或る怪奇譚

琳城朗という青年③

「というのも、暗号広告を解釈するに、こうです。ハガルは打たれん、イサクは砕かれん、地は口を開き牛を呑み込み、呑まれる男は二七三に及ぶ。打たれん、砕かれんは恐らくそのままの消極的な意味でしょう。仮に転じて積極的な意味であれば、この暗号広告を出す理由があるとは考えにくいからです。
 そして後半から導かれる民数記の記述、つまりツェロフハドの相続から推し測るに、この『ハガル』と『イサク』はとある相続の問題に巻き込まれたようだ。それもコラの反逆を彷彿とさせる書き方が敢えて為されている。二人に危機が迫っているのでしょう。もしくは既にその最中にいるのかも知れません。
 ハガルは旧約聖書に出てくるアブラハムのはしためで、イサクはアブラハムの息子。であれば、この暗号の作り主は『ハガル』と『イサク』を心配する人物ということになる。それは旧約聖書で言うところのアブラハムか、それかハガルの息子且つイサクの異母兄弟であるイシュマエルでしょう。
 アブラハムの妻サラの立場の人である可能性は低いと思います。記述によればサラはイシュマエルの行動に対し腹を立てた、もしくは嘆いていたことを思わせる描写があり、我が子イサクを心配することはあっても、イシュマエルの母であるハガルを慮るような表現はあまりみられないからです。
 そしてその人は少佐、これを貴方に向けて直接且つ内密に送らざるを得なかった人物です、しかもこの手の暗号には素人でありながら、聖書の民数記を引用でき、且つフサルクを組み込む程度の教養の持ち主でもある。これらに関し異論はありますか」
「いや、無い。きっと君の言うとおりだろう」
「そこでです、ご友人に心当たりはあるかな」

 一体そんな人物がいただろうかと思いを巡らすが、全く思い当たらない。というより、普段の会話をする中で聖書を一々引用して教養の深さを誇示する友人などいるはずも無いし(そんな厭味な者は自分の性分からしてそもそも友人にはなれない)、ましてやフサルクなどはもっての外である。
「いや、残念ながら無い。これは非常に不味いことだ。それほどの深い教養を持つものであるとしたら……私の友人の中に自分の身分を隠して付き合ってきた者がいるという事かも知れぬ。しかしそうなると、一体誰がその人か皆目見当がつかない」
「友人の多さが仇となりましたね、少佐。もう貴方が送った新聞が僕の家に届いてから二日経つ。読んだその日に僕の元へ送った訳では無いでしょう。急いで探さなければならないことは確かだ」
「だがどうすればいい。頼む教えてくれ、琳城。私には全く見当がつかないのだ、本当に」
私の思考は提示された情報のあまりの多さとその重大さに統制を失い始めていた。
 琳城はにこりと微笑む。
「少佐、親しい友人の家族構成はご存知か」
「ああ、大体は把握していると思うが」
「それは良い、その中で父上が健在の方はどれほどいるか分かりますか」
「殆どがまだ健在であったはずだ」
「良いです、少佐!その人達はほぼ間違いなく今回の人物とは違う。ではそれに当てはまらない僅かな人の中で、母上と別居、又は死別しておられる方は何人ですか」
「恐らく四、五人まで減る筈だ」
「素晴らしい!いいですか少佐、その方々をよくよく思い浮かべてください、その中に異国の血が入った方は?」
「ああ、一人いる」
「決まりだ!その方の元へ急ぎましょう!」
「なに?ええと、つまり」
「話は後です、今はただ急がねばならない。それに少佐、貴方は今かなり混乱しているようだ、見たら分かる。まあ道中にでも話しましょう」


 そう言うと琳城は直ちに、あれが足りない、あれを準備せねばとブツブツ呟きながら忙しなく動き始めた。
 顔を洗い髭を剃り、身体を洗い上品な香りをつけ、髪を拭き櫛で梳き、一体この家のどこにあったか分からぬ上等のスーツを着て、ぴかぴかに磨かれた革靴を履いた銀幕俳優が私の前に現れたのは、それからたった十分も経たぬ内のことであった。


「さあ少佐、冒険の始まりです」
 俄に活気づいた美青年が放つオーラに当てられて、げんなりと俯く三十路の姿がそこにあった。


 ああ、これからまた私はあの忌々しい箱にーーー汚い煙を吐く鉄の箱に詰込まれるのである。
 ぎゅるぎゅるっと、つい数分程前に飲んだばかりの珈琲に胃を鷲掴みにされた気分になった。

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