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短編小説「あの日のコーヒーに口づけを」下

 三人目(妻・義姉に次ぐ)の女に出会ったのは、それからさほど経たない日だった。会社が主催するパーティで私は画家志望の学生と出会った。そのときは、パーティに出席するだけの名のある人物なのだと思って接していた。が、あとで偶然=ラッキーで会に紛れ込んだ学生で、まったくの未熟な人物だとわかった。

 彼女を愛したのは会ってすぐの夜だった。私は酔っていたし、彼女は業界やそこにわずかにでも関係する人間(私は見事にそれだった)に取り入ろうとしていたようだ。それで、そのあたりのホテルに入って一夜を共にした。妻には前もって遅くなるといっていたので問題はなかった。
 彼女は性豪と呼ぶに相応しいかもしれなかった。私を強烈に求めて全身を使って刺激してきて、ときどき私が耐えられないほどぶつかってきた。けれど私もその様子に奮起し、若い頃の情欲が復活してきていたので、彼女に全力で答えた。彼女の胸を揉み、へそにかけての上半身を何度も撫で、尻も叩いた。彼女は自分で身体を掻きむしったり髪の毛を逆撫でてくしゃくしゃにして乱れた。

 そんな風に、私たちは汗だくになりながら激しいスポーツを楽しんだ。それは義姉より高い頻度で行われた。

「ねえ、あなたって本当に元気ね。私をあんなに本気にさせた人っていないよ」
 彼女は歯に衣着せぬ具合に私たちの話をした。トアルコトラジャを飲みながらの会話だった。
「そう……かな」
「ええ、私たち相性がいいんだよ。あなたのアレが本当にすごくて……」
 周囲の視線が気になり、私は話を遮った。ママがお湯に昇ってきたロートを攪拌している頃だった。
「あ、あ、あー! 学校の方はどうなんだい? もうすぐ卒業なんだろう? 卒業制作ってのがあったりするのかな?」
「それは大丈夫。それに、おかげさまで就職先も見つかったし」
 ――じゃあ、私たちの関係も終わりかな。
 そう思って寂しく思ったが、彼女からは連絡が続いた。男として認めてくれた彼女にすっかり入れ込んでしまっていて、関係を崩すことは出来なかった。それに、次第に才能を開花していく若者の心を近くで感じることはとても素晴らしいことだった。これもまた、愛の形だった。

 しかし、どんなに私がこれらを愛だと説いたところで、相手によって不正であると判断されたら、それは糾弾される。

 ある日、イラストレーターになった元=学生が私を例の部屋に誘った。私も快諾してはいた。鍵をいつものように受け取り部屋に向かった。けれどそこで、妻からメールがあった。
「今夜はレストランで夕食にしましょう。場所は……」
 それはこの部屋から遠くない場所だった。けれど時間的にはそれほど余裕はなかった。だが今日は妻に断る理由も持ち合わせておらず、行けない理由を今さら見つけることはできなかった。

 部屋には珍しく元=学生のイラストレーターが先にいた。
 彼女はいつものようにストレートに私を求めてきた。行為はすぐに行われて、私はいつものように激しい彼女の求めに応じた。けれど時間はずっと気にしていた。なにせ、妻と会わなければならない時間は迫っていた。
 あと何分で彼女を感じさせ、何分後にクライマックスに至るべきか……そんなことを考えていた。枕元の時計を時折見ながら、彼女の乱れ方を気にした。しかし私はその緊張のあまり、いつもなら保っていたはずの自分の硬さを失ってしまった。ついに行為は終わってしまった。

「どうしたの? 今日は全然じゃない?」
 彼女のいい方は多分悪気はないのだろうが、棘があった。
「ごめん、体調が悪かったんだ。会う約束だったのに本当に悪い」
「そう、それは残念ね」

 彼女はあっさりと理解してくれた。私は二人の人間を裏切りながら、なんとかギリギリで助かったと思った。そして出来るだけ自然な具合に急いで出ようと着替えを始めた。けれど、なぜかネクタイが見当たらなかった。
「ネクタイ見なかった? おかしいな……」
「あれ、今日してた? 見てないかも」
 そんなはずあるものかと、私は部屋中を探した。冷蔵庫のなかまで探した。けれどどこにも見当たらなかった。
 仕方なく私はそのあたりの服屋で適当なものを探した。妻に気付かれた際には、ひどく汚してしまって朝のものは捨てたというつもりでいた。

