見出し画像

僕は君じゃないから君のやりたいことなんて僕もわからない

大抵の欲しいものごとは遅れてやってくる。
というか僕らは喉が渇いたらコンビニに行き、お金を払ってジュースを買う。欲しいものはすぐ手に入る。でも、世の中の特に人生に関わる多くのものが、お金では買えず、今欲しいといって手に入るものではない。

例えば、お金が欲しいなってなったら、すぐお金が降ってくるなんてことはないのを僕らは知ってる。楽しいこと起きないかなといって、その場で面白いことが起きることもない。欲しいものにはプロセスがあって、結果に至るのが世の常で、今僕らが生きる世界は物欲であればお金があれば交換可能な状態に少し慣れすぎているのかもしれない。

チェスや将棋と同じで人生においても、わかりやすく経営や家計簿においても、先を見据えた一手を打つ必要がある。無数のステップの小さい一歩だが、見えない未来に向けて可能な限り想像を働かせた一手を打たなければいけない。それがどうにも最近悩みを相談してくる人たちは、そういう思考があまりないことが多い。

「やりたいことがわからない」というのと「やり方がわからない」では雲泥の差だ。圧倒的に前者が多い。それはうっすら自分にありそうなやりたいことをすでに実現している人に投影して様々なリスクをその人に被せているようなもので、個人的には好きではない。ついつい辛辣な意見を伝えてしまう。それは君の願いを人に背負わせようとしてるだけだよって言ってしまう。

やり方がわからない!は凄い好きだ。やりたいことがあるが何をどうしていいかわからない。それであれば君のやりたいことに少し力を添えてあげたいなと思うし、その人が想像する未来にコミットできる喜びがある。

すぐに欲しいものは手にはいる思考が、結果やりたいことがわからない病を煩わせている気がしている。それは逆にいうと手に入るものだけで世界を構成してしまっていて、寂しい世界でもある。

自分のことや自分の欲求と向き合わずに「やりたいこと」がわかるわけもなく、まずは空っぽで何もない自分と向き合うことから始めないといけない。そして少しずつ湧き上がる欲しいものが、お店でもどこでも買えないものであることに気づくと、人はやっと行動に移れる。お店で手に入るものなんて一時的な欲求を満たすものだけだ。どう手に入れてもいいのかわからないものを渇望する思いと、そこにどう至るかのプロセスが人生の醍醐味でもある。

やりたいことがわからないという相談には、僕は君じゃないから君のやりたいことなんて僕もわからないって返すようにしている。それは君の人生で、これは僕の人生だ。欲しいものややりたいことは全然違う。喉から手が出るほど欲しい人生の何かは外にはなく、常に君の中にしかないことを覚えておいて欲しい。

人生は楽しく、辛い時もあるが、総じて素晴らしいものだ。
そんな暗い顔して未来のことを語らずにワクワクしながらわからなさを議論しよう。楽しんだ奴が必ず勝つと僕は信じている。

Photo by Emiliano Arano from Pexels

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。