能動的な反抗は受動的な学びより悪なのか。

「おじいちゃんにもわからんけどなあ」

80歳の人の古臭い考えだからとか、所詮家族の考えでしかないからとかじゃなく、絶望した。

私のおじいちゃんは何でも知っていると思っていた。

就活は靴ひもの結び方や頭の洗い方みたいに、正解が決まっていてぱぱっと教えてくれるものじゃない。

無理もない。

私達は能動的に反抗することよりも、受動的に学ぶことを要求されて育ってきたのだから。

言うことを聞く犬は飼い主に好かれる。

最後の別れの時まで見捨てず世話をしてくれる人間に出会える犬は、運命との出会いをしたとしか言えないのだろうか。

人は自分達で物を作り、物を生み出して運用してきた。

力強く生きてきた人もそうでない人も、自分の価値観を基に、自分が生きる世界線のルールに違反しないようグレーな範囲を行き来している。

少しずつでいいから、不公平さが無くなってほしい。

私のように、言葉ひとつ、そしてそれをどう発するか、あるいは発さず頭にだけ置いておくかで、全然心持が違う人もいる。

傷のついた心に無理くり泥を塗って血が滲み出てもさらに歯を食いしばる。

個性はなくしちゃだめ。

自分がやっていることが本当に大事で、本当に目的を果たしているのか。

考えないといけないこともあるし、自覚が足りないこともある。

それでも、難しいことって沢山ある。

何かを達成して成功という儚い一瞬を手に入れるがために、運命とか関係なく頑張れることは本当に尊いのか。

尊さとは何で決まるのか。

新しい価値を生み出せるとか、自分の魅せ方がうまいとか、結局小手先の言葉やスキルが備わっていることが大事なのか。

「私にもわからない」

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