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【読書録】『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル

今日ご紹介する本は、世界的名著である、ヴィクトール・E・フランクル (Viktor E Frankl)『夜と霧』。あまりにも有名なので、読んだことのある方も多いだろう。

私が読んだのは、1977年の改訂版を翻訳した新版(みすず書房)で、池田香代子氏の訳によるものだ。なお、ドイツ語での原題は、『Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager』(意味は「ある心理学者の強制収容所体験」)。ちなみに、英語版でのタイトルは、『Man's Search for Meaning』(意味は、「人間の意味の探求」)とされている。

著者フランクルは、ナチスの強制収容所に収容され、奇蹟的な生還を果たしたユダヤ人の精神学者だ。本書は、収容所での出来事やその苦しみのなかで生きた収容者や自身の状況について、精神科医としての視点を交えながら赤裸々に語ったものだ。戦後まもなく出版されてから、英語版は900万部以上、日本語版でも100万部以上が発行され、世界的なベストセラーとなっている。

本書のページを開いて、すぐに、引き込まれた。ナチスの強制収容所で行われていたことの残酷さは、知識としては知ってはいた。しかし、実際の著者の体験談はあまりにも強烈だった。絶望的な状況のなかで生きのびるということの言語を絶する壮絶さに、言葉を失った。最後まで、ページを繰る手が止まらなかった。その間、驚き、怒り、哀しみ、感動の連続だった。

この本は、読者に、根源的な問いを投げかける。過酷な運命に、どうやって向き合えばよいのか。苦しみとどうやって対峙すればよいのか。生きるとは、結局何なのか。人間とは、結局、何なのか・・・。著者が極限状態のなかで考えたことを語りながら、その究極の問いに対する答えを提示してくれる。

以下、特に印象に残ったくだりを書き出してみる。

まずは、強制収容所の過酷な状況について書かれたくだり。

 夜になって、わたしたちは人差し指の動きの意味を知った。それは最初の淘汰だった! 生か死かの決定だったのだ。それはわたしたちの移送団のほとんど、およそ九十パーセントにとっては死の宣告だった。(…)

p18

(…)新入りのひとりであるわたしは、医学者として、とにかくあることを学んだ。教科書は嘘八百だ、ということを。たとえば、どこかにこんなことが書いてあった。人間は睡眠をとらなければ何時間だか以上はもちこたえられない。まったくのでたらめだ。(…)

p26

 人間はなにごとにも慣れる存在だ、と定義したドストエフスキーがいかに正しかったかを思わずにはいられない。人間はなにごとにも慣れることができるというが、それはほんとうか、ほんとうならそれはどこまで可能か、と訊かれたら、わたしは、ほんとうだ、どこまでも可能だ、と答えるだろう。だが、どのように、とは問わないでほしい……。

p27

(…)以前からわたしは、恐ろしい妄想や夢に苦しめられている人を見るに見かねるたちだった。そこで近づいて、悪夢に苦しんでいる哀れな仲間を起こそうとした。その瞬間、自分がしようとしたことに愕然として、揺り起こそうとさしのべた手を即座に引っこめた。そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、すんでのところで仲間の目を覚まして引きもどそうとした、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実に較べたらまだました、と……。

p45-46

 皮下脂肪の最後の最後までを消費してしまうと、わたしたちは骸骨が皮をかぶって、その上からちょろっとぼろをまとったようなありさまになった。すると、体が自分自身をむさぼりはじめたのがよくわかる。有機体がおのれの蛋白質を食らうのだ。筋肉組織が消えていった。
 そうなるともう、体には抵抗力など皆無だった。居住棟の仲間はばたばたと死んでいった。(…)

p49

そして、苦しみのなかどうやって生きてきたのかについてのくだり。愛する人への思いやユーモアなどが、助けになったという。

(…)今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
 収容所に入れられ、なにかをして自己実現する道を断たれるという、思いつくかぎりでもっとも悲惨な状況、できるのはただこの耐えがたい苦痛に耐えることしかない状況にあっても、人は内に秘めた愛する人のまなざしや愛する人の面影を精神力で呼び出すことにより、満たされることができるのだ。(…)

p61

 そしてわたしは知り、学んだのだ。愛は生身の人間の存在とはほとんど関係なく、愛する妻の精神的な存在、つまり(哲学者のいう)「本質ゾーザイン」に深くかかわっている、ということを。愛する妻の「現存ダーザイン」、わたしとともにあること、肉体が存在すること、生きてあることは、まったく問題の外なのだ。(中略)愛する妻が生きているのか死んでいるのかは、わからなくてもまったくどうでもいい。それはいっこうに、わたしの愛の、愛する妻への思いの、愛する妻の姿を心のなかに見つめることの妨げにはならなかった。もしもあのとき、妻はとっくに死んでいると知っていたとしても、かまわず心のなかでひたすら愛する妻を見つめていただろう。心のなかで会話することに、同じように熱心だったろうし、それにより同じように満たされたことだろう。あの瞬間、わたしは真実を知ったのだ。

p62-63

 ユーモアも自分を見失いための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。

p71

 ユーモアへの意思、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。
 たとえば、こうも言えるだろう。人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように、苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。

p72-73

そして、苦しみのなかでどう生きればよいのかという、究極の問い。

(…)人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

p111-112

(…)被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
 おおかたの収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。

p113

(…)たしかに、このような高みにたっすることができたのは、ごく少数のかぎられた人々だった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。

p114

(…)生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問に正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。

p130

(…)ここにいう生きるとはけっして漠然としたなにかではなく、つねに具体的ななにかであって、したがって生きることがわたしたちに向けてくる要請も、とことん具体的である。この具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。だれも、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。そしてそれぞれの状況ごとに、人間は異なる対応を迫られる。(…)

p130

 具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。

p131

過去の経験は、誰にも奪うことができない、というくだり。

 わたしは未来について、またありがたいことに未来は未定だということについて、さらには苦渋に満ちた現在について語ったが、それだけでなく、過去についても語った。過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。私は詩人の言葉を引用した。
「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」
 わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけでなく、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。なぜなら、過去である、、ことも、一種のある、、ことであり、おそらくはもっとも確実なある、、ことなのだ。

p137-138

そして、どんな集団にも、まともな人間と、まともではない人間がいる、ということ。これは救いでもあり、恐怖でもある。

(…)この世にはふたつの人間の種族がいる。いや、ふたつの種族しかいない。まともな人間とまともではない人間と、ということを。このふたつの「種族」はどこにでもいる。どんな集団にも入り込み、紛れこんでいる。まともな人間だけの集団も、まともではない人間だけの集団もない。したがって、どんな集団も「純血」ではない。監視者のなかにも、まともな人間はいたのだから。

p145

 わたしたちは、おそらくこれまでどの時代も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

p145

以上、特に印象に残ったくだりを書き出したが、これ以外にも感銘を受けたくだりは山ほどあった。いや、ほとんどすべてのくだりが心に残ったと言っても過言ではない。

まさしく、唯一無二の名著だ。

旧版は読んでいないが、この新版は、とても読みやすかった。ドイツ語からの和訳がとても秀逸なのだと思う。訳者の池田氏には感謝したい。

老若男女すべての方におすすめだが、とりわけ、今、生きる目的を見失っていたり、悩みを抱えていらっしゃる方には、特に強くおすすめしたい。きっと、何らかの救いや希望を見つけられるのではないかと思う。

ご参考になれば幸いです!

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