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IHAGEE

IHAGEEって、ご存知ですか。

「イハゲー」と読みます。かつてドレスデンにあったカメラ製造会社です。「フィルム一眼レフ」といえば、その昔日本で優れたものが数多く製造されましたが、それよりも遥かに早い時期にこの一眼レフを開発・製造し始めた会社です。ある日、ふと思い立って、IHAGEEについて調べてみることにしました。最初は自分の好奇心を満足させる程度に考えていたのですが、インターネットで検索するとドイツ語や英語で書かれた様々な研究資料が見つかりました。それらを読んでいるうちに、ふと「せっかくだからブログにまとめておこう」という気になったのです。そんなこんなで、今日はIHAGEEの社史について書こうと思います。

IHAGEEという不思議な響きを持つ名称は、実は創業社であるオランダ人のJohan Steenbergenが1912年にドレスデンに創設したIndustrie- und Handelsgesellschaft(逐語訳すると「工業商事会社」)から導き出されたものです。ドイツ語の単語には綴りが長いものが多く、そのせいか名称類がよく省略されますが、この企業名を略するとIHG。このアルファベットをドイツ語読みすると「イー・ハー・ゲー」となるわけです。ちなみに日本では未だに愛用者が少なからずいるPentacon Six TL。このカメラを製造したVEB PentaconのPentaconはPentaprisma Contaxの略だとか(VEBはVolkseigener Betrieb、すなわち国営企業)。これらの名称の由来など考えたことがなかった私は、既にこの段階で資料を読むことに引き込まれてしまいました。

Steenbergenはもともとオランダの裕福な織物商の息子でしたが、ともかくカメラが大好きで、22歳の時、当時既にカメラ製造会社がいくつか軒を並べていたドレスデンにやってきて、木製カメラを製造していたHeinrich Errnemann AG(1889年創業)で働き始めます。きっと非常に優秀だったのでしょう。1908年にドレスデンで働き始め、その4年後には自らの会社を立ち上げているのですから。

さて、その1912年にSteenbergenが創業した、日本語に逐語訳すると妙な名前のIndustrie- und Handelsgesellschaftですが、新たなビジネス・パートナーを得て、1918年にIHAGEE Kamerawerk Steenbergen & Co.と社名を変更します。1922年から1923年にかけて、このIHAGEEは、ドレスデンの産業・工業区域(Dresden-Striessenと呼ばれるエリア)に新たな社屋を建設し移転します。この時の従業員数は既に500人を超えていたそうです。

ここで特記しておきべきは、1923年に天才技師Karl NüchterleinがIHAGEEに加わることです。19歳で入社した彼は、第二次大戦前にIHAGEEが製造したほとんどのカメラを設計したと言われています。1945年、当時出征していたNüchterleinは第二次戦争末期の混乱のなか行方不明になってしまいますが、彼の設計アイディアは戦後のIHAGEEのカメラ設計にも影響を与えたと推測されています。

大判・中判カメラに加え、1936年に35mmフィルムを使用する一眼レフKine Exaktaを製造するなど順調に業績を上げてきたIHAGEEですが、戦争の影がチラつくようになるとその周囲に次第に暗雲が立ち込めてくるようになります。1939年9月、ドイツのポーランド侵攻にともない第二次世界大戦が勃発。Johan Steenbergenが敵国オランダの出身であったため、「敵国財産の扱いに関する法令(die Behandlung feindlichen Vermögens)」に従い、1940年1月と5月の二度にわたり、IHAGEE経営権を含む彼の財産は没収されました。経営陣は会社組織をIHAGEE Kamerawerk Aktiengesellchaft(イハゲー・カメラ製造株式会社)とOffene Handelsgesellshcaft Steenbergen & co.(合名会社シュティーンベルゲン商会)の2つに編成し直します。私が読んだ資料によると、この組織再編成は「カメラ製造業を守るため」だと書かれていました。それ以外詳しく書かれていなかったので以下は私の推測ですが、創業者のオランダ姓「Steenbergen」をIHAGEEカメラ製造部門から切り離すことにより、その存続を図ったのかもしれません。妻がユダヤ系であったことから、Steenbergenは1942年になるとアメリカに亡命します。

