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人間的な部分に負けた死について

國吉清尚という陶芸家の方について、以前にテレビで見たことがあるのだけど…
自らに火をつけて亡くなられた方だそうで。

その死について奥様が語った内容をどこで読んだのだろうか?
私の手帳からそのメモが出てきた。
(私はいつも心に触れたものはメモをしている)

「彼は彼の人間的な部分に負けたような形で自分を消していったように思います。彼は陶芸家であるけれども、人間でしょ、子供たちの親でしょ、そういうところを彼はふみつぶして生きてきたでしょ。ふみつぶしながら焼き物に生きてきた自分があったんだけど、その現実と自分がありたいと思った自分とのギャップ、心のすみにあるモラル、人間的な部分……父親である、夫である、人間である自分があり、その一方で陶芸家として生きたい自分もあって、そんなはざまのなかで弱っていって、自分で自分を抹殺してしまったんじゃないか、なんて思うのですね。」


-人間的な部分に負けた−


人間的なモラル、夫として親としての愛情。
それがあったが故に、死を選んだのですね。
きっと。

國吉清尚がもっと冷酷な人間だったなら、もっともっと純粋に芸術家(陶芸家)であったなら、生きていたんでしょうか?

モラルなんて、妻なんて、子なんて、捨ててしまえば生きていかれたんだろうか??

愛があるからこそ、死を選ばざるを得ない人たちもいるんだと。
全く理解できないけれど、とてもよく理解できる私もいる。

とても悲しく辛い。
そしてその人間の、弱さが憎い。

どうして捨ててしまえなかったのか?
愛を、モラルを。
一抹の優しさを。
そんなもの捨てさえできたら…。

生きてこそ、と唱える人たちも
きっと
愛を踏み付けにして生きることを許さない。
モラルを捨てることを義としない。
この自縄自縛のダブルバインドの縄を、自分を二つに引き裂くアンビバレントな綱を…彼はもう自らの手で燃やすしかなかったのかもしれない。


知り合いに芸術家の方がいるのだけれど。
その人の話を聞くと、芸術家というのはこういうものなのかもしれない、と思う。
全てを投げ打っているように見えるから。
将来なんて何も考えていないし、家族のことも顧みない。
生きていかれるかすら考えていない。
ただ、制作に没頭し。
それがアーティストなのかもしれない。
…と平凡な私は感じたりする。

生活や、家族や、妻(夫)や子のことを愛していたら、芸術は生み出していけないのかもしれない。
生活や、家族や、妻(夫)や子に煩わされていては、作品とは向き合えないのかもしれない。
つまり、生活の芥が濁らせるのかもしれない。
芸術家の魂を。

だけれども、生きていくためには、金が要り。
そして生きていく中で生まれる情愛は消せない。

生活と愛とが、責任という重荷となってのしかかる。
それがつまり、普通の暮らし。


私も、"私"を生きるために、全てを踏み潰していけたら良いのになあ、なんて夢想する。
現実の私の足は、どこにも踏み出せない。
敷かれた既定路線の上で呆然とするばかりだ。

萌え出る芽を、愛を、優しさを、踏み付けにはできない。

生活に取り囲まれて
愛に縛られて
どこへも歩いていかれない。

期待された仕事をこなして
与えられた役を演じて
立場を全うし
"私"からはまるで遠く、妻となり、家庭人となり。

漫然と、愛の中に生き。
子や妻や家庭人や同僚や友という
あらゆる役名をぶら下げて
その重さに、身動きがつかない。

それらを捨てること、踏みつけて歩くこと
私の中のモラルがゆるさない。
私は"私"が生きることをゆるさない。
立ち尽くす私。

ほら、今この足の裏にも、踏み付けにされた芽が。

生きていること、そのものが、罪なのか?
この世に立つことで、私の足裏の分だけ、誰かを踏みつけている。
死屍累々の世界じゃあないか。

人が純粋な自分を生きようとするとき
愛すらも焼き払っていかねばならないほど不毛な道なのだろうか?


全ての役を降りて
私は"私"を踊ってみたかった。

ほんの一瞬でいい。
モラルを捨てて、愛を踏み付けにして
欲望のまま、踊ってみたかった。

私は芸術家ではないけれど
愛があればこそ死を選ぶ気持ち
ほんの少しわかる気がします。


-人間的な部分に負けた-


人間でありたいから、
優しさを捨てられなかったから、
踏みつけることができないから、
歩むのを止めた人たち。
そうした人たちがいるのかもしれない。


優しい人間になりたいが
一体優しさとはなんだろうか。

手帳を繰りながら思う。


人が生きていくことの罪深さよ。


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