は結婚と同時に新潟での職を辞し、北海道での再就職を試みるべきだった。だから父は、今回のことを機に、遅まきながら、いっそのこと北海道に転職して、義父母の世話をするということで妻への誠意を示すしかない。それ以外に、父にはもう婿養子として沢木の義父母の世話をする機会はないはずだった。
 母は、いずれ北海道に夫の力三が転職して来ると実父母から言われ、その力三からも言われ、そして本人も、いずれ家族ごと北海道に戻って沢木家の長女として親の面倒を見る、それが自分の人生の意味だと考え、そうなることを前提に結婚したはずだった。それがそのままうやむやになっていた。時間が経つにつれ、そして父が昇進するにつれ、次第に北海道への転職や転居の可能性が少なくなった。そして、沢木家の家を新潟に建てたことで、決定的に、結婚の目的そのものが事実上消滅した。ところが、その新築から数ヶ月も経たないこの時期に、父の女性関係が発覚した。父と結婚して夫婦で築いてきた家庭そのものも存続の危機に瀕している、消滅しかけていると、母も感じたと思う。離婚が最も現実味を帯びたこの時が、実家に戻って親の世話をする、自分一人でというのは望ましい形ではないが、最後の機会だった。
 しかし、ことがここに至るも、父がそれらのことを深刻に考えてもいないことが、最大の不実だった。そもそも二人の結婚は、家督相続と婿養子縁組みという旧制度がもたらした、最初から無理がある結婚形態だったのではないか。こうなってくると、父には、沢木家に婿として入って義父母の世話をするその意志と責任感が最初からあったのかどうかすら疑わしく思える。父にとって、母との結婚は、戦争中に駐屯した先で偶然に祖母に気に入られて開けてきた僥倖、「渡りに舟」、転がり込んできた「もっけの幸い」の結婚でしかなかったのではないか。

 母は、ここのところ何年も、自分たちの家を建てることに腐心していた。そのためにかなり質素な生活を心がけていた。春生は、母の考えはほとんど知らなかったが、子供ながらひどく貧しい生活を送らざるを得なかったのは、結局母のその倹約努力のしわ寄せでもあったのだろう。母は洋裁で副収入を得るのを諦めてから間もなく、パートで事務的な仕事を始めていた。たぶん、兄が私立高校に裏口入学するのに一時的に父の月収の十倍以上のお金がかかったのも、また、その後の兄の授業料が公立高校に倍するような額だったのも、母にはかなりの誤算ではあったのだろう。母は父の単身赴任先との往復に国鉄を利用していたのだが、あるときお金を持たずに飛び乗って、車掌に咎められたとも言っていたことがある。その話を春生はあまり深刻に受け止めていなかったが、その時、いったい母はどのような弁明をしたのか。車掌にどのように対処されたのか。そんなやりくりと苦労をしてこの近江の家を建てたのに、その直後にこんなことになってしまったのだ。母の嘆きと怒りはとてつもなく大きかった。
 誇り高き母の怒りが自尊心に比重がかかっていたのに対して、惰弱な春生の失望は徒労感に比重がかかっていた。小、中、それに高校と、服装で惨めな思いをしたことは何度もあった。貧しいのだから仕方がないと思っていた。もしも家が少しは裕福だったなら、コロの手術だって、積極的に言い出せたかもしれない。犬二匹だって同時に飼えたのかもしれない。かつては家族で外食することもあったのに、そういうことは絶えてなくなっていた。母もいつか、どこにも外食しないのだから新しい料理など覚えられるわけがないとこぼしていたことがあった。妻子持ちの一介の給料生活者が他に愛人を抱えていたのなら、その家族の生活が貧しくなって当たり前だった。家族が台風の強風下、停電し、ガラス戸も破れて、暗闇の中で怯えていたとき、父はいったいどこで何をしていたのか。父の帰りがいつも遅かったのは、本当に仕事だったのか。子供から顔を忘れられた父親とは、いったい何だったのか。

 救急車で運ばれた翌々日の昼頃に、退院した母が父に伴われてタクシーで帰ってきた。母は弱々しく歩き、しかし、険しい表情で寝室に入り、横になって休んでいた。
 同日の夕方近くなって、やはり父に伴われてタクシーで来たのは、北海道の祖母だった。父からの予告はなかった。つい三月の末に新築の祝いに来てくれたばかりだったし、それから一ヶ月半ぐらいしか経っていないのにわざわざ来てくれたのは、春生にとって突然で全く思いがけなかった。玄関に迎えに出た春生と目を合わせて、祖母は疲れた表情に笑みを浮かべた。母の母親だ。おそらく父から突然の要請を受け、急遽、北海道から一昼夜をかけて来てくれたのだった。
 祖母はしっかりした人で、頼りになった。父は問題を起こした当人であり、兄は研修で週末以外は会社の寮で生活している。唯一、春生が、精神的に動揺している母を支えるにしても、せいぜいで話を聞くぐらいしかできない。春生はこういう場合に自分がどうすればいいのか、全く判断ができなかった。だから、祖母が来てくれて、春生はこの時ほど安心し嬉しかったことはなかった。
 母が休んでいる寝室に祖母を案内すると、母が突然現れた母親を見て、
 「あ、母さん!」
と言っているうちに顔を崩して泣き出した。祖母は母に寄って行って一言二言声を掛けた。
 父は、祖母に荷物を置かせて、今度は春生の部屋に導いた。その部屋は家の中で唯一の洋室作りで、完全に独立していたから、ドアさえ閉めれば、誰にも聞かれず、母にも聞こえず、内密の話をするのに好都合だった。春生の勉強用の椅子の他に、いつも丸椅子が置いてあった。普段は春生がその丸椅子に足を乗せて本を読んだりしていたが、父や母が部屋に入ってきてそれに座って話をするときもあった。祖母を先に部屋に入れて、父は自分も入って後ろ手にドアを閉めた。部屋の中で父と祖母はしばらく話し込んでいた。隣の居間にいた春生には、中で何が話されているか、全く聞こえなかった。
 この時、部屋の中で、父は、自分が妻以外の女性と関係を持っていたことを義母に告白し、長年自分が妻を裏切っていたこと、しかもこれが十数年前に続き二回目であることなどを義母に伝え、自らの不徳のために義母の長女である妻を自殺未遂にまで追い込んだことを心から謝罪した、すべては自分の愚昧が原因である、と。部屋の中では当然そのような真実の場が成立し、父の懺悔が進行しているはずだった。実際にそこに立ち会ったわけではなくても、春生は、手に取るように、そのような情景を想像していた。祖母にはそのために来てもらったのだから、母を支えてもらうためにも父が真実を正しく伝え、謝罪するのが当然であると。
 しばらくして、二人は部屋から出てきた。祖母は少し上気した顔で、表情を曇らせていたが、春生を一瞬見て、困ったような笑みをかすかに浮かべた。父の表情は覚えていない。春生はこの時、父の顔はを見なかっただけなのか。あるいは、父が春生と顔を合わせるのを避けたのか。
 母は強い女性だったから、かつて一晩だけいなくなったときと同じように今回も、自分の言動に関してはほとんど弁明しなかった。説明もしなかった。実際、今回の騒動は父が起こしたのだから、母が自分から弁明も説明もする必要がないのは、母にとって自明のことだった。また、親に余計な心配をさせたくもない。前回の父の女性問題を両親に一言も話さなかったように、今回の出来事についても、母は祖母が来て顔を合わせた時に涙こそ流したが、自分からは一言も触れなかったのではないか。実のところ、祖母は、父から状況の説明を受け、謝罪されているはずだから、母からはいちいちの説明をする必要はなかったのだ。
 祖母も母と似た性格で、というより母の性格の原型が祖母だった。知的な裁断ができる自信があるので、すべてを自分で解決しようとする人だった。前回も、久しぶりに帰省した長女の様子から父に対する疑念は持ったかもしれないが、確かに長女は夫の浮気のことを一切話さなかったのだろう。祖母は、自分で選んで長女を結婚させた相手だからこそ、父のことを信じる気持ちも強かったのではないか。父を選んだ自分に過信があったのではないか。今回も、父の説明を信じて、母に些末な質問もせず説明も求めず、春生に対しても、それとなく周辺の情報を確かめることとか、客観的な証言や報告を求めることなどはしなかった。第一、長女も大人である。長女の判断に任せ、年寄りがあえて自分から娘夫婦の問題を掻き回す必要はない、と。
 祖母は数日間滞在し、母の世話などをして、家庭内がある程度落ち着いたのを見計らって戻っていった。

