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星のあなた

 ギアをローからセカンドに入れ、クラッチを離しながらアクセルをそっと踏み込む。固定された右足の踵と自由な左足のコントラスト。足先を押し返すクラッチの反動が柔らかい。

――――あのときは助手席からあなたの横顔を眺めるだけだった。

「ドライブデートではね、相手が疲れたときにどんな人になるのかを見るのよ」
 いつか母から聞いた言葉を漠然と思い出しながら何を話そうかと思案していた私に、運転席の晴人さんが話しかける。
「美沙ちゃん、映画はよく観る?」
「ええと、たまに、かな」
 気恥ずかしさを誤魔化そうと、少しだけウインドウを開ける。入り込んだ風は初秋の香りがした。

 車は変わっても車内の匂いが変わらないのは、愛する人が変わらないから。シトラスミントの芳香剤と、どこからか現れる太陽の温もり。合図を送り、右に車線を変更する。ルームミラーに映りこんだ美沙子の目の横には幾らか皺がみえる。通り過ぎる街の景色の中に幾つか見覚えのない店があった。
 この街も変わってしまったわ。
 信号が青になり、交差点の少し内側を意識しながら右に曲がる。
「晴人さんはお気に入りの作品とかあるの?」
「そうだなぁ。ああ、あれはいいよ」

 道端に公衆電話。男はすぐそばに停車すると、道路向こうの彼女の家を確認しながら電話ボックスのドアを閉め、硬貨を入れる。

「とても不安そうな目をしているんだ、いや、あれは不安というよりも寂しさなのかもしれない」

 目の前を行き交う車のライトが彼の視界に入り、幾重もの光のラインを引く。車窓を隔て覗く無表情のドライバー。ポケットからありったけの硬貨を出して投入口に入れる。何枚も。

トゥルル、ルルル、ルル、ルルル……

 この音が止めばもう永遠に繋がらないような気がしたのだろう。
 突然音が途切れる。もしもし、という声。それは彼が求めていた人のものだった。
「もしもし、わかるかい、僕だよ、君に会いに来た」
 はっ、と受話器の向こうで息を飲んだのが伝わる。
 男の見つめる先にある窓はまるでスクリーンそのもののようだった。薄オレンジの照明が、カーテンに女性の姿を映し出している。
『私たち、年をとったわ……』
 男は押し黙る。女の影が動く様子はない。か細い声が震えている。いつかすぐ隣で聞いた、透き通るような声。

「凄いんだよ、あのシーンが。三、四回は巻き戻して観たんだけどね、飽きないんだ、心にのしかかってくる。心臓を鷲掴みにされた気分になって、観るたびに胸が苦しくなって、叫び出したくなる」

 透明なプラスチックでできた電話ボックスが次第に曇っていく。どこかで鳴るけたたましいクラクションと誰かの怒鳴り声、雨水枡から流れる轟音、野良猫の弱々しい鳴き声、全てが濁っている……こんな薄い板で世界と彼は隔絶されている。彼が見つめても人は気づかないのに、彼女だけは彼の存在を知っている。
 男は四角いスクリーンに彼女の姿を思い描いた。若かりし頃の姿を目の前の影に見た。美しいブロンドの髪、純真で曇りのない碧の眼。
 白く変わったであろう髪を、かつてあるはずも無かった皺を、みずみずしさを失ってしまった肌を、男はその影から取り除く。
『どうして、今になって……』
 影が俯いたのが見えた。

 

 美沙子の車は国道から脇に入り、看板を確認して展望台への道に入った。
 曲がりくねった坂道が思い出させるのは緊張したあなたの横顔。ハンドルを握る手に力がこもっているのがわかった。
「ゆっくりでいいからね」
「うん、ありがとう」
 滑らかに回転するタイヤが地面を撫でる。余分な力が抜け、心なしか固かった雰囲気に余裕が出て、あなたの頬が緩んだのを覚えてる。坂道は終わりそうになかったけれど、不思議と安心感が湧いてきて、シートに首をもたれたの。

 ようやく着いた夜の展望台に人影はなかった。遠くを見ると、街があると思しき場所が疎らに光っている。
 空は重厚な雲に覆われて今にも雨を吐き出しそうで、星どころか月さえもその姿を覗かせなかった。
「ごめんね、美沙ちゃん。こんなはずじゃなかったんだけど」
 がっかりした様子のあなたは、花びらを散らした茎のように萎びていた。
「ううん、とっても嬉しい。それに、お気に入りの映画の話も面白かった」
「本当に?それなら良かった」
「ふふ、ねえ見て、あの雲。ナイフを入れたら雨がたくさん零れ落ちそうよ」
 そうだね、やってみる?
 晴人は悪戯っぽく笑った。駐車場の周囲を囲う真新しい柵の近くまで行き、街を見下ろす。
 ぽつぽつと点在する街の光は二人をささやかに祝福しているようにも見えた。

