幸せになる

 一時期、よく映画を観た。観るとは言っても、監督は誰が好きで、あの作品が一番良くて、あの俳優が☓☓で○○をするあのシーンが……みたいなことを語れる映画フリークではない。ただただ観た。かつて友人に勧められたものや、わざわざネットで「映画 おすすめ」なんて打って検索もしたし、レンタルビデオ店で適当に手に取ったものを裏の説明も読まずに借りたりもした。要するに考えなしの雑食だ。腹が減っていた。映画は私の、行き場のない形容し難い「食欲」の対象になった。

 観た作品の内容を覚えているわけではない。ほとんど忘れてしまった。心に響かなかった、といえば随分大層な人間に聞こえるが、当時は仕方がなかったように思う。

 物凄く疲れていた。一切の災厄が身に降り掛かってきたようだった。何もかもを放り投げて逃避したかった。嫌だった。身体が冷たかった。外の世界に出るのがなんだか怖くて恐ろしくて、手にかけたドアノブを回すことすらできないこともあった。

 でも不思議と、レンタルビデオ店には行けた。レンタルビデオ店だけは私を許容していた。そこには独特の雰囲気があった。自動ドアが開いた瞬間に鼻をつく、清潔とは言えない独特の臭い。他人の手垢だらけのビデオカバー同士が擦れる音。狭い通路を行き違うのは、まるで躾のなっていない喧しい子供とその若い母親(ヤンキーあがりだっただろう。そして多分シングル)やら、一体何日風呂に入ってないんだ?と思わせるほどの悪臭を放つ中年男性(大抵ダサいパーカーを着ている、何故だ。そして複数いる)やら、ワタシはどうしようもないクソガキですと顔に書いてある中高生(平日の昼間だ)やら。
 皆が皆人生を落伍していて、自分より下等な人間しかいない。というよりみんな仲良く最底辺のゴミ溜めにいるようだった。居心地が良かった。

 疲れ切って胸にモヤモヤと黒い霧が掛かると、嫌なことをすべて吐き出したくなった。「吐き出すといい」と言われて吐き出したら、嫌いなことばかりを喋るようになっていた。嫌いなことばかり喋り続けていたら、自分を丸ごと嫌いになっていった。不細工な顔、頭の悪さ、足の短さ、服のダサさ、心の汚さ、全部嫌いになった。思春期に抱くあやふやな厳しさがまだ消えておらず、一度捨てたと思った種が実はゴミ袋の小さな破れ目から庭先に零れ落ちていてまた芽を出したようだった。
 自分のことを嫌いになると、他人のことも嫌いになっていく。些細な言動や行動に酷く傷つき、言った人たちをとりあえず頭の中の腐った人間リストに容赦なくぶち込んでいった。生温い「気遣い」を垂れるヤツには冷笑を、ここぞとばかりに頭の悪い皮肉を吐くヤツには文字通り拳をくれてやった。みるみる私の評価は落ちていった。自分の外的評価が自分の内的評価と一致していった。
 自分の価値は変わるものだと知った。
 私が私の中で私を認識し、評価し、ゴミ屑以下だと蔑んだように、周囲の人間の中でも私は私として再構成されていった。元より評価とは変動を前提に行われるものだ。変わらなければ評価という行為に意味は無いのだろう。
 そのうち、道路ですれ違う人間全てが敵に見えるようになった。ああ、アイツは私を見て嘲笑っている、というふうに。 何がなんだかわからなくなった。

 訳がわからないまま私は映画を観るようになった。変わらないものが近くに欲しかったのだと思う。
 映画は変わらなかった。変わらないように思えた。一度観ればわざわざ見返すまでもなく変わらないことが明白だった。
 画面の中に私がいないことは最高だった。私の私に対する評価はそこには存在し得なかった。私の他人に対する評価もまたありえなかった。私の世界にいる人は誰も、四角い画面のどこにも出てきやしないのだから。

 キャラクターが出てきて、行動をして、場面が変わって、結果が生じて、終わる。
 キャラクターが出てきて、行動をして、場面が変わって、結果が生じて、終わる。
 キャラクターが出てきて、行動をして、場面が変わって、結果が生じて、終わる。
 キャラクターが出てきて、行動をして、場面が変わって、結果が生じて、終わる。

 寝ても覚めても観た。ただ観続けた。
死んだように画面を眺めていたものだから全くと言っていいほど内容が思い出せない。覚え切れないほど観たということしか覚えていない。
 お陰で人生を変える一本とやらに出くわすことは無かった。

 だが、死んだ私が数え切れないほど観た数多のシーンは、もしかすると瞳から脳みその最も奥へと潜り込み、ずっと身を潜めて待っていたのかも知れない。
 「まだかしら」と互いに囁きあいながら待っていたのかもしれない。

 ある時、映画を観ている最中に突然、大粒の涙が零れ落ちた。伝い零れ落ちるのを認識した。混乱して目をギュッと瞑った。鼻がぐじゅぐじゅして口で呼吸をした。耳がキーンとなった後、グワングワンと鳴り響いた。カラダ全身が熱くなってこらえきれないほどになった。大声で叫んでいた。喚いていた。「父さん、母さん、ごめん、ごめん、」と、泣いていた。許して欲しかったのだと思った。風に煽られ、簡単に崩れてしまった脆弱な自分を。失った悲しみから逃れ、堕落した自分を。惨めだったが、手には力が生まれていた。世界は自分を除いて動いていて、それは決して悪い意味ではなく、そもそも世界が正しく動くということはなく、世界も私という人間もいてもいなくても良い存在なのだと本当に思えたとき、私は自由になった。
 私にはきっと今まで背骨が二本あった。その一つを失ったけれど、もう一つが確かに私を支えはじめた。希望が腹の底から熱いうねりのように湧き上がってくるのを感じた。ドクドクと血が通っていた。
 自分の価値は変わるものだと真に知った。

 レンタルビデオ店にビデオを返しに行く。
 あの鼻をつく臭いは相変わらずだったが、店内は明るく、賑やかなBGMと共に子供たちの楽しそうな声があちらこちらから聞こえてきた。
 カウンターに並ぶと、横の棚の近くにヤンキーの母親がいた。笑顔で駆け寄ってきた子供を抱き締めていた。ワハハと大きく口を開けて笑った。ボロボロのジャージのポケットから飛び出たストラップは幸福の塊だった。
 また何か借りようと思い狭い通路に入ると、汚い中年がいた。もっとも、どの中年かはわからなかったが。私が道を譲ると、彼はニコリと微笑んで会釈した。特に理由もなく、彼が手に持っていたのと同じものを説明も読まずに借りることにした。
 会計を済ませて店を出ると、外は止むか止まないかというほどの小雨が僅かに降っていた。

 神様にお願いしたくなった。

 虹が見たい。

 止みかけた雨の酸い匂いがコンクリートに染み込み、幼い記憶を刺激する。

 虹の麓には幸福が埋まっているという。

 かつてここで私の右手を握った左手は大きく、少し湿っていて、でも温かかった。
 かつてここで私の左手を握った右手は華奢で白く、ひんやりと心地良かった。

神様。
どうか虹を見せてください。
麓を掘るなどとは言いません、そうでなくても今の私ならきっと。

 店で何度か見かけたことのある高校生と駐車場で擦れ違った。こんにちは、と挨拶をされた。平日の昼間に。

「あっ」

その子が私の後ろの空を見上げて目を丸くした。

 私は振り返る。

 そうしたら、私はきっと。

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