 その後、父はだんだん母に怒りを表すようになってきた。父は母に頭を下げ続けながらも、時々声を荒げるようになった。
 母がまた感情を高ぶらせて、父を責めた。
 「いったい何のつもりで女なんかをこしらえたの。私を何だと思っているの」
 そのようなときだった。突然、父が、
 「この野郎」と言った。「ぶっ殺してやる」
 父は立ち上がり、台所から包丁を持ち出してきた。そして、母と全く同じ言葉を口走った。
 「俺をいったい何だと思っているんだ」
 しかし、その単純な質問を発するのに、最もふさわしくないのは明らかに父の方だった。父は自分が積み重ねてきた行動の意味が全く分かっていなかった。ただ問い詰められて腹を立て、妥当性のひとかけらもない言葉を口走っているだけだった。
 父の言動は芝居そのもののように思えて、春生は本気で相手にするのが馬鹿馬鹿しかった。しかし、その言動を止めなければ父は引っ込みがつかないだろうし、それでは大変なことになりかねない。春生は父を止めざるを得なかった。母は黙ってはいたが、そのまま憮然としていた。
 「何を馬鹿なことをするんだ。やめなよ」
 春生は、父が握っている包丁に手を伸ばした。さすがに恐怖感はあったが、父はおとなしく包丁を春生に渡した。父が言葉ほど興奮していないことが分かった。やっばり脅すだけだったのか。父の言葉や態度が、春生には心底バカバカしくなってきた。
 「家の中が、お父さんとお母さんが、何でこんなことになってしまったのか、全然分からない。僕は何もできないけれど、それが悔しいよ」
 話していて無力感に涙がにじんだ。
 春生は日頃から、凡庸な言葉も激しい言葉も使いたくないと思っていたが、このような場面にいざ直面すると、言葉の上でさえも、自分は完全に凡庸で非力だった。
 父も母も黙っていた。春生は言葉の上では直接父を責めはしなかったが、このようになった原因ははっきりしているのだ。しかも、これまで謝り続けてきた父本人は、この態度からすると、自分のしたことの深刻さを全く自覚していなかった。父には、内省的な感受性がほぼ欠落していた。母の怒りも、春生の失望感も、ほとんど理解していなかった。だから自分が非難され続けていることに不満を抱き、腹を立てるようになっていた。そして、とんでもない脅し言葉を使うようになってきたのだ。「ぶっ殺してやる」という言葉は、父の標準語習得の限界だったのか、春生が聞いたこともない、最悪で最低の言葉だった。包丁を実際に手にしたのは、凶悪そのものを絵に描いた姿そのものだった。父はこんな人間だったのか? 父の人格はこんなものだったのか? 

 母がまた父の非を言いつのっていた、そんなあるとき、父が突然、
 「お前だって男がいるだろう、俺は知っているんだからな」
と言いだした。その言葉の曖昧さに、春生はこれは、ことさら子供の前で、つまり半ば以上、春生に聞かせるために、自分だけ悪者になってはいないぞと、失いかけている自分の立場を挽回するために、根拠のないことを当てずっぽうで言っているんだと直感的に理解した。
 春生はいつかの母の家出を思い出した。父の説明は、その時も今回も、同じように根拠も示さずに母の非を印象づけるだけの言葉で、無責任な曖昧さを持っている。今回は特に、ただ単に推測や可能性だけを手がかりにした強がりなので、父の話は中身がない嘘だとすぐに分かった。たとえ母に何か不純な点があったとしても、今度の騒動は自分の女性関係での失敗が原因で、あくまでもそれを前提にして、父は、発覚からこれまでずっと母に謝り続けてきたのだ。自ら認めた、否定しようもない事実のはずだった。在宅時間が父よりも長い春生は、父と母の言い争いをほぼ全て見ていた。父の今の主張は、自分の非行を母に謝り続けてきたこれまでの言葉や態度と、いったいどこに整合性があるというのか。父のこの言葉は、言い出した最初から詰んでいるのだ。
 母は、一瞬沈黙したが、
 「言えることがあるなら何でも言いなさい」
と嘲(あざけ)った。口元に薄笑いを浮かべながら、目は父をにらんでいた。
 父は口ごもって、その後、結局何も言わなかった。もしも子供の前だからという理由で、母に「男がいる」という話の詳細を言うのをはばかるだけの自覚や節度が父にあったなら、最初からそんなことを言い出さなかったはずだ。何も言えなかったのは、そもそも言うだけの内容がなかったのだ、と春生は考えた。妻の過去の問題が仮にあったとしても、この時点、この場面でことさら春生の前で言い立てようとする父の、その感覚と論法が根本的に不愉快だった。なんという卑劣な男かと思った。
 先の「ぶっ殺してやる」という言葉で春生は失望感を深めたが、「お前だって男がいるだろう」とは、これまた何という言葉の選択だろう。父はどこでこんな言葉を習得したのだ。これでは絶望するしかなかった。不実に加えて脅しとはったり。父がそこまでプライドがないのか、と思わざるを得なかった。自分の尊厳を、自らどこまで踏みにじるのか。品性丸出しで、しかも包丁まで持ち出したとは、いったい何なのだろう。父は、いつからこんな人間になり下がったのか、という無残さだった。これは一般的にも一発でアウトの犯罪的行為で、家族関係にも大きな傷をつけた。それだけで離婚決定でもおかしくはなかった。

 週末、兄の秋生が帰ってきて、今度は彼が父に怒りをぶつけた。秋生は台所から包丁を持ちだして、ベランダに出て、父が大事にしてそこに置いていた大型の柱サボテンを、鉢ごと抱えて居間に運び込んできた。そして、
 「こんなものなんかどうなってもいいんだ」
と言いながら、父と春生の目の前で切り刻んだ。そして、
 「お父さんにとって、大切なのは何なんだ? いったい何を考えていたんだね? 何のつもりだったんだね?」
と矢継ぎ早に父を責めた。秋生も包丁を手にしたので春生は驚いたが、父が一度包丁を持ち出して、母に「ぶっ殺してやる」と言ったことを春生から伝え聞いたことが彼の脳裏にあったからなのだろう。サボテンを切り刻んだのは、秋生なりに父に対して怒りをぶつける方法だったようだ。普段は母に反感を持っていた秋生も、この時は父に強い怒りを感じていたのだった。
 秋生のその激しい行動と言葉に飲まれて、父はただうなずくばかりだった。
 やがて、兄は気持ちが静まって包丁をしまいに行った。少し経って、父は黙って、無残に切り刻まれたサボテンを集めて新聞紙に包み、ベランダの隅に置きに行った。

 母の言動が不安定な時期が続いた。母は、もともと明朗活発で、物事に前向きの、几帳面で計画的な性格だったが、この頃は平常に近い明るさにまで戻っているときと、不機嫌になり、やがて父に対する怒りを蒸し返して追求するときとで、顕著な落差があった。この頃の母は、一見、もとのように元気を取り戻しかけていたように見えたが、実際は壊れかけていたのかもしれない。
 兄がまた週末で帰ってきているときに、父が「家庭の医学」を持ち出してきて、
 「お母さんは躁鬱症なんだ」と言い出した。
 確かに、ここ数週間、母は週の初めぐらいは元のように元気に機嫌よく振る舞うときと、週の後半ぐらいに激しく父に怒り難詰するときと、毎週、そのような両極端の状態がめまぐるしく変わり、その移り変わりの波が顕著だった。それは、父を追求しても父の誠意がないという現実を前にして、諦めの状態から気を取り直して前向きになろうと頑張るが、それでも次第に気を滅入らせて、やはり納得できずに父を追求し始める、しかし、またもや埒が明かない状態で諦めるしかなくなる、というように、大きく循環する、やむを得ない堂々巡りだった。それは、母の心理の流れとしては、春生にもよく分かる必然的で自然な展開だった。しかし、現象的には、同一の感情の、メビウスの輪のような無限の転回(ループ)そのものにも感じられた。
 春生には、父が挙げた「躁鬱症」という言葉に、母の感情の起伏がぴったりと当てはまっていると感じられて、それなりに納得するところがあった。兄もそう感じてはいたのだろう、特にその言葉に異議を唱えることはなかった。むしろ父に対し、
 「その原因を作ったのはお父さんだろう」と吐き捨てるように言った。
 父は一言も答えられなくなり、黙って「家庭の医学」を閉じて書棚に戻しに行った。

 春生はこの頃のことを思い出す。母の怒りと悲しみ、努めて元気に振る舞う姿と、怒りに声を荒げる姿、諦めを挟んでその両者を目まぐるしく循環する姿。頭を下げ続け、やがて反発し始める父。研修を受けながら週末ごとに帰宅する兄の怒り。どうしてよいか判断ができず、混乱の中で家と学校とを往復する春生自身。そして父から呼ばれて駆けつけた祖母の困惑。混沌としたまま日々流されてゆく生活。それぞれの一つ一つの場面や言葉は覚えているのだが、その生起した順序や相互関係などははっきりと思い出せない。短期間の内にあまりにもさまざまなことが起こり過ぎていた。その時々にただ反射的に対応するのが精一杯だった。

