君と列車と僕
「今までで最高の気分になったのはどんなとき?」
「うーん、あえて挙げるなら」
由美は右手の中指で左目の下を鼻に向かって撫でる。ゆっくりと。彼女の考えるときの癖だ。
「そうね、8歳の誕生日パーティーかしら。あのときは家族みんなでお祝いしてくれたから」
「お父さんも、お母さんも、お兄さんも?」
「そう、あとフィガロも」
「そう。猫のフィガロもいたね」
「でもあの誕生日は本当は無かったのかもしれないわ」
「本当は無い?」
「ええ。全部私の頭の中の願望なのかも。父が他の女性といなくなることも、母がお酒に頼ることも、兄が私に冷たくなることも、大好きなフィガロが死んでしまうこともない世界。願望なのかも」
由美は横目でまた窓の外を見る。
「それが一番叶いやすいのが8歳の時だったのかもしれない、なんて考えるの」
8歳の時。
「8歳は一番叶いやすいの?」
「そうよ。誰にとっても8歳は特別な歳よ。もちろんあなたにとっても」
自分の8歳の頃を思い出そうとするが、漠然と幼少期の思い出をなぞることは出来ても、どれが「8歳の思い出」なのか分からない。
「そうかな」
「今は多分わからないと思う。でもね、きっとわかる時が来るわ。あれが特別な出来事だったんだ、って」
「それも僕の願望かもしれない?」
「そう、あなたの」
ガタンゴトン、と列車は走り続ける。
等間隔に通り過ぎていく電信柱を見ているとなんだか催眠術にかけられているように錯覚する。
8歳の頃を思い出すための、催眠術。
僕に効果はあるんだろうか。
由美はトンネルに入っても相変わらず横目で窓の外を見続けている。
薄暗い外から入り込む、淡いオレンジに照らされながら。
ゴオ、とトンネルの壁がすぐ近くを通り過ぎていく音。灰色の景色の中で他の乗客はぐっすりと眠り込んでいる。規則的なリズムで照らされる由美の右頬。きっとまだ由美は外を見ている……
「私、あの時に幸運をすべて使い果たしたのかもしれない」
四人で大きな誕生日ケーキの乗った食卓テーブルを囲んでいる。
ほら、息を吹きかけて、と由美の兄が急かす。
できるかな、と母が茶化す。
できるさ、と父が笑う。
トンネルと同じ薄暗い部屋の中で、8歳の由美の顔が淡いオレンジ色に照らされている……
フィガロは暖かいストーブの前で丸くなっている。
「ふっ、と蝋燭に息を吹きかけたあとの記憶がね、無いの」
「きっと本当の現実は違ったんだわ」
「本当はどうなの?」
「ふふ、わからない。思い出したくもない事なのかも」
「そうなのかもね」
この列車がずっと走り続けたら、と僕は思う。
ずっと走り続けたら、こうして由美の話をいつまでも聞けるのに。
「やっぱり8歳は特別なんだね」
「そう、特別。まだ性徴も無くて、何にもとらわれることない最後の歳なの。そして少しだけお兄さんやお姉さんになって、少しだけ物事がわかり始める最初の歳。」
「思い出してきたよ、僕も少しずつ」
僕はまた、思い出す。
何度も、思い出す。
「鉄棒が苦手だった。逆上がりができなくて、体育の時間がとても怖かったんだ。そして小学校の匂いが好きになり始めた頃だった。あの独特な匂い。黒板と、下駄箱と、汗と、給食のいろんなメニューが混じったような。気持ち悪い筈なのにどうして好きだったんだろう」
由美がクスクスと笑う。
「そんな匂いだっけ」
「そうだよ、確かね」
「それもあなたの願望なのかもよ」
「そうなのかな」
トンネルから抜け出た先には美しい海が広がっていた。
「きれい」
「夢だったんだ、こういうの」
「こういうの?」
「そう。君と二人で列車に乗って、そして窓から綺麗な海を眺めるのが。太陽はとっても明るくて、真っ白い雲がちょっとだけその周りに浮いてる。そんな贅沢な景色なのに、車内はしーんと静まり返っていて、乗客はみんな寝てるんだ。僕らだけ起きてて、海を見てる」
「ふふふ、細かいのね」
そりゃあ細かいよ。何度も何度も想像したんだ。
「じゃあ、今私達は8歳なのね」
「うん。8歳なのかも」
由美が嬉しそうに笑う。次第に周りが明るくぼやけていく。ああ、乗客が起きてしまう………
「こういう8歳でも良かったかもしれないわ」
由美がぽつりと言う。
僕もそう思う。
「ねえ、もう少しこのままでいよう」
僕がぽつりと言う。
由美の口元が僅かに動く。
ーーーなんて言ったんだろうーーー
本当はわかっているんだ。
由美はこの後いなくなってしまう。
僕の向かいの席を立って、何も言わずに別の車両に行ってしまう。
その先はわからない。何度も何度も繰り返し見た夢。
君と列車に乗って、一緒に海を眺めたかった。
君はもうどこにもいない。
僕は穏やかに、海を眺めている。
ガタンゴトン、と列車に揺られて。
僕はいつまでも、海を眺めている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?