大戦期間中、IHAGEEは「hwt」という暗号化された製造マークを付けた軍需製品を製造するようになりますが、1945年3月、ドレスデンを襲った連合軍による激しい爆撃によりその社屋は徹底的に破壊されてしまいます。この爆撃の結果は甚大で、ドレスデン市の実に85%以上が2日間で破壊されたと言われています。1945年5月8日、ドイツの降伏文書が批准され戦争は終結。IHAGEEはただちに損傷を免れた他企業の建物を間借りし、5月22日には事業再開します。しかし、迅速な復興を夢見たに違いないIHAGEEにとって不運だった点は、終戦後のドレスデンがソ連占領地域に含まれていたことです。やがてこの地域には、ソ連主導のもと社会主義を信奉するドイツ民主共和国(以下、東ドイツ)が成立します。そして「社会変革」の名のもと土地や工業は国有化されることになるからです。IHAGEEの戦後は、国有化との戦いから始まりました。

事業を再開して間もない1945年9月、早速、IHAGEEはSMAD(Sowjetische Militäradministration in Deutscnland、在独ソ連政府)強制管理下に置かれてしまいます。しかし、これに対し、連合国管理理事会オランダ軍事委員会(die Niderländische Militär-Mission beim Alliierten Kontrollrat)がオランダ資本であることを理由に抗議し、IHAGEEは「外交資本の企業」として、この時は何とかソ連の管理を免れます。1950年、ファインダー交換可能なExakta Varexを発売。この「交換可能なファインダー」は、大戦末期に行方不明になってしまったNüchterleinのアイディアによるものだと言われています。このカメラの製造・輸出により1952年から1955年にかけて、IHAGEEは次第にその経営を安定させていきました。また、 同時期にミラーシャッター*を使ったEXAの製造・発売も始まります。

1951年、イエナにあるVVB Optik(VVBはVereinigung Volkseigener Betriebe、国営企業連合の略)がIHAGEEの信託経営を引き受けることになりました。これにより、IHAGEEの企業名の末尾にi. V.(=in Vertretung in Vollmacht、委任により)が付記されます。私の手元の資料には「引き受けた」と簡単に書いてあるだけで、それがどのような経緯で起こったのか、なぜドレスデンではなくイエナの企業連合なのか、そしてIHAGEEにどのような影響をもたらしたのか全く書かれていません。しかし、これが東ドイツの国営企業連合がジワジワとIHAGEEの経営を侵食していくきっかけになったように思われます。

このあたりから第二次大戦後のドイツ企業を取り巻く環境に関して全く不案内な私には、にわかに難しくなってきます。資料の記述に沿って書き並べていくと、1960年、アメリカから帰国したSteenbergenが、フランクフルトにIHAGEE Kamerawerk Aktiengesellschaftを設立し、ドレスデンのIHAGEEに対し、本拠地移転・トレードマーク・特許・実用新案の権利などを要求するため裁判を起こすのです。こう書くと、同じく戦後東西ドイツに引き裂かれたCarl Zeissを思い起こすのですが、このフランクフルトのIHGEEはどうやら裁判を起こすために創設しただけのようで、Carl Zeiss Stuttgartのように実際にカメラやレンズを製造した形跡はありません。この裁判は実にその後9年間にわたって争われ、1972年に判決が下りた時には係争していた両者は既にどちらもこの世に存在しなかったというおかしな結末が待っていました。Steenbergenは1967年に死去し、ドレスデンのIHAGEEはVEB Pentaconに吸収されてしまっていたからです。

この頃、東ドイツの経済政策は次第に行き詰まりの様相を呈していました。産業構造の編成替えが試みられ、それまでの人民所有(=国有化)企業連合という形態から、70年代末までには研究から生産、販売までを一貫しておこなう、それぞれが20〜40の企業と従業員2万人以上を包括するコンビナートという形態に切り替えられたそうです。1970年1月2日、IHAGEEはこのコンビナートの一つであるVEB Pentacon "Objekt 18"に完全に吸収され、その姿を消しました。これはちょうどExaktaのVX5000とRTL1000、Exa Iaが製造されている頃にあたります。この頃のカメラにはPentaconの特徴ある塔のトレードマークが刻印されたものもあるそうです。

その後、ExaktaシリーズはVX5000が1972年に、RTL1000は1973年にその製造を終了します。それに対し、ExaシリーズはExa Iaを受け継いで1977年にExa Ib、1986年にExa Icという新しいモデルを製造し続けますが、1987年にこのIcも製造を終了し、これをもって「かつて存在したIHAGEE」を想起させるカメラは、新製品市場に姿を見せることがなくなりました。ベルリンの壁が崩壊する約2年前のことです。