 この頃の母の言葉は間歇的でまとまらず、特に沈んでいるときは怒りと悲しみに満ちていた。兄が週末で帰宅していて、家族四人が揃っているとき、母は皆に、
 「私は二十歳で結婚して、親元を離れて一人で新潟に来て、二十年間家庭生活を築いてきて、家も建てたけど、今回のことで人生の半分をかけたこの結婚生活がほとほとイヤになったんだ。四十歳になるここで区切りを付けて、残りの人生はまた一人の生活に戻って、お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの世話をしたいと本気で考えている。お願いだから離婚させて……」
と言って、最後は言葉にならないぐらい泣き崩れた。初めて見る、母の弱々しい姿だった。
ここで母は、直接、父のことには全く触れなかったが、父の不実はあまりにも酷すぎた。両親の世話をするのが自分の人生の役割だと思って結婚して、しかし、その目的をほぼ諦める形で新潟に家を建てた。その直後に、これほどの裏切りはなかった。問題になっている父の行状を知り、ありのままを理解すれば、春生も、母のように、
 「いったい何を考えてそのようなことをしていたんだ。自分を何だと思っているんだ。家族を何だと思っているんだ」
と矢継ぎ早に父を問い詰めたくなる。そうなって当然だった。母が父との生活に嫌気がさすのも当たり前だった。春生は、これはいよいよ離婚になると、あらためて考え始めていた。
 しかし、母が離婚を強く希望するのに対し、父は、
 「それはできない」の一点張りだった。母との離婚を父が承諾する、しないというよりも、父自身が、ただ、
 「離婚できない」と言うのみだった。それは単純に、父自身の希望として離婚はしたくないという意味なのだろうかと、春生はその理由をあらためて父に確認した。父は、
 「離婚すると自分の仕事も不可能になる」
 「仕事がやれなくなるんだ」
とのみ言い続けた。
 保守的な地域だが、離婚は、既に世間的にもう珍しいことではなくなっているはずだった。離婚者が仕事に就けないわけでもないし、職場で離婚者をことさら排除することも考えられない、と春生は考えた。秋生とも話し合って、父の仕事は対人業務が主たる仕事とも言えるので、それがやりにくくなるということはあるのかもしれない、という話にはなったが、二人とも、父が離婚を拒否する理屈の根本的な理解はできなかった。父が母を裏切り続け、さしたる自覚もなく相手の傷みも理解できないのだったら結婚している意味はない。父母がもし離婚するという合意ができるなら離婚すればいいと春生は思っていた。
 しかし、春生自身に現状維持への期待は当然あるのだから、父が離婚できないというのも、父の中にある現状維持への強い志向だろうとぐらいに漠然と考えていた。それにしても、父がそれほど母との結婚生活維持に執着するなら、なんでこのように愚かな裏切り行為を続けてきたのか、という問いを何度でも繰り返したくなる。自らの行為がもたらす結果に対して父は、依然として鈍重な判断のままだった。

 兄弟二人だけのときに、かつて、幼児期に母の実家に行ったときのことが改めて話題になった。
 「楽しかった思い出だから僕たちは時々話題にしていたけど、あれは結局、お父さんの女性関係が原因で、お母さんが実家に帰っていた時だったなんて、信じられないね」
と春生が言うと、
 「そうだよな。あのときは子供だったから、そんなことなんか考えもしなかった」
と秋生も口ごもりがちに同意した。
 母の実家への初めての旅行は、かつて秋生と春生がアルバムの写真を見ながら楽しく思い出す、二人にとって大事な体験だったのだが、実は父の最初の不行跡の結果だったのだ。失意の母が、たぶんその時も離婚を決意して二人を連れて実家に帰った時の悲しい思い出だったのだ。だからなのか、迎えに行った父が兄弟の写真を撮ったのだろうけれど、その時の母の写真はアルバムで見た記憶がなかった。
そうだとすると、かつて佐渡の相川と上越の新井市で、兄弟が自然の中で思い切り自由に過ごした非日常的な日々の貴重な思い出も、母にとってだけではなく、これは処分されて赴任していた父にとっても別の意味で、必ずしもいい思い出ではなかったはずだ。
 そう考えるとなおのこと、父がまた同じことを繰り返した今回の行為は、その心理が全く理解できない。父が女性問題を引き起こしたのはこれで二度目、しかも相手の女性二人が姉妹ということが、家族にとって心理的負担を極めて大きくしていることは確かだった。これは一体、何ということなのだろう。おそらく、父はもともと女性に関してはだらしなく性懲りもない、倫理観などない人間だったということになるのだろう。同級生の親からも「スケベ親父」と言われるような、好色で情けない男だったのだ。性的にだらしないという問題と、人間的に不実だという問題とは、本来はそれぞれ別軸の項目でマイナスの評価にしても次元が異なるのだろう。しかし、その二つの軸が重なって現れる場合もおそらくは多いはずで、父の場合もまさにそれで、醜悪な状態としか言いようがなかった。そして、母に問い詰められて怒り出すのは、そもそも自分がやったことはたいした問題ではない、自分の罪は軽いという意識があるからなのだろう。そうなると、父の行動はこれからも改善される余地がほとんどないことになり、今後も起こりうることが充分予想された。

 そして、さらに残念な情報が二つあった。春生が母からたぶんその頃聞いたのだろうが、いつの時点で聞いたのかも、話の細部もあまりはっきりした記憶がない。
 その一つは、以前、プードルのジーニアスは、父の知人からもらったと聞いていた。その一方でまた、医師の家からもらったという話も聞いたことがあった。それはそれで、父には、かかりつけの医師以外に知人と言えるほどの医師との交友があったかどうかも不明だったが、ともかく、なんとなく曖昧な情報のまま、医師と知人が同一人物のように、春生は理解していた。だが、それに関してこの騒動の後に明らかになったのは、ある医師宅で飼っていた母犬から生まれた仔犬を、犬好きな人に譲ってくれるという話を父に仲介したのは、その医師が経営する医院の看護婦で、その看護婦こそが父の愛人だったという驚くべき情報だった。
 もう一つは、父が以前から礎(いしずえ)町辺りに出入りしているという噂が社内にあったことだ。父の同僚の奥さんが、我が家の騒ぎが一段落した頃に母にもたらした情報らしい。真偽のほどが定かではないが、噂になるくらいなら、そこは当然、医院ではなく、看護婦宅だったのだろう。それが、当時の社宅からそれほど遠くない場所だったというのは、父が仔犬をそのまま手のひらに乗せて背広の内側に入れただけで連れ帰ってきた、という春生の記憶と符合して、納得がいく話だった。
 父は最初の女性問題で母の人生を汚(けが)し、今度の女性問題では再度母の人生のみならず家族の人生までも汚した。さらに、そこに家族の一員になっているジーニアスの出自までも関係していたとは、春生は全く考えもしなかった。これは、決定的に酷い情報で、春生はできることなら聞きたくはなかった。耳を覆いたいぐらいだった。父はその経緯を家族に伏せながら、いったいどのような考えで、父自ら、「動物好きの家庭だ」と言う沢木家の最深部にジーニアスを連れ帰ったのだろう。それもやはり、父の、信じがたい不誠実さと鈍感さの現れであるのは明らかだった。
 だが、当然ながら、これらの情報は、当のジーニアスには全く関係のない話で、彼に対する家族の愛情は変わりようがない。父はともかく、母も春生も、おそらく兄も、皆、同じように考えたのだろうし、むしろ、そう考える以外にどう対処のしようもなかった。その後、この問題に関して誰も敢えて触れようとはしなかった。
 ともかく、家族のすべての思い出が、こうして時間が経って振り返ってみれば、父の行為の結果、これまでとは別の意味を持ち、以前に感じていた価値と輝きを失ってしまうのは、幻滅としか言いようがなかった。