 
 思っていた以上に疲れた。年のせいだろうか。しかしあれだけの距離の坂道を走るとなると誰でも疲れるだろう。
 車から出ると美沙子は思いきり体を伸ばした。
 運転中は集中していて気づかなかったが、見上げると満天の星空が広がっている。雲はひとつも見当たらなかった。
 こんな空の日にいないんだから。あなたって運のない人ね。それとも運がないのは私の方?
「こんな空にナイフを入れたら」
 思わず笑みがこぼれる。
 星がたくさん零れ落ちそうよ。

 
 あの日と同じで駐車場には誰もいないようだった。
 秋風をあびて美沙子は目を閉じる。少し肌寒い。
 美沙子は耳を澄ます。街から遠く、車も通らないこの場所には風以外の音がない。
 それでも足音を探した。

 晴人さん。
 惜しみなく私を愛してくれた人。
 どこまでも誠実に愛してくれた人。

 目を開けると奥に見える黒い鉄柵の方に進む。
――――もうこんなになってしまったのね。
 年が経ち劣化した柵を美沙子は懐かしそうに撫でた。
「眩しい……」
 遠くを見遣ると、あの日ささやかな祝福をくれた光が今はいっぱいに広がっている。眼前の光の海に美沙子は心を震わせ、そっと目を閉じた。

 右手を伸ばすと、人指し指で宝石の夜空を一筋なぞり、流れる星の軌道を描く。

 するとその跡から色彩豊かな星たちが次々と顔を出し、その光の粒はまるでシャワーのように、しかし初雪のようにどこか遠慮がちにふわふわと降ってきた。

 星々は地面に一度ぶつかっては、あるものは大きく跳ね、あるものは小さく跳ね、最後にぱっと輝き弾けては消えていく。無責任にその存在を瞳に焼き付けて。

 降り注ぐ星の中にひときわ眩しく輝くプラチナを見つけた。
――――あれはきっと晴人さんだわ。
 それはこちらに近づくにつれて次第に愛する人に姿を変えていく。右足をアスファルトの地面にそっと下ろすと、次に左足を。
「久しぶり。元気だった?」
 そして何事もなかったかのように私に尋ねた。
――――晴人さん。
「たくさんあったのよ、とってもたくさん」
 ぽろぽろと大粒の涙が頬を伝う。
 晴人はそれを見て懐かしそうに笑った。
「嬉しくて泣いているの、それとも悲しくて泣いているの」
「どっちも。嬉しくて、でも悲しくて」
 晴人は首を傾げてまた笑う。その変わらない動作にまた鼻の奥がツンとした。
「冷えてきたね、こっちにおいで」
 晴人は両腕を広げるとまた、おいで、と言った。
 温かい体温を感じようと自然に体が動いた。一歩、二歩、三歩、そして晴人の両腕の中へ。優しく包まれていく。
「たくさんあったのよ」
「うん」
「辛いことも、悲しいことも」
「……うん」
 セーターの編み目から洩れ出る体温を感じながら、美沙子はそっと耳を胸に押し当てる。
 ドクン、ドクンと脈打つ心臓音。
 今この瞬間、きっとあなたは生きている。
「ねえ見て」
 晴人に促され、美沙子は振り返ってまた眼下に広がる景色を眺める。今度は二人、寄り添いながら。
「こんなに大きくなったんだね」
 目を細めて街の群れを見ながら晴人が囁く。
「あれから二十年も経ったのよ」
 涙が落ちた。
「楽しいことはあった?好きな人は見つかった?結婚は?」
「ううん、あなたのおかげでずっと一人ぼっち。わかってるくせに」
 他の男なんてこれっぽっちも格好良く見えないんだから。
 晴人は悪戯っぽい笑みを浮かべて言う。
「それは困ったね」
「困ったわ、本当に」
 ふふ、と笑い声が漏れた。
「ねえ、美沙ちゃん」
 二歩、三歩と歩き出すと足を止めてそのまま柵に両肘を下ろした。
 晴人は向こうを向いたまま振り返ろうとしない。
「幸せになって。」
「たくさん辛いことや悲しいことがあったんだね、でも」
「これからは楽しいことも嬉しいこともたくさんあるから」

 だから、泣かないで。

 晴人が今にも振り向こうとしたその時、びゅうっ、と強い風が吹きつけて美沙子は思わず目を瞑った。

  
 びゅう、と風が鳴る。
 走馬灯のように、美沙子の両脇を無数の星が駆け抜ける。
 びゅう、と、また風が鳴る。
 星空の切れ目が塞がる。

 目をひらくと、美沙子は黒い鉄柵の前にぼうっと立ち尽くしていた。つい先ほどと変わらずに街の光が美沙子を見上げている。風は止み、辺りは静寂を取り戻していた。
 涙の跡が冷たい。
「私、年をとったわ……」
 どうして、今になって……。
 美沙子は古びた柵の表面をもう一度優しく撫でると、車に向かって歩き始めた。

 晴人さん。
 もしあの日、夜空にナイフを入れていたら、きっと零れたのは雨粒なんかじゃなくて……

 さよなら、と呟いてみる。

 コツ、コツ、と一人分の足音が乾ききったアスファルトに響く。


 車の走り去る音がした後、展望台は無機質な美しさを取り戻した。
 気まぐれな風はもう吹かない。

 不規則に点滅する切れかけの夜間照明だけが、その景色にわずかな生気を添えていた。

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