なお、IHAGEE衰退の原因を東ドイツの経済構造のみに帰す見方が大勢を占めるなかで、Michael Sormsは『Die Exa-Baureihe des IHAGEE-Kamerawerkes Dresden』という論文において、その原因について以下の5点を挙げています。いずれもVEB Pentaconに吸収される以前のことで、つまり1960年代には既に企業体力がかなり落ちていたことが、VEB Pentaconによる吸収を容易にした可能性もあると考えているようです。

  1. 画期的な新しいモデルを打ち出せなかったこと
    ExaktaシリーズもExaシリーズも新機種を重ねて生産し続けたが、いずれの機種も小改良に留まり、市場や購入者を惹きつけることができる画期的な新しいモデルを生み出すことができなかった。

  2. 製造工程の技術革新についていけなかったこと
    1960年代に製造工程の効率化に迅速に対応できなかった(Sormsはその筆頭としてベルトコンベアーによるライン生産を挙げています)。また、日本企業との一眼レフをめぐる市場競争についていけなかった。

  3. 安定した経営陣に恵まれまかったこと
    例えば、1945年5月から1968年5月までの間に企業トップが15回も変わっている。

  4. 法的安定性が確保できなかったこと
    Steenbergenが起こした本拠地移転・トレードマーク・特許・実用新案などの権利を争う裁判が長期間続いた。

  5. 国家の支援が期待できなかったこと
    1970年にVEB Pentacon "Objekt 18"に吸収されるまで、実態はどうであれIHAGEEは「私企業」であり、東ドイツ政府はこの「私企業」を物理的・経済的に支援する意向を全く持っていなかった。

ところで、IHAGEEを飲み込んでしまったPentaconのトレードマークである塔、ちょっと調べてみたところ、どうやら未だにドレスデンに残っているようです。いつか実際に見に行ってみたいなあと思いました。Sormsが上述しているように、IHAGEEが衰退していった理由は、その所在が東ドイツ側にあったことだけによるものではありません。それでも、もし、IHAGEEがLeitzやFranke & Heideckeのように西ドイツ側に拠点を置いた企業だったとしたら、IHAGEEの名の下、もう少し長くカメラを作り続けることができたかもしれない。歴史に「もし」はないということは重々承知していますが、私はどうしてもそう考えずにはいられないのです。

Pentaconのあの特徴ある塔。私の目には、もしかしたらIHAGEEの墓石のように映るかもしれません。

参考文献)
IHAGEE : Its history until 1945 / Hugo D. Ruys, [1984?]
Tabellarische Übersicht zur Geschichte der Dresdner Fotoindustrie / Michael Sorms, 2009
Die IHAGEE : Unternehmensgeschichte zur Ausstellung "EXAKTA in aller Welt!" Das Dresdner Kamerawerk IHAGEE / Dr. Gerhard Jehmlich, 2012
Die Exa-Baureihe des IHAGEE-Kamerawerkes Dresden / Michael Sorms, 2015
Frühere Hersteller von Kamera- und Kinotechnik sowie Zulieferfirmen im Dresdner Raum / Michael Sorms, 2017
世界歴史体系 ドイツ史3 / 成瀬治ほか編, 山川出版社, 1997年

* Wikipedia(エクサクタ)には、Exaのシャッター機構は「ミラーシャッター」だと書かれていますが(閲覧:2019年7月19日)、私が参照したドイツの資料にはMetallklappen-Verschlussと書かれています。Metallは金属のメタル、klappenは一端が固定された板状のものがパタンと動く様子を表す動詞、Vereschlussとはシャッターのことです。

注)Wikipediaの項目「エクサクタ」や「イハゲー」の記述内容と上記参考文献の記述内容が異なる箇所もありましたが、特に注記した以外、すべて上記参考文献の記述内容を優先させました。

後記

この記事は2020年7月にブログに投稿したものです。その後私はその社史を調べるにとどまらず、EXA IIbというHAGEEが最末期に製造したカメラを購入し、それを持って本文中に書いたPentaconの塔を見に行きました。

現在、塔のある建物はTechnische Sammlungen Dresdenという名のもと博物館として公開されています。大人でも楽しめるなかなか楽しい博物館でしたので、この博物館の話はまた日を改めてnoteに投稿しようと思います。

(この記事は2020年7月19日にブログに投稿した記事に、後記を加えて転載したものです。)