 春生は子供時代から、両親の間にお互いに対して冷ややかな空気があることを感じていた。そのことを秋生に話すと、秋生も同じことを感じていたらしく、肯きながら、
 「うちの親同士の関係は、友達の親とは違うと、ずっと思っていた」と言う。
 両親は結婚当初から、完全には打ち解けていなかったのか、それとも父の女性問題でそうなったのか。最初の女性問題で父はすでに母に対して前科があったのだから、当然、その後、母は父への不信感を常に抱いていたはずだ。それを解消することはとうてい不可能だったはずで、少なくともその後は、母が心の底から父に親しんだことはなかっただろう。その結果としての冷ややかな夫婦関係、ときどきあった夫婦喧嘩なのだと春生は考えていた。
 しかも、さらに言えば、兄自身が、春生が現実に目撃した、母の怒りの追求に対する父のしどろもどろの弁明、母からさまざまに聞いた父の二度の女性問題の詳細などを、春生ほどには具体的に知らない、という可能性もあった。春生はこの騒動にどうしていいか分からず判断の助けがほしかったこともあり、研修中の秋生には何度も電話して騒動の発端からの話をいろいろ伝えていた。そのつもりではあった。しかし、兄との電話が、研修所の電話口に兄を呼び出してもらう形式なので、問題の詳細を逐一話すことができず、まして秋生の方からの発言はほとんどなかった。週末に秋生が帰宅したときは、改めて詳細を完全に伝えるというよりも、秋生がすでにいろいろな状況を知っているという前提での話になってしまいがちだった。また、母が、父や自分の首を絞めたり、自殺未遂をして救急車で運ばれたり、祖母が北海道から駆けつけたりした現場やその前後の生々しい情況に、秋生は直接立ち会ってはいない。父が、母に対して「ぶっ殺してやる」と包丁を持ち出したり、「男がいるだろう」と当てずっぽうの言いがかりをつけたりした現場にも立ち会っていない。それらの積み重ねの結果、春生が幻滅したほどには、兄が必ずしもすべての情況を理解していないこともありえた。
 というより、秋生がこの状況をほぼ不完全にしか理解していないのは当然ではあった。そうすると、父の不行跡を兄弟が同じ言葉で話しているようでも、それぞれが実際は受け止め方が違い、別々の考えで言っていることもあるのではないか。幼児期に初めて母の実家に行った懐かしい思い出が、おそらくは母の離婚決意を秘めた旅行だったと分かったときの幻滅を兄と語り合ったとき、兄がさほどの共感を示さなかったのは春生の気になっていたことだった。幼くて春生が覚えていない、母の帰省直前の父母の不和を、兄は覚えているのかもしれない。母の実家に滞在中に、バスに石をぶつけて祖母に縛られたことなども、秋生にとっても必ずしも楽しかった思い出ばかりではない、むしろ苦い思い出だったということがあるのかもしれない。それに、春生にとって、ごく幼い頃に感じていた父の存在感はここに来て地に落ちてしまったが、兄にとってはまだまだ父は大きな存在ではあったのだろう。
 実際に、秋生は、研修の合間に帰宅しているときに、
 「お父さんに愛人がいたのは、お母さんだって薄々感じていたんじゃないか。知らなかったわけはないと思う」
と言ったことがあった。
 そのことについては、春生も考えることがあった。
 特に、春生が小学校六年の途中で転校して、川端町の社宅に住んだ直後ぐらいに、母が一度家出したことがあった。春生は、あれは今回の父の女性問題に何らかの関係があったのだろうと考えるようになっていた。というのは、母が救急車で運ばれた日に父が状況を説明して、「昼に俺が様子を見に家に戻って発見したんだ」と言ったとき、春生には軽い既視感があったからだ。母の家出の時も、春生が小学校から帰宅したら、ウィークデイなのになぜか父が一人で家にいて、父は何度も母のタンスを探っているところを春生たちに見せようとした。
 その社宅に転居したのは、父が昇進した結果のはずなのに、父は手当などが少なくなったと母に説明し、確かに家計は逆に苦しくなって、春生は家の貧しさを実感した。その前後にもらってきたトイプードルの出自が曖昧だったのも不思議だった。そして、当時の父の、最後の昇進試験を終えた高揚感、解放感とも言い切れない、変に興奮したような淫(みだ)ら感、息子の同級生から「スケベ親父」と言われるようなその言行。春生が知っている、時期的に接近しているこれらのこと以外にも、母には父に対する不信感を募らせる日常の些細なことがいくつもあったのではないか。そして、ある日、子どもたちが登校した後、母は父に疑問をぶつける。図星を指された父は曖昧な返事でごまかしてそのまま逃げるように出勤する。母は怒りを抑えきれず、手荷物をまとめ、家を出る。後ろめたい父は、母が何かするのではないかと警戒感を抱き、仕事の合間か、会社を早退してからか、妻の様子を見に帰宅する。そして、妻の不在を発見したのだ。パニックに陥った父が、子供たちの前で何度も母のタンスを探るふりをしていたのは、後で考えると、妻がタンスにお金を隠していた、妻はそれを持ち出して家を出た、悪いのは妻で、自分は悪くない、と問題をずらして子供たちにアピールしたかったのだろうか。それだけで妻を悪者にしたつもりだったのだろうか。
 両親が互いに背を向け合っていると言えるその時の状況は、現在の状況と深いところで強い類似性があるのは確かだった。母が父の再度の女性問題を薄々感じ続けてきたのはほぼ明らかだった。
 その女性との関わりがいつ始まったのかは不明だ。しかし、このような警告的なできごとがあったにもかかわらず、その後も少なくともほぼ三年間、父は女性との関係を続けていたのではないか。その時、「お父さんがいるから心配しなくていいからね」と子どもたちの前で涙声まで出しながら、翌日帰ってきた母を見て、父は喉元を過ぎた熱さを忘れたのだ。春生には信じられないことで、父の驚くべき無思慮だったが、もちろん無思慮だからこそ問題も起こしたのだろう。おそらく最初の浮気騒動の時もそうだったのだ。家出騒動の時もそうだったことの延長で、今回の二回目の浮気騒動も、父はこうして無思慮のまま通り過ぎる気なのだ。

 父の行動で春生が既視感を感じたことがもう一回あった。高校一年の夏前に、春生は自分の机の引き出し奥に大きめの箱に入れて隠しておいた日記の位置が微妙に動いているのに気がついたことがあった。春生は、映画『007は殺しの番号』で見た簡単な仕掛けを応用して、それが気のせいではなく、明らかに誰かが時々春生の日記を盗み読みしているのを確認した。兄が帰ってくる週末意外は父母と春生だけの生活なので、すぐにそれが誰かは見当が付いた。その対抗策として、政治経済の副読本の「プライバシーの権利」に関する記述を挟みで切り取って箱の中の日記の上にテープで貼り付けておいた。数日後の朝、父が春生の部屋にそれとなく入って行くので注意して見ていると、父がすぐに出てきて、一瞬だけ春生と目が合った。父は、平静を装いながらも、
 「春生は法律も習っているのかね」と口走った。顔が紅潮し明らかに慌てていた。
 春生にとって意外だったのは、春生が在宅しているにもかかわらず、父が最初から明確な意図を持って春生の部屋に入ったこと、そして、直後に、目的とする息子の日記を手に取ったことだった。いずれも予想外の父の行動だった。
 春生は、その後間もなく日記は全て焼却した。
 何か後ろめたいことがあると、その反応を気にして直ちに様子を探ったり見に来たりするというのが、たぶん父の性格からくる行動パターンで、今度は春生が何を考えているのかが気になって探ろうとしていたのだろう。そこにも驚くような鈍さが同居していた。
 しかし、兄の秋生の口ぶりからは、彼が父の行動を、母や春生ほどには深刻に考えていないのではないか、という懸念を春生は改めて抱いた。極端な場合、秋生の理解も当の父と同程度で、騒動を軽くしか受け止めていない、さらに言えば、秋生が、母は父の浮気を黙認していたはずだ、いや、黙認すべきであったとまで考えている可能性もあった。もともと、彼には母への反感と、父への依存心があった。そこから、父への過度な寛容さが働いていることも考えられた。

 その頃、ビートルズの日本公演が武道館で行われ、その録画のテレビ放送が七月の初め頃にあった。新聞などで告知されていて、深夜近くの放送だったが、春生は絶対に見ようと思っていた。幸い、その日は父母の間に口論は起こらず、心なしか早めに寝てくれたのは、その頃あまりテレビを見ない春生が予告していたので、母も父も気を遣ったのかもしれない。襖を締め切ると暑いこともあり、各部屋は開け放していた。春生は一人で居間に残ってテレビをつけた。そしてイヤホンを耳に差し込んで、その白黒放送に見入った。テレビの光が闇に散乱した。
 前座のグループが出てきたのは意外だった。彼らがひとしきり歌った後、ビートルズが登場した。
 演奏は期待していたより短く、一時間ほどだった。厳重な警備態勢が敷かれていたのは画面からも分かったが、何も起こらず、無事に終わった。歌われた曲のうち知っている曲は半分ぐらいで、こんなものかと思ったが、彼らが歌う姿を生放送に近い形で見られたことには満足した。

 そうこうしているうちに春生の夏休みが近づいてきた。母はこの機会に北海道の実家に行くことになっていた。春生は父から、
 「お母さんについて行ってくれ。海に飛び込まれても困るから、注意して見ていてくれ」
と言われていた。確かにそのような懸念は残っていて、母を一人で行かせるのはとうてい無理である。
 それでは父は、なぜ母を北海道の実家に行かせるのか。父が考えているのは、たぶん、問題を凍結しての単なる冷却期間としてであり、最初の女性問題が起きたときに母が北海道に帰り、それで結果的に家族の再出発ができたという成功体験が念頭にあったのだろう。しかし、それは擬似的な「再出発」であって、問題が根底的に解決したわけではなかった。問題の真の解決は、過ちを犯した父自身が真剣に反省し悔悟して「再出発」しなければどうにもならない。そして父は、自分が失敗したと思ってはいるだろうが、自分の何が失敗だったのかが分かっていなかった。「海に飛び込まれても困る」と言いながら、母をそういう状態にしてしまった自分の責任はほとんど自覚していない。たぶん、女性関係を妻に知られてしまったのが失敗だった、妻に分からないようにもっとうまくやればよかった、とぐらいにしか父が考えていないのはほぼ明らかだった。おそらく、最初の女性問題を起こしたときから、それぐらいにしか考えていなかったのだ。

