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言葉に対してはほどほどに鈍感、ほどほどに敏感でありたい

「女の人はやっぱりそういうのが好きだね」とか「とりあえず男性陣だけ集まって」とか。会社でよく聞く言葉は、今までの人生で何度も遭遇してるはずなのに、最近より敏感になったように感じる。

いつからか、

・この人は何をもって私のことを”女性”と認識してるんだろう
・もし私が”女”じゃなかったら、どうするんだろう

と考えるようになったのである。

前提として、私は確かに女であり、世間一般が思いつくであろうあらゆる要素において、”女”のイメージに合っているとは思う(恋愛対象、可愛いものが好き、力が弱いetc)。

では何故、ここまで敏感になったのか。
おそらく、大学時代の経験からであろう。

国際系の学科に所属していた私は、普段の授業で1番よく会っていたのが韓国人女性の教授だった。

日本の大学で日本語で授業をする方なので、当然日本語は流暢だし、こちらの伝えたいことが伝わらなかったと感じたことはまずない。

そんな教授であったが、国際学科のため、”外国人”というワードがよく出てくるわけで。

その度に、

「外国人という表現は、あまりよくないよね」とか
「”日本人”って言うけれど、何があれば日本人といえるのでしょう。国籍?見た目?それとも日本に住んでいれば日本人なんでしょうか」とか。

最初に聞いた時、はっとした。

そうして、彼女の授業を通して、レジュメを修正したり自分の発言に気を付けたりしているうちに、

・人に対して、”外国人”と言わなくなった
・外国人とか日本人とかって、普段私が決めつけているのは良くない先入観だなと思うようになった→あらゆる”偏見っぽいこと”に敏感になってしまった

というわけである。

言葉を用いるとき、相手に伝えようとすると何かしらわかりやすい区別が必要になることは多い。

でも、その言葉に対してイメージするものや、実際に相手が心に持っているものは、必ずしも自分(や世間)とは一致しないと思っているほうがいいと私は思う。だから、無意識のうちに誰かを傷つけているかもしれないな、と私自身悶々とするときがあったりする。

「他人から言われる言葉には鈍感に、他人に言う言葉には敏感に」と言っている人がいた。

100%で鈍感or敏感になるのは危険すぎるから、ほどほどでありたい。窮屈にならず、ナチュラルにその場に応じた美しい言葉を使いたい。

…というのは私の理想でしかないけど。



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