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ルール説明のないゲーム

「ルール説明のないゲーム」だなって事務所に一人戻る時に鴨川ぶらついて考える。うちのスタッフとバイトを連れて、現地のリサーチ。出会う人もなく人の気配もなく、ただただ町の呼吸が弱くなってく、その間を彷徨う。

町が老衰していく。寿命を終えて、このまま言葉もなく消えていくのかもしれない。こう聞くと悲しいニュアンスもあるが、それが生き物じゃないかとも思う。町という生命体の役割を終え、土に帰る。人にとって当たり前なことがなぜか町や人工物で蘇生しようとしてしまう。受け継がれたものはたくさんあるはず。それを大切にして次の命を考える。こういう思考も大切なように思う。

人の気配が消えた町を歩きながら、考えてるような考えてないような状態が続く。頭だけで思考するわけじゃないので、ウロウロと練り歩く。いつもは誰かと立ち話したりするけれど、今日は人っ子ひとりいない町。いくつか頭の水辺から言葉がプカリと浮かんで、その言葉がなぜ浮上したのかを考える。

答えは急がないけど思考は残留させて、来週に持ち越し。なかなかこういう仕事をやる機会がないメンバーにどう伝えたらいいか考えながら帰る。ルール説明のないゲームだって、その時おもったのだった。ちょっといじってみて、あれ失敗した。動かない。じゃあこうやって遊ぶのか?そうじゃないみたい。実はそのゲーム自体にはルールがなかったりする。だったら、こう遊ぼうという視点というなのルールをこちらが生み出す必要がある。

本当は昔誰もがやったことある公園で暇になったから新しい遊びを開発するってやつと同じ。僕らは公園という広場と自分という身体を使って遊びを考案する。それはルールを作るってことと同じ。なぜか大人になると難しく感じる不思議。僕は仕事柄ずっとこういうことをしているので、すっと遊びを考え始めれるが何から手をつけるべきか普通は悩む。

ある種、僕にしかないノウハウなのだが、これを継承する難しさも感じている。触れてきたものごとや過ごした時間が直結するから、回答は様々だ。最初の思考のキッカケさえ教えれれば、あとは勝手に育つ気がしている。今はその方法を考えている。

明後日に控えた仕事で、壁に穴が開けられない空間にどうしても小さなライトをともしたい。天井吊もできないしなんとかできないものかと考えていた。事務所に戻る鴨川沿いでおじいさんが噛んでいたガムを石垣にギュッと押し付けて捨てていた。それをみて、あーこれだ!とその足でロフトの文房具コーナーへ。なんかガムみたいな粘土みたいな接着のやつがあったはず!と探し発見。試してみるとうまいこといった。

接着面も光で見えないし壁についているように見える。成功だ。
一見何もできなさそうな状況に何か活路を見出すことは少しアイデアやコンセプトを考えることに似ている気がする。散らかった失敗作の上に煌々と光るLEDライトを見て、いろんな失敗の上に見つけ出す。そのたくさんの失敗の仕方をうまいこと教えないといけないのかもしれない。

制作シーズンとアイデアシーズンが並走しつつある。
ここはチームワークで慣れていきたい。
そして発想できる人を育てていきたい。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。