 春生は、国鉄の切符が取れた日程に合わせて、学校に断って夏休みを少し早めに取り、七月の中旬の午後に北海道の母の実家に向けて、母とともに旅立った。春生にしても、それは一刻も早く災厄の場から逃げ出すような心理だった。新津駅で乗り換えた青森行きの特急の列車内では、沈黙がちな母と息子はじっと窓の外に風景が流れていくのを見ていた。話題はほとんどなく、会話もあまり弾まなかったが、それでも故郷に向かうことは母に安らぎを与えているようだった。春生にとっても、母と一緒にこのような長距離を移動するのは初めてだった。家にいるときより気持ちが落ち着いていたのは、どのみち指定席以外に動きようがないから、ということだけだっただろうか。時の経過だけではなく、離れていく距離も心の傷を癒やす、というのは本当だった。春生は時々目を開けて母を見たが、外が暗くなってからは大体は母と一緒に眠っていた。
 八時間後の深夜に青森駅に着き、ホームを長く歩いて、連絡船に乗り換え、海峡を渡った。春生にとってはこれが二回目の海峡越えになるが、一回目はまだ幼かったので全く覚えていない。これが実質的に初めての体験と言える。母の希望で、椅子席は避けて、横になれる桟敷席に靴を脱いで上がった。海は荒れてはいなかったようだが、それでもある程度は揺れるので、春生は眠れず、船酔いらしきものを感じた。母が落ち着いて寝ているのを確かめて、途中で立ち上がり、客室の周辺を歩き回った。連絡船が、騒々しいリズムを刻みながら波を押さえ込んで、海上を進んで行く力強さが感じられた。デッキへの出入り口からは海上の暗闇しか見えなかったが、客室の方を注意しながら顔を出していると、夜気を含んだ風が当たり気持ちがよかった。やがて船酔いも収まって来たので母のところに戻った。母も春生のことを心配していたらしく、そばに行くと目を開けて、
 「酔ったのかい。大丈夫かい」と聞いてきた。春生のことを心配するぐらいなら、母こそ、もう大丈夫だろう。春生は安心して横になった。
 対岸の函館駅には朝早く着いた。新潟出発から十二時間後だった。夜が明けた中を、母と一緒に再び長くホームを歩いて、待機している列車に乗った。夜明け直後の北海道の風景は、思っていたより本州の風景と違わないと思えたが、やがて線路が大きくカーブして列車もそれに連れて傾きながら進んでいくところに差し掛かると、がぜん、風景の広がりが大きくなった。太陽が少し高い位置に昇り、熱量のあるはずの真夏の光線が涼しそうで、車窓を隔ててはいても、空気も光も違うように感じられた。少し眠って目を開けると、今度は樹林帯に差し掛かっていた。深い森林の中で、線路際の樹木も大きく感じられた。松の一種らしいのだが枝ぶりが新潟で見慣れている松よりも大きく垂れ下がっていて、そこにさまざまな下草が伸びたり絡まったりしていた。
 そこからまた、眠りはじめ、昼前に、札幌駅に近づいたという車内放送で目が覚めた。札幌市は、市街地が「碁盤の目」状に作られているとは知識として知っていたが、確かに踏み切りを通過するときなどに左右を見ると、道路が直線状になっていて遠くまで見通せる。
 札幌から急行に乗り換え、再び北上を続けた。今度は目的地に近づくにつれ、樹木が少なく低木が多くなり、これがいわゆる「原野」なのかと思うような光景になってきた。
 六時間後の夕方、目的地の母の故郷に着いた。前日の出発からちょうど二十四時間かけてようやくたどり着いたのだった。飛行機で移動することは、まだ考えられなかった。まして、二十年近く前の父母の結婚の時は、この旅行に三日ぐらいかかったらしい。だから、結婚後に母が帰省したのは、間に十数年を挟んで今回が二回目になるが、遠いのでそれぐらいの頻度でしか帰省できなかったのはやむを得ない、とばかりは言えない。母にとって、ほとんど知らない男性と結婚し、ほとんど知らない土地で暮らすのだから、もっと頻繁に行き来できなかったのは、とても厳しい条件だった。しかも、帰省したその二回のいずれもが、父の不行跡で母が離婚を考えながらの帰省なのだから、なんと言っても、父にこそ問題があった。そもそものこの結婚が、かなり深刻な問題を孕んでいたということになるのだろう。父母はどうしてこのような結婚をすることになったのか、改めて不思議に思う。

 駅には母方の親族が迎えに出てくれていた。母方の祖父も、その時までに新潟に来たのはたぶん一回ぐらいだったが、祖母は今年でたぶん、四回目、五回目ぐらいになる。その他の親族はほぼこの時が初対面だった。
 母の実家に行ってみると、ゆるやかにカーブした坂道の道路の麓に祖父母の家があった。ほぼ、幼い頃の記憶通りだった。今では舗装されて歩道がついているその道路を家の方から庭越しに見ると、右側から下ってくる歩道との間に少しばかり段差があって、中央から左側はほとんど段差がなく歩道に出られるようになっている。
 十二、三年ぐらい前、ここに春生は、兄の秋生といたのだ。家の前の緩やかな下り坂の砂利道をバスが下ってきて、一緒にバスを見ていたはずの兄が突然、そのバスに石をぶつけて、大問題になったのだった。
 たぶん、その時より前だったが、祖父母の家の前に役場の車が止まっていて、その車のフェンダーに固定されていたサイレンが突然鳴り出した。同時に、カバーの中の回転羽に触れていた春生の左手親指が切れ、血が出たことも思い出した。たいした怪我ではなかった分、春生にはその記憶だけがあり、その前後の記憶も傷痕も残っていない。
 
 祖父はもう隠居していて、祖父母の手伝いがほとんど必要がないので、滞在中、母は、妹がやっている旅館を少し手伝ったりした。春生も、祖父の作っていた菜園の収穫を手伝ったりした。後は何もすることがなかった。
 春生は、持って行った勉強道具を開く気にはなれなかった。半分は英語勉強のつもりで半分は興味もあって持参した、高校のOBが配ってくれたギデオン協会版の英日並記のコンパクトな新約聖書も、開いてはみたが少ししか読めなかった。数冊持って行った文庫本も、取り組めなかった。要するに春生は、少しでも高さのある山か丘に登ろうという体力のような、何かしようという気力を完全に欠いていた。
 ぼんやりと現代国語の参考書をただ眺めていたところに母が戻って来た。雑談ついでに、たまたまその参考書の口絵写真にあった異体字、変体仮名だらけの作家の書簡や色紙などを、
 「全然読めない。どう読むんだろう?」と期待した訳でもなく母に見せたところ、母がすらすらと読めるのが意外だった。高校の入学時にも、前もって渡された教科書群の中にあった『注釈付き小倉百人一首』を、
 「分かるのは下の句だけだよ」と言いながら、母が、結構よどみなく暗唱したことがあった。その時も春生は意外で、母が少しは百人一首ができるなら、子供時代から教えてもらえたのにと残念に思ったことがあった。中学一年の冬に学校の図書館が百人一首の経験者を募集していて、クラスからも参加者がいたが、春生はその催しには全く無縁の生徒だったのだ。
 滞在中は、兄から話に聞いていたように従弟妹たちが賑かで、遊び相手になってくれたり、オホーツク海の海岸に連れて行ってくれたりした。真夏の日中に外で吐く息は白かった。石ころが多い海岸ではたき火をしたが、流木の他に、海岸ゴミとして捨てられていたゴム長靴も可燃物として燃料に使う実用主義と、海に足を入れてみたときの海水の冷たさには驚いた。やはり北方に位置している町なので、日中はともかく、夜になると急速に気温が落ちた。立秋を過ぎると寒気の方を強く感じた。
 「今夜はシバれるわ」と祖父が有名な方言を口にしながら、重油ストーブに火を入れたのも驚いたが、その暖かさがぬくぬくと感じられるほどに夜気は肌寒かった。
 春生に暇な時間が多かったせいか、滞在中に、祖父母は家族の昔の話をさまざまにしてくれた。
 祖父は秋田県の鉱山の町の鍜冶屋に生まれて、少年時代から鉱山で働き、やがて十六歳で北海道に渡り、自分で鉱脈を探すため道内の山を歩き回ったそうだ。その間に経験したいくつかの鉱山の話や作業小屋での話、それに熊の話などが春生には面白かった。二十七歳で、一男の連れ子のいる六歳下の寡婦である祖母と結婚し、二女を授かり、三十歳の時にこの村に定住して、露天掘りの小さな炭鉱を経営するようになったという。当時の祖父や親族を交えた露天掘りの作業中の人たちの写真を、祖母は何枚も見せてくれた。
 祖父は、その頃を振り返って、
 「戦争中は食料不足で皆大変だったんだけどな、俺は家族が食べる白米を一日も絶やしたことはなかったんだ」と言った。しかし、それには、正確に言うと祖父が従軍中の三年間の例外があったようだ。祖父は、一九三七年(昭和十二年)の支那事変で徴兵された。徴兵時、祖父は四十歳近くだったので、当時は、
 「今度の戦争は長くなる見通しがあって、年寄りから先に徴兵したんだ」との噂がもっぱらだったそうだ。
 祖父は主に中国大陸で従軍し、三年後に無事に旭川まで戻って軍務を解かれた。その旭川まで家族で迎えに出たとき、大勢の迎えの家族たちでごった返している中を、帰還した兵士たちが行進してきた。十三歳だった母が、遠くからその隊列の中にいる父親をいち早く見つけ、駆け寄ったという。その話は家族の伝説になっていたようで、
 「あの人混みで、あんな遠くから良く見つけたもんだ」ということを祖母は何度も言った。
 祖父は、出征前にはあったはずの頭髪が、戻ってきたときはすっかり薄くなっていた。それは戦地でヘルメットをかぶり続けていた他に、
 「残してきた家族のことが心配だったからなんだ」と祖母は言った。
 しかし、終戦から十数年後に、祖父の炭鉱は、自衛隊の演習場を誘致するための用地として地元の自治体に寄付したそうだ。炭鉱を手放して引退後、祖父は家の周りの管理や家庭菜園の手入れなどの雑用もやっていた。春生一家が川端町の社宅にいた頃に、母方の祖父母が二人揃って新潟に遊びに来た時、春生は物心ついて以来初めて祖父に会ったのだったが、好々爺然とした印象を受けた。今回、滞在していると、祖父はその時の印象に違わず、生活の細部にまで関心を持ち、身辺や家周りを几帳面にきれいに整えて、家庭を大事にする優しい老人だった。
 春生は言われるままについていって家庭菜園を手伝った。かなり器用な人で、その点は春生の父と似ていた。体質的にほとんど酒が飲めないところも似ていた。もともと知的好奇心が旺盛だったようで、新聞を丹念に読む人だった。書く文字は大きく丁寧できれいだった。
 祖母は福島県の出身で、関東大震災の時には東京の女学校に通っていた。その時に、デマがもたらした悲惨な出来事を祖母が直接目撃していたことを初めて知った。二十歳ぐらいで前夫と死別、乳飲み子を抱え、翌年再婚したが、その時の希望条件は「お酒さえ飲まない人だったら誰でもいい」ということだった。それだけの条件で再婚した相手が六歳上の祖父だったのは、非常に幸運だったと言うべきだろう。二女をもうけ二十四歳の時に家族五人でこの村に移住し、夫が炭鉱を経営するに至った。夫が徴兵されて不在だった三年間を除いては主婦だったが、祖父が炭鉱経営をやめた後、
 「これから私が頑張るからね」と言い、夫が不在の三年間に続いて、五十二歳から衣料品の行商を再開したという。祖母は、子供の頃に、衣料品店を経営していた父親から、
 「商売は日銭が入るから絶対に食いっぱぐれない。困ったら商売すればいい」と言われていたそうだ。春生と母が滞在中も、祖母が見えないなと思うときは行商に歩いていた。集落ごとに得意先を回って歩く一定のスケジュールが決まっていたらしい。この時から数年後に、祖母は初めて自分の衣料品店を持つことになるのだ。
 春生にとっては曾祖父に当たる祖母の父親が、祖母に一定の子女教育を受けさせたことと、「困ったら商売すればいい」という知恵を授けたのは素晴らしいことだった。ただ、戦争中には地元の小学校から事務を手伝ってくれと祖母に声がかかったのに、祖父が絶対ダメだと断ってしまったらしい。祖母は、山の中で行商の大きな風呂敷包みを背負って夜道を歩いていたときに、女学校まで出たのにここで挫(くじ)けてはいられないと思いながら頑張ったという話もした。春生は、自分の両親の間にあるのと同じような教養ギャップ、文化ギャップが祖父母の間にもあることに気がついた。根本は理解の深さ、思考の深さの差になるのだろうが、異世界に対する無理解は、誤解や警戒を生み、さらに嫉妬や妄想も生み出すときがあるのだ。母は「般若心経」を暗唱できたが、それは、小さい頃祖母とお風呂に入っていて、体が温まる時間の目安としていつも暗唱させられていたからだそうだ。しかし、母が暗唱してみせる「般若心経」を、父は、
 「『でたらめを言っている』と決めつけるんだ」と母は苦笑していた。母が後に病院で亡くなる時、昏睡状態に陥る直前まで小声で朗唱していたのもその「般若心経」だった。
 三週間の滞在だったが、何より、母のことをある程度安心して親族に任せることができたのは良かった。育った土地の空気と水、それに実父母に囲まれて、母も滞在中にしっかり自分を持ち直して、いろいろと話せるようになってきた。することが何もない実家でののんびりした生活ペースは母にはむしろ不向きなのではないかと思えるぐらいに、以前のてきぱきしている姿が戻ってきた。
 やがて、帰宅する時が近づき、父が迎えに来た。これが、十数年前の再現に近いことで、母の帰省の原因もまさにその時の再現でしかなかったことを、母方の親族の誰もが知らない、とのみ春生は考えていた。よもやこの時、それとはまったく逆に、母についての別種の情報が親族の間に伝わっていたとは、母はもちろん、春生にも、知るよしがなかった。

