揺らぐ人と揺らがない人

少しスピードを落として仕事。ただ家や事務所にいると慌ただしかった1、2月の慣れで落ち着かない。と思っていたら奈良で打ち合わせが決まった。JR京都駅から近鉄奈良線に乗り換えて、風景を眺めながらゆっくり向かう。

移動は不思議だ。流れてる時間は同じなので風景はすごい速度で流れていく。それなのに気持ち的にはすごいゆっくりできる。
あー川綺麗だなぁとか、そら高いなぁと思える風景だからかもしれない。なんども乗るがいつも風景に新しい発見がある。

小豆島に滞在しているときもそうだった。
確実に体感する速度が違うのだ。思考はもっと過密に、でも時間はゆっくりと流れる感じ。不思議だ。人それぞれ、ギアをぐっと落とせる場所があるのかもしれない。

喫茶店でSNSを開くとものすごい速度に感じた。
大きな山場も超えたのでメールやメッセージも緩やかな量だったので、より一層オンラインの世界の速度を感じた気がする。
いろんな人の、私はこう思う。僕はこう思う。が入り乱れている。
そのどれもが正義を振りかざしてるような風に見えた。答えは一つではないのだけど、どうしても自分が正しいように感じてしまうのかもしれない。

「揺らぎがない」気持ち悪さを感じた。
電車で見える風景も、心の中で思うことも「これだ!」という決定的なことではなく、蝋燭の光のように、原っぱの風に揺れる葉っぱのように揺らいでいる。
その些細な往来が人間的なのかもしれないと思った。

全てのSNSが悪いというわけではないけれど、近しい感性の人に囲まれ、正しいことをいいねで固められ大きな自信になり、自分ではないものごとに否定的な視点でみてしまうことは大いにあると思った。そのオンラインの世界では、その思考がスタンダードだから。揺るぎないスタンダード。

でも、人本来は常に揺らぎ続けている。
それは一見弱い存在に見えるけれど、その弱さを認識していることこそが、もしかしたら人間の魅力なのかもしれない。

そんなことを考えていると乗り換えるべき駅で降り損ねそうになった。
観光客がごった返す京都駅から、のどかな奈良の駅。
あぁ、なんかこれも似てる。奈良の方が人間的だと思ったのでした。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。