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【評論】映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』

この文章は、ぼくが大学1年生の秋に履修した「政治学原論」のレポートを、一部加筆修正したものです。『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、ぼくがいま考えたいと思っている問題、誰もがどこかでぼんやりと抱えているかもしれない社会に対する疑念、そういうものを浮き上がらせる作品です。講義のレポートという性質上、映画を鑑賞している前提で書かれた内容であることは了承してください。作品を観てから読んで頂いても結構ですし、先に本文を読んでから鑑賞する気になってもらえたならなお幸いです。


以下本文


ここでは、作中に描かれている不条理なまでの社会制度、人の尊厳や大事な物品までも数量化してしまう市場社会を整理する。その後、その中で生き抜こうとする主人公ダニエルとケイティーの助け合い、あるいはその周囲の援助に目を向ける。そして最後に、それでもその試みが潰されていく過程、またはその試み自体が孕んでいる逆説を解き明かし、現代社会の問題の考察につなげていく。

 本作では大きく分けて二つの役割を、ダニエルとケイティーに負わせている。その二つとはつまり、政治制度に殺された存在と市場社会に殺された存在だ。もちろん両者ともどちらの弊害も抱えているわけではあるが、基本的には前者がダニエル、後者がケイティーに当たると言っていいだろう。

 ダニエルは医者によって働くことを禁じられており、そのことで支援を受けようとするが、なぜか就業可能であるとして拒否されてしまう。そこで職業安定所に出向いて再審査を申請しようとするが、そのための必要書類がオンライン上にあると聞かされ、機械音痴の彼は絶望する。それでも周囲の手を借りながら書類を作成するが、認定人と連絡が取れず、保留音が流れるだけのために電話代が嵩んでいく。そして、仕事をすることができないにも関わらず就業活動をしろと言われ、いやいや履歴書講義に出て街を歩き、面接をしようとしてくれた園芸の経営者に事情を説明したところ、「骨なし」と罵られるのである。さらにはその就業活動の証明ができないからといって、彼を「違反者」として扱う顛末だ。

ここで問題となっているのは、ダニエルの事情を汲むことのできない制度設計である。彼が自力でオンライン上の手続きをすることは困難であるにも関わらず、効率を重視したばかりに画一的で、個人に最適化されない形で無理難題を押し付けられている。ラストの彼の葬式のシーンで、彼の最期の手続きに付き添ったケイティーが、こうした一連の流れに「制度が彼を早死にさせた」と語ったことがなによりの証拠だろう。

また、最後のシーンでは、制度を通じて援助を受けることを諦め、職業安定所の壁にスプレーで落書きをし、声を上げる。ここでは、制度による救済が機能不全であったとしても、その外部から抵抗することは「違反者」としてみなされてしまうという点が象徴的だ。我々個人が契約して出来上がったはずの社会が、その根拠となる尊厳を持った個人を殺しているのだ、という逆説が告発されていると言える。

 またケイティーについては、経済的に困窮して、最後は自らが売春婦になっている。これは、まさに人間の尊厳の単位となっている身体を、経済的に数量化し剥奪する行為と読み取れる。万引きを見つけて捕まえた警備のイヴァンは、助けを装いながら彼女を売春婦として、つまりビジネスのための商品として認識している。こういった市場社会的な世界観は、作中の様々な場面で見てとれる。例えばダニエルの隣人のチャイナは、靴を中国から直接輸入することで安く仕入れて転売している。ここではもはや商品を経済的な価値としてしか見ておらず、靴そのものとしての意味合いが脱落している。また、ダニエルが最終的に家具を売り払うという場面でも、それは見られる。彼の家具を買い取りにきた業者は、ダニエルがケイティーの子供のために作ったオブジェと、彼の大切な工具も買い取ろうとした。しかしダニエルにとってそれらは代替不可能なものであるため、これを拒否する。先に触れたダニエルの葬式で、ケイティーが「彼に教わったお金で買えないもの」と語ったのはまさに、こうしたものたちのことだろう。