 行くときとは逆コースを真っ直ぐ辿って再び一昼夜の列車旅行を終え、やはり新津駅で乗り換えて新潟駅に着いたのは、まだ日中の暑さも残る夕刻だった。前日の北海道は既に吐く息が白く夜にはストーブに火が入っていたが、新潟はまだ真夏の高温期。家に着いてから、春生は旅行の疲れもあり、へたばってしまった。夏休みが終わるまで、毎日部屋で椅子に長々ともたれて、丸椅子や机の上に足を上げて、汗ばみながらそのまま意識を失っていた。春生にとっては新潟の暑さが応えたのは、この時が初めてだった。
 春生は、欠席届を出して早めに北海道に出発したので、友人に頼んで受け取ってもらっていた成績表を、帰郷後に手にした。入学時の順位と直後の実力テストでは春生はほどほどの成績だったはずだが、一学期末の春生の成績は、一学年五百二十人中の五百番台という悲惨なものだった。しかし、驚きはなかった。むしろ、これで当然だと思った。父が引き起こした騒動の後、完全に泥沼の混沌状態に陥っていた家で、春生は、家で過ごす時間帯は勉強どころではなかった。生死に関わりかねないような口論が父母の間で毎日のように続いていたのだ。春生はほとんど集中力を失った状態で学校に通っていた。高校にいる時間は、脳の活動はほとんど思考停止で、仮死状態と言ってよかった。かろうじて身体的なバランスは保った状態で登校していたが、精神的なバランスはとっくに崩れていた。確かに国語科目の成績だけは比較的良く、それは春生が完全に死んではいなかったわずかな証のようだった。

 九月に入り、二学期が始まった。最初のクラス時間で担任が、
 「この夏休みの過ごし方が大事だった。中には沢木のように二十日間も北海道旅行をしていたやつもいる。ともかくどれだけ目標を持って勉強するか、それが大事だ」と言った。
 名指しされても春生には反応する余裕はなかった。裏切りの地から二十四時間分の距離と二十日間分の日数だけ遠ざかっていて、ようやく母は回復したのだ。春生も一息つけるようになったのだ。何よりもそれが大事だった。

 秋に入って、母は何とか持ちこたえた。
 しかし、この時の母の葛藤は、母に喫煙という悪習慣を残した。父はもともとヘビースモーカーだったが、母が喫煙し始めたのは北海道から戻った直後の夏のうちだった。その頃の母がキッチンでサングラスを掛けてたばこを吸っている写真が残っている。母が慣れない手つきでたばこを吸い始めたとき、母の心の底に、斜に構えた投げやりな気持ちがあったのは確かだった。しかし、その一方でそれがまた、母に、自分の人生や当面の夫婦関係を少し距離を置いて冷静に眺めさせるきっかけを与えたのかもしれない。そして少しは前に進む力を与えたのかもしれない。
 喫煙についで、この年の後半には、母が一念発起して、自動車教習所に通い、普通運転免許を取得した。我が家で初めて運転免許を取ったのだ。ついで、これも我が家で初めて車を買った。車種はトヨタの大衆車、パブリカのグレーの中古車だった。家族の中で、母の次の運転免許は、就職後の秋生が取り、後に春生も三十代前半に取った。父は生涯、運転免許は取らず、家族の運転する車に乗り続けるだろう。

 一方で父の落ち込み方は激しかった。春生が父と言葉を交わすことは、従来もあまり多くはなかったのだが、特に騒動の後は、春生は父との日常の会話もほとんど無意味に感じられた。秋生も相変わらず週末にしか帰ってこれない情況だった。家庭内で、全く会話のない状態になっていた。
 父はあまりにしょぼくれていた。家庭を壊したのは父だったが、本人がその自覚のないまま、明らかに自分の家庭内での立場を失っていて、自業自得とはいえ、それはそれで哀れではあった。
 春生は思いついて、父にとっては畑違いだろうと思ったが、政治経済の科目でちょうど目についた用語を、居間にいた父に聞きに行った。父は書棚から自分の資料を持ち出して、詳しく解説し始めた。それはかなり細かい説明で春生には取っ付きにくかったので、教科書の該当部分を指してあれこれ質問している内に、父が、
 「それならもっと単純なことか」と資料から離れて話し始めた。
 春生は、あまり理解ができていなかったその用語が、父との間で何度かその言葉を使っている内に、概念的に押さえられ、腑に落ちるようになった。一般的な用語でもあり、それを前提にして教科書の前後の流れを読めば確かに簡単なことだった。春生の頭がそれだけ集中力を欠いて散漫になり、理解力を失っていたのだろう。
 父が問題を起こしてからは、春生は朝、高校に登校すると、教室ではなく開いたばかりの図書室に直行することが幾度かあった。そんな時は、司書教諭以外は誰もいない図書室のできるだけ片隅にこもって、その日の授業に関わるところを目安に一人で学習していたのだ。前夜は家が荒れて授業の準備どころではない場合もあったが、何も起こらない夜でも、春生の頭は混乱を極めていて、さあ勉強だ、というようには切り替えられなかった。登校しても、準備が不足な上に集中力や思考力を失った状態で、高速で進行する授業を教室に座って聞いているのが、春生には苦痛でしかなかった。
 春生が授業をサボった形で図書室にいることを知らないはずはないのに、そういう日は担任が探しに来たり司書が咎めたりしたことは一度もなかったのはありがたかった。図書室では誰の顔も見ずにほとんど顔を伏せて過ごし、昼に教室に入っていっても、特に誰も気にするそぶりを見せなかった。
 春生が何かの用で教員室に行くと、席で書類をめくりながら昼食を取っていた担任から呼び止められて、その後、家の方はどうなのかと確認された。家庭内の騒動があった一学期に疲労困憊で体調不良を申し出て早退したときと、夏休み前に休みを早く取りたいと申し出た時に、家庭内の騒動を一部伝えたことがあった。それを気に掛けてくれていたのだろう。春生が、元気のない父に、教科の分からないところを聞いたりしていると言うと、担任は、
 「そうか。父親というのも大変だからな。そういうことも大事だな」
と何か考えるようにサンドイッチを一口頬張って牛乳を飲んだ。

