或る怪奇譚

琳城朗という青年①

 永遠に思えるほど長く続いたトンネルの暗闇が終わるや、視界に飛び込んだのはまたも鈍色の曇り空であった。これまで飽きるほど単調な直線の続いた道程は漸くカーブに差し掛かり、窓を開け目を細めて外を見遣ると、ガタゴトと頑張る車輪の下から遥か向こうの景色に至るまで、ここ数日の雨で薄く湿った枕木の隊列と錆びついたレールが延々と続いている。
 もう秋に差し掛かるというのにジメジメと淀んだ空気は晴れやかさの欠片もなく、どうも吸った心地がしない。先頭車両のてっぺんから不格好に垂れ流される汚い煙も手伝い、最悪な気分になった。これほど気分を害しながらも慣れない機関車に乗らねばならないのは、偏にあの男に会うためである。

 奇妙な青年だった。かつての銀幕俳優の面影を思わせる上品な顔立ちに、一目見てわかる細く美しい手足の所作は優美ささえ感じさせたが、かと言って別段見繕いにこだわりを持っている風でもない。というより、酷くその手のことに無頓着なーー率直に言って、不潔なーー格好をしていた。ボサボサの髪、ブツブツと生える無精髭、よれたシャツの襟元、スラックスもその足元を覗けばいつ跳ねたかわからない泥がこびりついており、磨けば上等に見えそうな革靴は手入れを知らぬ主人に虐め抜かれていた。しかしそれら浮浪者を目一杯に握り固めたような特徴に暫く気づかなかったのも、やはりあの優雅な立ち振る舞いや生来の気品が彼の存在自体と共に醸し出されているからであった。
 また彼は足が悪いでもなく右手にステッキを常に携え、左手には煙草を吸うでもなく常にライターを握りしめていた。一度黙り込み真剣な表情でステッキの先を見つめ、恐らく彼にとって重要な事柄を思案したかと思えば、直後には何も考えていない呆けた顔で、その見繕いとは対照的に、不自然かつ丹念に研磨された左手のライターの表面をぼうっと見つめていることもしばしばだった。
 彼と友になってから見つけた特徴の一つとして、興味の対象を見つけると落ち着かない子どものようにチラチラとそちらを見るという癖があったが、それも最近の不躾な一般人によく観察されるような、なにか他人を劇場の見世物のようにじろじろ値踏みする見方とは程遠く、その独特の観察作法はなにか自分の中に眠る少年の悪戯心的共感をくすぐるのであって、私にとっては非常に好感が持てるものであった。
 齢まだ十七というその青年は名を琳城朗といった。


「やあ少佐、お久しぶり」
「ああ久しぶりだね、琳城」
ノックの後にドアを開けてくれた青年は琳城朗その人であった。
琳城はどうぞ、と言うと床に散らばった本の群れを器用に避けながら跳ねるように奥に引っ込んでしまった。ドアの向こうからコポコポと沸き立ち流れ出る湯気は珈琲の匂いがした。
「琳城、先日君のもとに送った新聞についてはもう読んだろうか」
私が彼のもとを訪れたのはまさにこのためである。彼が引っ込んだドアを開けると、琳城はやはり珈琲を淹れているところだった。
「うん読みました、非常に興味深いものだったよ。一面から少女連続奇怪殺人事件、失われた財産と古城跡、ゴドリナの冥鳥の謎、古代船の船底に見つかった目新しい死体……実に複雑怪奇だ。それに政治面が全くないのも面白い。変に政治に偏るよりこうやって珍妙怪奇な事件に没頭するほうがずっと健康的かもしれないね」と琳城は笑った。
「ああ、あんなものが一つくらいあったほうが愉快だ。新聞というのはどれも真面目で困るな。だが最後の頁の漫画はいただけないな、変に上手で紙全体との調和がない」と私が付け加えると琳城はその通り、と悪餓鬼の表情を作って珈琲片手にソファにどっかりと座った。これで零すことが無いのだから器用なものである。
 私も珈琲を手に、対面するソファに腰を下ろすことにした。しかし、本にぐるりと囲まれたソファというのは少々窮屈である。
「それで、少佐、本題はそこじゃないんでしょう」
「あ、ああ勿論」
物分りの良い青年は目の前の男が話したそうにそわそわしているのをよく見ていた。
「まず君はあの新聞を今までに見たことがあったか。あの新聞、といってもどこにも名前がないのだから読んだもなにもあるまいが」
「ありません。いや、似たようなのは過去に読んだことがあるかなあ。しかしあれはまたきっと違う、奇を衒った部分は共通するようだけれど。それにこの度のは誰が書いたかもわからないことだ、やっぱり初めてです」
「そうだろう、私もこの新聞は初めてだった。というより新聞と呼んで良いのかすらわからない。ただ内容の真偽はさておき形式はどうも新聞記事のようであったし、あれが何なのか分からない限りは新聞と呼ぼうじゃないか」
「ええ。ところで少佐、あの新聞はどこで手に入れたんです」
「それなんだよ琳城。あれは私が買ったものではない。それに道端で拾ったものでもないんだ。信じ難いのは承知だが、あれは君に送るより数日前の朝に私の部屋に突然現れたのだ」
「ええっ、ははは、馬鹿らしいや。じゃああれを書いたのは少佐だったんだな。手の込んだ悪戯でしたね」
やはり琳城といえどすんなりと信じてもらえるには至らなかったようである。
「いや、違うんだ、本当さ。私はあの新聞を書いてなどいないし、朝目覚めたときにテーブルの上にあった『それ』が、いつどこから私の部屋に入り込んだのかも分からないのだ。そして勿論その理由も。全てが謎のままなんだよ。それにただの悪戯だとして、私がそれだけの為に『あれ』に乗ると思うか」
琳城はぷっと吹き出して愉快そうに何度も頷いた。
「確かに貴方はそんな理由で嫌いな機関車など乗らない、うん分かった、信じます。へえ、それにしても朝起きたらテーブルの上に。メイドのではないのですか」
「彼女は趣味の悪い悪戯をするような人ではないんだ、生真面目で冗談も言わない部類の人間だよ。第一、その日彼女が私の家に来たのは午後からだったのだ。それに気を利かせて新聞を買ってくるような人でもない、残念なことだが」
「成程、それは不思議だ。でも誰かが置かない限りテーブルの上に突如現れる訳が無い」
そう言うと持っている珈琲を揺らし、僅かに波打つ黒い水面を眺め始めた。その目は空洞のように光が失せ、彼が思案している事を私に告げていた。
「まあそれはまだいい、その後の話です、続きがあるでしょう」
琳城にしては珍しく途中で考えるのを中断して私に続きを求めた。

「琳城、君もあの新聞の中に見慣れない広告を見つけたろう」
私はジャケットの内ポケットからある文字列の並んだ紙を取り出した。
「広告中に明らかに毛色の違うものが出現したものだから非常に気になってね。書き留めておいた」
紙には、

『 雹は打たれん、
 氷は砕かれん
 地は口を開き牛を呑み込み、
 また呑まれる男は二七三に及ぶ

 連絡されたし 』

と書かれている。
 琳城はそれを読むと頷き、複雑な表情を作ったかと思うと、立ち上がって
「珈琲のおかわりは如何」
と呟いた。

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