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要約と敷衍

時は乱世。

大コンサル時代。外資コンサルと商社と医者が幅をきかせる時代の古より伝わる二本の名刀の話。

一本はその名を要約という。
対となるもう一歩を敷衍という。

ここに二本の対になった武器がある。

要約にはすごい能力がある。
難解な概念と膨大な情報の大事なところだけを抽出して、コンパクトな言葉に圧縮する。
真空パックのように、言葉が圧縮されていく様は見ていて心地がいい。
まさに達人の業。

そして、対となった敷衍。敷衍にもまた隠された能力がある
要約とはまったく真逆の考え方の武器。
敷衍は押し広げること。情報の一部を摘み上げて、そこを掘り下げ、深い知識の底をシャベルで掬うように、奥へ奥へと掘り進める。

要約と敷衍。

両者は一対の武器であり、その真価は両者を組み合わせた時に真価を発揮する。
これが、読解力を身につけて魔法のコトバを磨きたいあなたにとって最初に身につける武器。

そんな読者に届けたい。
小論文の先生もしている筆者が届ける、パンチライン研究室の山門文治です。リズムで読める言葉を求めて今日も書きます。


いやぁ、なんかこう厨二病っぽい書き出し方すると面白いんじゃないかなーと思って書いてみたコピーなんですけどどうでした?笑

楽しんでくれたら幸いです。

さて、前書きにもあった通り、今回は要約と敷衍についてです。
ひょっとすると、要約はよく聞くし習ったけど、敷衍なんて知らない人がいるかもしれません。


敷衍。
なんですかね、こいつ。
なんて読むんでしょうかね。

フエンと読みます。
なんかいいですよね、ドジっ子メイドが浮かびますよね。なんか可愛く見えてきましたね。

ところで、要約力という言葉は聞く馴染みがあるのに、敷衍力って聞きませんよね。
おかしいですねえ。不思議ですねえ。
今回のテーマはそんな話です。


敷衍ってけっこう大切なのに、あまり知られていない概念だよなぁ、しかもこれ使えないと要約も十分にできないのになぁ

さて、敷衍ですが、
これは先述の通り、情報を圧縮する要約に対して、情報を展開するのが敷衍です。
こう聞くとすこし難しそうですが、カンタンです。というか、あなたも普段からやっています(たぶん)
敷衍は、

話がわき道へ逸れること


です。
敷衍の大切さを再確認した出来事があったので、あるエピソードを紹介します。


ぼくが京都にいた時代の話ですが、ある後輩と話してる時、話題の最中に街のアクシデント(「猫が出てきた」「面白い看板があった」など)があるとそっちに気が散って、話題を遮られてしまうことを怒ったことがありました。
話が遮られると、話を真剣に聞いてくれてないみたいで不快だと言って怒りました。
後輩はしょんぼりとして「ごめんなさい」と言って、その空気に耐えきれなくなって先に帰ってしまったことがありました。
それから、あのバツの悪さの正体がわかりました。
後輩はぼくとの散歩の中の出来事に敷衍してくれていたのです。
なのに、それをこのテーマに絞るんだ、とても視野の狭い説教を垂れてしまったと反省しました。
そもそも、猫が横切ったとか面白い看板があったとか、そんなことをはしゃいで先輩にシェアしてくれるなんて、可愛いことです。
それだけリラックスしてくれているということですから。それを咎めて空気を壊すなんて最悪です。
でも、後輩は違いました。ぼくより7つくらい年下なのですが、よくできた人間です。
それをシェアして楽しい方へいっしょにいく方が何倍も楽しいし、そこから新しい何かが生まれるかもしれません。
こころがだら〜ん、かし〜んとしている状態でないと、アイデアは降ってこないし、独創的な考えも宿りません。
やはり、後輩は明白に正しかったし、ぼくより遥かにクリエイティブでした。