 秋生は受けていた採用研修の終了時に、父の同期だった指導員から、「お父さんの息子さんだから、もう少しできると思っていた」と直接言われたと春生に語った。特に秋生の感情は読めなかったが、悔しかったからそういう話を弟にしたのだろう。
 しかし、去年本社に異動していた父は、この年度末に県の最西端の糸魚川市に飛ばされた。十二年前に佐渡から転居した新井市よりもさらに西側、富山県との県境地域で、親不知海岸のあるところである。この二年後にはその東隣の直江津市に二カ所目の微少な異動だったから、やはり、父が以前に女性問題を起こしたときに県内の端から端に二カ所連続して転勤させられたのと類似の処分になったのだ。前回の処分とほぼ同じことが正(まさ)しく再現されつつあった。母の言っていたことは正しかったのだ。
 父は合計ほぼ四年間を、上越地方で単身赴任で過ごした。以前の処分を合算すれば、中間に新潟市勤務を十年ほど挟む形で、二カ所四年間ずつの処分を二度繰り返す形で、八年余りの間、冷や飯を食わされていたことになる。つまり、この会社に勤務してからここまでの二十数年のうち、三分の一強の期間が左遷生活と言える。父本人がそれをどう思っていたのか分からないが、傍(はた)から見ればこれも愚かしさそのものの自らの行為の結果なので、自業自得、因果応報としか言いようがなく、家族にとっても情けない限りだった。しかし、いかにプライベートなことがらではあっても相手の女性から会社に訴えがあって社内でひと騒ぎになったようなのだから、会社にかなりの迷惑を掛けたはずだった。本人にとって解雇されなかっただけ幸いだった。家族にとっても、母と春生の生活も、それで維持されたのだ。そのことは、父が勤める会社にどれだけ感謝してもしきれないことだった。

 この二回目の遠隔地左遷の時は、新潟市に自宅を持ち、子供がすでに社会人と高校生になってもいるので、父だけがその遠隔地にやはり単身で赴任し、家族は主として新潟市の自宅に住み続け、母がジニーと一緒に父の赴任先と自宅とを往復するという形になった。
 母は、こうなることもある程度見越して免許を取得し車を購入していたのかもしれない。最初は大事を取って国鉄で糸魚川に通っていたが、間もなく運転に慣れてからは、新潟の近江の家から糸魚川に、さらに二年後は直江津にと、往復するようになった。ほぼ四年間、車にジニーを乗せ片道数時間をかけて定期的に通った。春生もときどきそれに乗って往復し、父もそれで任地と新潟市とを往復することもあった。
 無借金で家も建てたし、兄が私立高校を卒業して就職し一応自立したことと、母も継続して事務のパートを続けていたこともあり、この頃から、一家の経済はかなり余裕ができたようだった。

 春生の高校では一年ごとにクラス替えがあった。二年生の確か十月頃だった。窓から見える午後の青空に、秋が深まりつつある気配が感じられる頃だった。
 突然、
 「おい、そこの君!」という数学の教師の声が聞こえて、春生はハッとした。
 「そうだ、君だ。ずっとぼんやりして、どこを見ているんだ? 君は何を考えているんだ?」
 春生の名前を言わなかったので、周囲の学生数人も自分のことかと思い焦っていたが、春生はその教師が指したのは自分であることがすぐに分かった。教師も、春生が姿勢と視線を改めたのを見て、授業の流れに話を戻した。
 数学は二人の教師が分担して一科目ずつ担当していた。同級生が、
 「一人は言葉は丁寧で教え方も上手いが、もう一人は言葉が不器用で口べただ。でも、数学そのものは不器用で口べたな先生の方ができると思う」、
と言っていた。春生の放心を注意したのは、その教え方が上手いと言われた方の教師だった。春生は、中等数学の時は単純に数学者になろうと思ったこともあったぐらいに数学の面白さを感じていたのだが、それも今は昔で、高等数学どころか高校の勉強そのものが完全に視界から消えると同時に気持ちも離れてしまった。それをその教師から見透かされて、警告されたのだ。春生は、それまで混沌としていた意識が呼び起こされた感じがした。死んだようになっていた春生の現実感覚が、このころから、ようやく戻ってきたような気がする。
 同じ頃、かつて郊外の小学校時代に同級で、春生がそこから転校後、久しぶりに高校で一緒になり、一年時に続いて二年時のクラスでも一緒になった同級生から、
 「沢木さ、去年は何か、ずっとおかしかったんじゃないか」と言われたことがあった。
 確かにそうだったはずだ。その同級生の言葉を聞いて、春生自身も、
 「そうだ、去年はずっとおかしかった」と思い、自分でも充分納得できた。
 春生の高校生活はあと半分しか残っていなかった。

 その頃のあるときだった。春生が、母に頼まれて柱時計のねじを巻くのに踏み台の上に立ち上がったときだった。頻脈の発作が起こった。通常の脈拍の数倍の速度で拍動が始まった。
 「ほら、心臓がおかしくなった」と椅子から下りて言う春生の胸に、ねじ巻きを依頼した母が手を当てた。母は春生が言う頻脈の症状に触れてあらためて驚いた。この頻脈の発作は、春生が小学校の六年生の途中て転校して間もなくから始まった症状だった。春生が椅子のそばに立ったまま、いつものようにゆっくりと何回も深呼吸をしていると、しばらくしてから頻脈が突然に止まった。春生の胸に手を当てたまま判断に迷っていた母は、
 「あっ!」と声に出して驚いた。動悸が始まったときと同じように突然治まる時に、一瞬、心臓が止まった、と感じるのは春生自身にとっても同様だった。春生が、
 「治まった!」と言ったのと同時に、春生の心臓が正常な脈拍を回復してしっかり打ち始めたので、母は安心した。とはいえ、母には春生の訴える症状の異常さと深刻さがあらためて感得されたようだった。

 母も心配になったのだろう。それからまもなく、高校の在学中と、卒業して東京に出る前後だったが、母と一緒に何回か、複数の病院に行って心電図を取ってもらうなどの精密検査を受けた。いずれの時も所見上、何も異常が見当たらず、
 「実際にその症状が出ているときの心電図を取らないと判断できないが、とりあえず普段の生活はそのままで、安心して生活していていい」と言われた。十年以上前の皮膚かぶれの原因究明の時と同じようなことを言われたわけだった。頻脈発作について、小学校以来、春生が図書館などでいろいろ調べて知っていた「発作性頻脈症」という言葉すら、知っている医師は少なかった。
 その後も春生を悩ませた心臓の不整脈と頻脈の問題は、何も解決したわけではないが、しかし、医師に診てもらうことで、〈急にどうこういう症状ではなく、このままでもとりあえず気にする必要はない〉という最低限の安心感が得られた。ある病院では腎臓機能や呼吸機能は標準以上だというお墨付きさえ出たのだった。

 春生の大学進学については、三年前の秋生の時と同じく、やはり父は、
 「法学部以外は進学を認めない」と言い出した。父の考えは基本的には変わっていないようだった。父はむしろ、どこで聞きかじってきたのか、
 「大学は真理を学ぶところだ」などと大時代な言葉も付け足した。
 春生は、中学時代は理数系も技術系も好きだったのだが、春生は成績が壊滅状態になった後、勉強の再スタートが致命的に遅かったので、どの科目も成績は軒並み酷かった。国公立大学の受験は諦め、高校三年では私立文系コースに回っていたが、社会科学系の科目もさえない成績だった。もちろん人文科学系もたいして良くない成績だったが、ただ、全体の成績がどんなに底辺に落ちても、国語系だけはそれほどひどい点にはならなかった。
 もちろん、春生は大学で勉強を手元に取り戻したかった。だから、高校の残り一年半、特に三年生のクラスに上がってからは相当に努力した。それで、
 「法学部を受けろ」と言う父に対し、春生の方から条件交渉をして、
 「私大の法学部と文学部と両方の学部をいくつかずつ受験し、文学部に一つも受からなかったら法学部に行く」という折衷案を提案した。法学部に固執していた父も、そこまで強くは反対しなかった。受験した文学部が全滅した時は合格した法学部に進学する、文学部に一つでも受かったらそこに行くということで、父の了承を得た。

