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「正直、noteネタ切れだわ・・」その解決策

「noteの執筆を続けているけど、ネタ切れを感じている」
「書くのが怖くなってしまった」

この記事はこんな人のために書いています。

ぼくは、これまで95記事公開している。
その中で、ビューの伸びがいまいちなものは非公開にしたり削除をするので、そういうものも合わせれば150記事以上を書いていることになる。

「まだまだ書くことがあるぜ!」と自分に言い聞かせたい部分もあるが、正直に認めよう。
もうネタ切れだ、苦しい。
加えて、有料記事の販売に手を出したことで、「投稿ボタン」のハードルが上がってしまっているという現状もある。
いつか「有料なのにこのクオリティなのかよ」と思われてしまうのではないか、あるいはもうすでに聡明な誰かがそのことに気がついて、離れていってしまっているのではないか。
こんなことを考え始めると悪循環は始まる。
書きたいけど、書けない。書けないと苦しい。苦しいと逃げたくなる。逃げると戻りづらくなる。すると、鬱の呼び声がこだまする。
ただし、同情を目的に執筆をするわけではなく、もがきの中から脱出経路を見出すために執筆している。

だから、自分を励ますためにもこんなタイトルをつけて、「ネタ切れの時の過ごし方」を自分なりに振り返ってと思ってこの記事の執筆に至っている。つまり、今回の記事のターゲットは自分自身である。でも、言わないだけで、こういう思いを胸に秘めている人は多いのではないかと思う。
言い換えると、これは、少しだけ伸びた人間にたどり着く共通する苦悩なのだ。

前提として、本当に「ネタ切れ」なのか

そもそも本当にネタ切れなのかと問えば、そんなことはないはずだ。
だって、書いたのはたったの95記事程度。すでに数千記事を書いているならばつゆ知らずたったの2桁でそんなことにはならないだろう。まだまだ書いていないことがあるし、書きたこともある。
だから、ネタ切れという言葉を仮置きしているだけであり、本当は別のところに原因があることを疑っておかなければならない
自分の「ネタ切れ」というフレーミングに疑いのまなざしを向けるのだ。

ネタ切れのメカニズム

まず、なぜ人はネタ切れに陥るのかそのメカニズムを解明したいと思う。
ネタ切れとひとくちに言っても、単純に書くべきテーマが枯渇するわけではない。
ネタ切れという結果は同じかのように見えて、実は原因は多岐にわたる。自己診断では、みんなが鬱になってしまうように、原因を一元化してしまいがちである。
そのため、本節ではまず「ネタ切れ」につながる根本原因をいくつか触れる。

単純に情報量が足りない

情報量が少なければ、ネタ切れになるのは当然だ。
書きたいことは書き尽くしたわけではないけれど、それでも筆が進まない。
それは、情報が枯渇しているからだ。

補足:常に新しいアイディアや情報を出し続けることは、精神的にエネルギーを消費するものだ。そうである以上、その徒労感のことをネタ切れと錯覚している可能性を常に頭の片隅に入れておかなければならない。

では、情報量が少ないのであれば、もっと読書をするなりYouTubeを見るなり、いくらでも手段はあるはずだ。
大きい本屋や図書館へ行き、何冊もの背表紙を見たり、立ち読みしたり、ブックオフで大量の本を爆買いするなどの解決策が挙げられる。


創造性の阻害要因

「書きたい」というモチベーションで書いているうちには感じないことだが、「書かなければいけない」という外圧的要因が作動すると、書くことへのプレッシャーが発生する。
こんな話がある。脳科学的に創造性には3Bが必要と言われる。
3Bとは、Bus・Bed・Bathの頭文字をとったものだ。
Busは移動中、Bedは睡眠、Bathはトイレやシャワルーム。
いいアイディアが降ってくるのはいつだって、このようなスキマ時間なのだ。つまり、余裕やゆとりがなければ、創造性は生まれ得ないのだ。

このことを踏まえれば、創造性を生み出すためには、もっとゆとりが必要ということだ。
「書かなければいけない」というプレッシャーこそが、創造性の阻害につながっているのだ。

興味の偏り

ぼくはnoterに、「◯◯な人」になることが大切だと普段説いている。
これは、無闇矢鱈にテーマを広げるのではなく、読み手が読みやすいように、集中的なテーマで、書き続けることが大切だよ〜という意味だ。
ふだん、コーヒーについてめっちゃ詳しく発信しているやつが急に飼っているネコを投稿すれば、それだけ読者の「あ、私には関係ないな」というきもちにつながるので、読者離れを加速させる要因になるためだ。
しかし、この制限は同時に「ネタ切れ」へもつながりやすい。自分の中には「ネタ切れ」はなかったとしても、ニッチなテーマはニッチであればあるほど、有限なので、書くべきテーマは枯渇する。

こうならないためには、「◯◯の人」のイメージを拡大することが必要だ。
ぼくの場合はどうだろう。山門文治の書く文章だからなんでも読んでくれる人は、フォロワーが1500人いる中で、おそらく100人にも満たないのではないだろうか。
「フォロワーを集めたい」「お金を稼ぎたい」「書けるようになりたい」こういう目的意識に基づいて、その有益な情報源として活用してもらうことがまだまだ多いはずだ。
その期待に応えることはもちろん必要なのだけど、期待に応えようとしすぎると自分がなくなる。
このバランスが何よりも重要だ。

自己批判の強化

フォロワーの数が増えて、売上がつくと、すくなからず自信が生まれる。
しかし、同時にプレッシャーも生まれる。
「次はもっといいものを書かなかれば」という意識が生まれるのだ。
この克己心はかなり厄介で、自分の成長曲線に過剰な期待が生まれてしまうのだ。
「自分はもっとできるやつだ」という思い込みが、それができなかったときの落胆につながってしまうのだ。
自分はもっとゆるやかに成長するタイプなので、そのいつかを信じて今はひたむきに書き続けるべきだよな。

あそびの不足

書く時間が増えると人と会う時間が減ったり、新しいことを経験する機会が減る。
思い返せば、かなり缶詰みたいな状態になっていた気がする。
特に、2月は閉じこもって毎日書いていた。その割に公開に至っているのは半分以下だったりするので、効率の観点でいえば、もっと遊んだほうがいいことを自明だ。


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