この経験からぼくは、極力話が脇道に転がることを拒まないようにしました。
どんな雑談にも脈絡をあまり考えずにとりあえず付き合ってみる。そういう話題の中の作法が身につくと、驚くべき変化がありました。ただし、その変化はぼく自身に起きたのでした。敷衍を拒まず、のんびりとうんうん話を聞いているとみるみるうちに聞き上手と言われることが増えていきました。会話の神経質さがとれたというか、滑らかな会話ができるようになったのです。すごく雑談が苦手なぼくがです。敷衍を許容したら、なんだか周りがごきげんになってくれたのでした。すると、いろんな話がぼくに入ってくるようになりました。その中には多くの有益な情報を含みます。「この本読むといいよ」「○○ (まだそんなに有名じゃない概念やサービス)って知ってる?」何かの目的をもたずに、気持ちよく話を聞いていると、みんなたくさん話してくれるようになります。敷衍を許容する精神を持つと幸せになれた話です。このように、ぼくが運営する「パンチライン研究室」では、たまに精神論にまで及びます。


突然ですが、敷衍の世界の究極体はnoteだと思います。

noteはみんなあまりにも個人的な話をしています。しかし、それが許容される文化があります。
ぼくはここにワクワクする未来の可能性を感じています。

ところで、ADHDという特性は、話題があっちこっち行っちゃうというものがあります。
ぼくは典型的なそれで、脈絡なくいろんなテーマに広がります。脳のいろんな引き出しが開いて、何をどう言おうかと、情報が犇めきあっています。
そうした、なぜか分からないけど言葉を書きたいみたいなエネルギーは、人間らしさそのものである、とぼくは思います。

時代はどんどん速さが求められています。

「結論は?」とイライラしながら聞く人増えましたよね。

ヤですよね。

背景には、コンテンツのコンパクト化があると思います。
YouTubeやtiktokなど、ショート動画では、短い時間に起承転結が詰め込まれています。まさに、要約です。
要約は、削ぎ落とすことです。つまり、敷衍を許容しない態度です。先の例で挙げた、後輩に注意したぼくを思い出してください。
じれったい物言いにどんどん許容がなくなっていきます。
結論ファースト・PREP法・ピラミッドストラクチャーどれも要約を推し進める思考法が流行ります。
時代は、短く鋭利なフレーズをこれまで以上に求めています。まさに「大要約時代」です。

時代は要約力の高さかと思いきや、みんなあることを見落としています。
それは要約を強調するあまり、敷衍をないがしろにする罠です。
世の中で、要約ばかりを求めると情報は断片化します。
認知科学的に、脳は流れ(ストーリー)で記憶を捉えているそうです。つまり、断片の集合をなんのカテゴリー分けもせずに無闇矢鱈に記憶することは本来人間にはできません。
絵巻物のように連関性を頼りに記憶と記憶は結びつくのです。
脳は、データベース的記憶術にどれだけ対応していけるのか甚だ疑問です。このことから、今の時代の潮流はとてもバランスが悪い状態だと言えます。過度に要約が要求される時代ということです。
ちなみに、ジョージ・オーウェルの「1984年」という小説には、ニュースピークという言語そのものを統御して、思考の範囲を制限するみたいな設定があります。ニュースピークとは、単純化された言語のことです。
詳しくは小説をあたって欲しいですが、「好きの反対は嫌いだけど、嫌いという言葉は余計だから、好きではない」みたいな発想で、いろんな言葉を焚書します。そうやって国民から思考力を奪います。50年代のイギリスの文豪もまたイカした警句を後世に残していたわけですね。
こういう気づきがあるから、古典的名作は読んでおくべきだなぁとつくづく思います。
ぜひこれを機会に読んでみてはどうでしょうか!
読みやすいSFなのに、めっちゃ惹き込まれるストーリー展開で、小説としても面白いです。

AIが描くジョージ・オーウェル


要約の裏には敷衍がある
ことを忘れてはいけません。
そうです。このふたつは対になって力を発揮する武器なのです。
冒頭の厨二病っぽい説明文のフラグを回収しています。
要約が求められる時代だからこそ、敷衍が大事なのです。
押し広げること。深堀ること。
セレンディピティの赴くままに、活字を摂取し、思考を拡散させること。
情報は備蓄しておきましょう。
プリコラージュです。
noteでみんなの敷衍を楽しみましょう。

レッツ敷衍

西暦20XX年。
敵はVUCA時代という怪物です。

ネットに流れる膨大な情報の中で、必要な情報をpickして、情報を圧縮して脳に保管する要約力はもちろん必要です。
でも、要約の裏には敷衍があることは忘れないでください。
敷衍はボーッとしてリラックスしているだけのやつではありません。
敷衍の強みは、創造性です。
創造性という閃きこそ人類に残された唯一の武器になるかもしれません。





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