 おそらく、兄の秋生が大学に行かなかった根本的な問題は、法学部系でも芸術系でも通じない、いや、高校入学すら困難だったその学力の低さにあったはずだ。秋生は絵が好きで特に写実的な絵は抜群にうまかったが、勉強は不得意だった。高校でも唯一国語の成績が得点上位者の中に名前が入って掲示されるぐらいで、その他の科目は軒並み成績が悪かったようだ。彼の言葉に拠れば、知能指数は高いと言われたことがあったらしいが、それが、何の努力もなしに学力が伸びていくことを保証するものでないのは当然である。
 秋生は、子供の頃は弟の目には一応几帳面のように思えたが、次第に生活が崩れてきたようで、特に父が単身赴任し、母が父の赴任先と新潟市内に残る子供の住居を頻繁に行き来するようになってからは、かなり乱雑な生活になった。
 それは、兄弟で民間のアパートで生活し始めた時からすでに始まっていた。最初は炊事や洗濯、掃除などは兄弟二人で分担することになっていたのだが、秋生の帰宅時間が乱れるなど、後になるほど当てにならなくなり、実質的にかなりの部分を春生が担当せざるを得なかった。一家で新たに家を建ててそこに転居した時はちょうど秋生が高校を卒業して就職したときに当たり、新築の親の家に住むのに家賃も食費も不要だったので、給与のほぼ全額が秋生の自由になった。そして、まさにこれらの期間を通して父の単身赴任が続き、家に両親が不在がちだったことも重なって、二十五歳で結婚するまで秋生の生活規範の乱れは進んでいった。
 秋生は、精神的な姿勢においても、子供時代に家庭内で春生が担当していた仕事を、「インチキをしている」と根拠なく決めつけたり、また、春生が腹痛で苦しんでいたのを「痛いふりをして嘘泣きしている」と決めつけたりするような、物事を見る際の客観性、公正性、倫理観などの著しい欠如も関係したのだろう。すべてが悪く作用したような形で、彼の人生は外(そと)面(づら)だけ、形式だけで、実質は乱雑に、安易に流れる生き方になっていった。最悪だったのは、評判になった芸術家や作品などに対し、「あれは売名だ」などと、芸術とは無関係の低劣な言葉で決めつけて貶めようとすることが多くなったことで、一度でも芸術を志した人間の言葉としては、あまりにお粗末で、傍にいても聞き苦しいこと甚だしかった。というより、彼自身が子ども時代からそもそもの道徳性や誠実さを欠き、他者に対して強い偏見を抱いていたのが次第に顕著になっただけなのだろう。
秋生の「精神の退廃」を別の角度から示す例がもう一つある。両親がヨッコと呼んでいた親戚が結婚して、まだ一、二歳の子供を連れて父子で遊びに来ていた。その時、兄が何を思いついたのか、その子の前に急に洗濯バサミを持ち出して、ひょっとこ面(づら)をしてそれを鼻の下に挟み、「ほら、ほら」と面白そうに両手を顔の脇で振って見せた。しかし、子供をあやすのになぜ洗濯バサミなのか。春生は兄の意図がよく分からなかったが、その子も真似をして、秋生から渡された洗濯バサミを鼻の下に挟んでいるうちにそれで鼻の下の肉を挟んでしまい、激しく泣き出した。それを見て秋生がさも満足そうに笑ったので、初めて兄の悪質な意図が分かって、春生は呆れた。その子の父親も、怒りをこらえてはいたが忌々しそうな様子だった。一般的に言って、子供の相手をするのは、その子の笑顔を期待してというのがほぼ百パーセントの前提だが、この時の秋生は、子供が痛い思いをして泣くのを笑おうという、普通ではあり得ない邪悪な意図が明白な人間だった。

 春生の学年は、大学紛争で東京大学の入学試験が中止された時の学年で、その影響をもろに受けた同級生もいたが、私立文系だけを受験する春生に直接の関係はなかった。現役での大学受験の結果、春生は法学部は二校合格し文学部も一校合格した。受験して、もう一年勉強すれば確実に希望大学に受かるという実感を得ていたが、父との約束通り、合格した大学の文学部に入学手続きをし、春生は、一九六九年三月に高校を卒業して東京に出た。
 東京に出るときに不安がなかったと言えば嘘になるだろうか。確かに不安はあったが、それはごくわずかだった。なんと言っても、新しい環境に対する期待が大きかった。そして、ともかくここを脱出したかったのだと思う。

 しかし、東京の下宿に落ち着いて四月から大学に通い始めてみると、半ば覚悟はしていたが、最初の授業で春生の意気込みは著しく殺がれた。
 父が、「法学部以外は受験を認めない」と言うのに対し、春生から提案した折衷案を実現して入った大学だったので深刻に迷ったが、二週間通って出した結論は、そこを退学して来年再受験することだった。結論は早い方がいい。
 春生は、その退学希望と理由を書いた手紙を前もって父母に出し、五月の連休中に新潟に帰省して、父の当時の赴任先に回り、来年再受験したいと父母に頼んだ。当時、父は確か糸魚川に転勤して二年目だったのだ。その父の社宅でいざ対面して話を切り出すと、父は、
 「そこに受かったら、今度はその上を目指したいと言うんだろう。上を見るとキリがないんだぞ」と言った。また別に、
 「俺が女の問題を起こしたせいで成績が落ちたから、わがままが何でも通ると思っているんだろう」と春生が考えもしないことを自ら言い出して反対したりした。
 だが、若い頃に難関女学校を受験して失敗した経験があった母が春生に口添えしてくれ、結局父も不承不承、再受験を認めてくれた。いったん納めた大学の入学金や授業料は取り返す術もなく、無駄にする形になったのは、父母に対して本当に申し訳なかった。

 春生は、高校の三年間のうち、正味で勉強に集中できたのは最後の一年間だった。試験科目数の少ない私大文系をターゲットにして勉強する形で、辛うじて現役受験に間に合い、いくつか合格しただけだった。その時、受験して落ちはしたが確かな手応えがあった大学を、今回新たに目指して勉強し、一浪後に再受験しようと考えたのだった。
 しかし、それ以上浪人しても、春生にはとうてい余力がないのは明らかで、つまり、父の言う「その上」を目指すのは最初から可能性が閉ざされていた。「上を見るとキリがない」と父は言ったが、来年受験する予定の大学が春生にとって「キリ」であるのは確かだった。父の反対理由は、春生にとってはそもそも非現実的で無効な反対理由だった。
 春生は、東京に戻って連休明けにさっそく大学に退学届を提出した。その後の約十ヵ月は、そのまま東京で下宿浪人という形で勉強し、予備校は模擬試験だけ適宜利用することにした。東京に滞在しているだけで親に迷惑を掛けているので、それ以上のお金は節約したかったし、もともと春生は高校以来、目的が絞られているなら授業形式よりも自分のペースで勉強する方が効率的で自分に合っているという自覚があったからだ。夏と正月は帰省したが、その他は東京の下宿で昼も夜も勉強に集中した。時々受けていたあちこちの予備校の模擬試験では、成績順位や合否判定が少しずつ向上していった。

一九六九年頃 父は直江津に転勤していた。春生の帰省も、上越線ではなく、信越線で直接、直江津に帰省することがあった。
 その直江津に帰省していた一九六九年の夏の朝方に、アメリカの宇宙船アポロ十一号が月面着陸に成功した。基本的には父の単身赴任先である直江津の社宅には、当時、小型の白黒テレビしかなく、それで衛星中継の月面着陸の場面を見たのである。

 翌年の一月頃、春生の再度の受験直前に新潟市で勤務していた兄の秋生が、休みを取り上京してきた。二人は上野駅で昼近くに待ち合わせをし、一日中、上野近辺で過ごした。喫茶店で話をしたり、レストランで食事を取ったりした。春生にとっては初めてのパチンコなどの遊興を一緒にして時間を過ごし、夕食もまたレストランで食べて、秋生は帰っていった。しかし、この日、秋生が外でかかった全ての費用を払ってくれ、かなりのお金を使ったので、春生が懸念していたように、最後には帰路のお金が足りなくなった。念のためのお金を用意していた春生が、秋生の帰途の列車代金を払った。兄らしいことだと思いながら上野駅で見送った。
 兄は兄なりに浪人中の春生の健康と精神面を心配してきたのだろう。彼が三年ほど前に春生を殴ったことを謝罪して以来数年間、春生に対してはかなり優しくなっていたが、この時がその優しさの頂点だったかもしれない。ともかく、このような行動がこの頃の秋生にもたまにはあったのである。

 春生が一浪して受験した結果は、受けていた二つの文学部の一つが落ちただけで、他の法学部三カ所は全部合格だった。特に父との事前の確認はしなかったが、春生は前年父に約束したのと同じ条件で考えていたので、この年も一校だけ合格した文学部に進むことにした。
 三月中にいったん帰省した時、母の運転する車で高校に行って、受験結果を三年時の旧担任に報告した。結果を聞いた旧担任は、「ほう、そうか。それは良かった」と笑みを浮かべた。彼は、母が両腕に抱えていた四校分の合格通知書が入ったビニール袋に時々目をやっていたようだが、特に中身に気づいていたかどうかは分からなかった。

 一九七〇年の四月から、春生は再び大学に通い出した。

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