 さて、こうした極度の効率化や数量化によって尊厳を奪われてしまうような社会の中で、二人が生きていくために、周囲の人たちの支えが必要不可欠なものとして描かれている。ただ、「手助け」といっても様々な形態があるように思えるので、より解像度の高い分析をするため、分類をする。

ひとまず「支援する側とされる側の関係」、「支援によって解決される問題の緊急度」というふたつの軸を設けたい。たとえば冒頭でダニエルの元同僚が手伝いを願い出たり、家具を売り払ったあとのダニエルを見て助けようとしたチャイナなどは、「見知った人の長期的な問題解決」となり、オンラインでの手続きの際に図書館で手伝ってくれた若い男女、就業活動の際に「もしかするとあそこなら」と教えてくれた周囲の人々などは「見知らぬ人の直近の問題解決」となる。もちろん「問題の緊急度」というのは程度問題であるから、たとえば職業安定所でめまいを起こしたダニエルに水を与えたアンや、彼女に言われて席を譲った2人は、より緊急度の高い問題解決に関わった人だと言える。

しかし私がこの映画を通して考えるに、おそらく現代に必要な問題は、そこではない。この区分に基づくところの「お互いに全く知らない人だが、緊急度は高い問題」に関わるものこそが、現代社会で決定的にかけているものだ。これはまさに、作中ではフードバンクの場面に当たる。心身ともに限界を迎えていたケイティーの涙からも、その重要性は容易く想像できるだろう。

つまり、「目に見えてはいなくとも助けを必要としている人がいるに違いない」という想像力、あるいは「自分にも同じことが起こるかもしれない」という想像力によってもたらされた連帯こそ、我々に他者との繋がりを感じさせ、社会の中で生きているという実感をもたらすものなのだ。尊厳を感じる根拠と言い替えても良いかもしれない。我々の人生は、自己責任に基づく連続的な選択と同時に、偶然性も伴っている。ダニエルが病気になったのも、ケイティーの息子の部屋が雨漏りしたのも、本人の意思による出来事ではない。こうした偶然性にさらされて生きているという事実、つまり効率や数量化だけでは説明のつかないできごとが起こりうるのだということを、この映画は語ろうとしている。

しかしその共感能力は、ことごとく潰される。たとえばオンラインで手続きをすることが困難なダニエルに、職業安定所のアンは手助けをしようとする。しかし彼女の同僚らしき人物は「前例ができると困る」という理由でこれを認めない。あるいはチャイナが手伝った書類もことごとく拒否される。コンビニの責任者が、ケイティーの事情を汲んで万引きを見逃しても、彼女は売春に巻き込まれる。壁に落書きをしたダニエルは、おなじ境遇の男に上着を貰っただけだ。あとは一緒に写真を撮ったり合唱したりと、ある種のコンテンツとして消費されているだけで、なにも事態は進展していない。爽快なやり返しの場面に映るあのシーンこそが、我々の共感能力の劣化を象徴しているのではないだろうか。

最後に、ダニエルの周囲の人間が再三彼に助けを申し出たにも関わらず彼が頼らなかった理由を考える。これはこれまで述べたことを踏まえれば分かるかもしれない。彼に対する個人的な援助の姿勢は、人間の共感能力に依拠している。そしてそれは、彼が助けを求めた国家の成立根拠でもある。とすれば、彼にとっては国家が彼を助けようとしないことは、すなわち共感能力が本当は欺瞞であって、それに頼れば頼るほど逆説的に社会から疎外されることを意味したのではないだろうか。だとすれば、ダニエルがケイティーに売春を辞めるように言った場面で「もうこれ以上私に優しくしないで」と言い放ったことも説明がつくだろう。

金欠学生です 生活費に当てさせて頂きます お慈悲を🙏