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♭な♯の奴隷のために

ずっと、何もしていない。

何かを生み出すんだという意識だけが先行していて、何も持ち合わせていない自分が足枷になっている。それが強ければ強いほど、投げかけた羨望の光は明るくなる。向こう側に横たわる影も、長くなる。

いざ何かをしようとすると、目の前に立ち上がる圧倒的な「何か」に萎縮する。気づけばリールを眺めている。ブルーライトを眼球に浴びながら、指紋が擦り切れるほど親指を画面に滑らせて、気が付けば煌々と灯りのついた部屋で気絶するように眠っている。

明かりのついたまま冷房が効きすぎた部屋で目を開ける。なにもしないまま凡百な生を終えるのだろうという予感には、まだ抵抗するだけの意志は持ったまま。退廃的な生活。けれども、どうしてなぜだか、どこか心地いい。

その間にも、何かに突き動かされるように、半分鬱になりながら何かを絞り出して、言葉を吐き続けている奴がいる。健康に気を遣って22世紀を迎えるくらいなら、そうやって苦しんでポックリ死ぬ方がマシだと思う。

でも、今日も、何もしていない。

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自分が何者であると名前をつけることがどれほど楽だろう。ハッシュタグをつければ自分の帰属する場所が生まれる。というより、そうやって言葉を与えられるために、記号的な何かが消費され続け、再生産される。その繰り返しを支えているのは他でもない僕たちで、その蓄積によって体制はより活気づけられ、僕たちをもっと締め付ける。締め付けてくれる。

いつの間にかインスタは自分好みの投稿で満たされ、サジェストされた音楽もほとんど外れない。YouTubeはいつでもこちら側の思考を読み取るように、振りかざした満たされない欲望をぶつける場所を示してくれる。

僕たちはそうやって、物事に向き合うことなく、解像度の低いまま、神様みたいな存在に振り回され続けるし、これからもそうであることをやめないと思う。僕たちはいつだって、n=1だ。

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いつか創った物語が、この世界を刺す時が来ればいいなと心のどこかで思っている。およそ完璧な知性を持ち合わせた存在が創ったとは思えない世界。

人の手で何かを作り出すという時代の終わりは、きっとすぐそこまで迫っている。だからこそ僕は、目の前の事物や物事に真剣に向き合いたい。その世界を一旦受け入れることで、亀裂を入れてみたい。

そのためには今のままでは到底無理で、もっと解像度を上げないといけない。世界の内側に入り込んで、何かを感じ続けなくてはいけない。そうやって限界まで押し広げられた感性の中から言葉をすくい上げること。そうしてできあがった物語が初めて、記号のレベルを超えた質量を持ち始めるのだろう。生半可な姿勢では、虚構の世界に僕たちと同じ血を流すことはできない。人も死なない。

でも、今日も、何もしていない。

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規範化された行為の渦巻きの中で、うまくコミットしきれずに冷めた人たち。友達が馬鹿騒ぎしている飲み会で作り笑いを浮かべて、割に合わない金額を財布から取り出している人たち。このままでいいわけがないのに、ただそうしている方が楽だからという理由でそこにいる人たち……………。

もしここまで読んでくれた人のなかで、同じ思いを抱えている人がいればこの上なく嬉しい。

たかが100年生きたくらいで歴史は変えられない。「歴史上の人物」はいつだって、勝手に後から「こいつがスイッチだった」と掘り起こされる。

大学一年生の夏、大都会の人混みを眺めながら「ここにいる人も、みんないつか死ぬんだな」と悲しくなって、何もできないまま立ち尽くしていた。一年が過ぎようとしている今、常にどこか諦めた態度で生活をこなしてしまったこの身体は、認識のレベルでどこも変わっていない。

簡単なことではないというのは、おそらくみんな知っている。守られた場所で快楽が投与され続ければ、わざわざその外側に足を向ける奴なんていない。けれども、みんな腹の底で自分だけの物語が欲しいと思っているのもまた、事実だろうと思う。ただ快/不快の原理で最適化された“気持ちいい”社会より、自分の手で作った線路を走ってみたい。それがどれだけ不細工で出来損ないでも。

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オウム真理教もアルカイダも、物語が失われた現代をこの上なく表象している気がする。もちろん彼らは端的に言って悪い。でも同時に彼らは、単線的な物語が崩れ落ちた社会で帰依するものがなくなったとき、僕たちがどのように振る舞うのか、文字通り身をもって教えてくれている。閉塞的な空間の中にできあがったレールの上を走る地下鉄、資本活動の最もアイコニックな建物に突っ込む飛行機。そう考えると、これらの事件はあまりにも示唆的すぎる。僕たちが心のどこかで願っている明確な物語、あるいはその脆弱さ。

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しかしそんな物語は一向にやってこない。残った選択肢といえば、できあがったフレームの中で大人しく飼い慣らされること、あるいはそれと決闘すること。

どちらを選ぶかは僕たちに委ねられているし、だからこそこの問題はより一層厄介なものになっている。自分の選択がむしろ自分を体制に明け渡して無化するというアイロニックな帰結。

僕はいま、後者を選ぶ。ついてくるやつは一緒に行こう。

きっと苦しい。でもきっと楽しい。だって、いま僕たちが首輪をつけられているゲームで生き生きしているのは、そうやって格闘している奴らだから。僕がスマホを握りしめて馬鹿みたいに口を開けて寝ているとき、彼らは泣きながら必死で戦っている。僕が空虚感をぶら下げてマルボロに火をつけるとき、彼らはきっと、シャボン玉で遊んでいる。

では、今日は、何をしようか。

Do not be afraid of those who kill the body but cannot kill the soul. Rather, be afraid of the One who can destroy both soul and body in hell.

マタイ10章,28



金欠学生です 生活費に当てさせて頂きます お慈悲を🙏