 レストランに向かう前、私と妻はコーヒーショップで会う約束をしていた。妻は先に来ていて、トアルコトラジャを前に小さな本を手にしていた。テーブル席の彼女の前に座り、私もおなじコーヒーを注文した。そして久々にレストランに行けることをうれしく思っていると、告げた。
 だが彼女は不機嫌だった。

「あら、あなたネクタイが朝と違うんじゃない?」
 鋭い指摘だった。まさか冷め切った夫婦の間でそんな気づきが本当に起こるとは思わなかった。けれど、私は前もって用意していたいい訳で説明して「困った話だよ」と繰り返し言った。大事なネクタイだったのにな、でもせっかくだからいいものを買いたかったんだ……などと。
「そうなんだ」
 彼女はバッグの中から布きれを一つ取りだした。それは……間違いなく、なくしたはずのネクタイだった。
「あなた最近、他の人とお熱なんだそうね」
 私は凍り付いた。いったい何が起こったのかと考えた。それから私とあの元=学生がベッドに寝ている写真を数枚、数秒間だけテーブルに並べ、またしまった。
「言い訳するつもり、あります?」
 なんてことだろう、私はあの小娘にはめられたのだ。おそらく、いつの間にかスマートフォンをのぞき見していたのだろう。それで、私たちの関係を――なぜかはわからない――すべてバラしたのだ。

 私は今頃になって出されたトアルコトラジャのコーヒーカップをのぞき見た。ひどく絶望した男の顔が映っていた。
 コーヒーの味はいつもとはひどく違っていた。まるで泥水のように感じられた。
「まあ、レストランには行きましょうね。これが最後の晩餐になるかどうかは、あなた次第ですから」
 料理は砂やシュレッダーのゴミを噛むような感覚しかなかった。結局、私たちは離婚はしなかった。もちろんその後の夫婦生活は最悪なものになった。

 激しい嫉妬を抱えていた元=学生は私に結婚を求めた。彼女のことは愛していたし、世間に許されるだけずっと愛し続けたいと思っていた。けれど、彼女の要求には「それはできない」と答えた。どれだけ彼女が本気になっても、私は応じることは出来ない、と。そして彼女の画策はまったく成功しなかったことを告げた。
 彼女はひどく苛立った顔をして私を睨みつけてきた。そして突然、私の股間を思い切り蹴り上げて、「知らない!」といって去っていった。不意打ちの一発に、私はその場にうずくまり五分ほど吐き気・寒気と戦ったが、これでいいのだと思った。

 義姉とも話は付いた。関係はまだ発覚していなかったけれど、これ以上はみんなにとって取り返しのつかないことになるだろうと意見は一致した。そしてそれからは誰とも裏切った行為はしなくなった。

***

 今日もトアルコトラジャを飲んでいる。女たちの記憶がここには残っている。
「ママのトアルコトラジャは完璧だよ」
 それは過去に飲んだすべてのコーヒーが完璧だという意味ではなかった。私の記憶を余すところなく蘇らせ、それらの苦みを思い出させる、闇から光を引き出す素晴らしいものだということだ。

 私はママにいった。
「妻が死んだんです」
「そうですか……」
 ママは深入りしなかった。私の不貞をいつも遠くから見守っていたように、その日もそこに立っているだけだった。
 私は昔から抱えていたママへの思いを告白した。
「ママにはずっと前から、好意を抱いていたんだ」
「あらら、それはどうも」
「ねえ、ママともっと早くに出会えていたら、私たち二人の関係は違ったかもしれないね」
 ヘミングウェイの一節だった。ママはそれを鼻で笑った。
「コーヒーカップを覗いてみたら?」
 それがママの答えだった。

 私はトアルコトラジャのカップをのぞき込んで自分の顔を見た。白髪の広がった男が小さく揺れるコーヒーに映っていた。
「そんな年じゃないでしょう」
「いやあ、まったく」
 私は頭を叩いて愚かな自分を咎めた。
 もちろん、私だって今さら愛を築こうとしていたわけではない。すべてを知っているママとのちょっとした冗談だった。そう、きっと私は同情して欲しかったのだ。

 今日でこのカフェに出入りするのを最後にしようと思った。思い出はいつも闇のなかで、私は明日も生きていかなければならない。思い出す愛の日々は、もう終わっていたのだ。
「完璧なコーヒーだったよ」
 私はそういって席を立った。少しだけ名残惜しいコーヒーの香りに後ろ髪を引かれた。

 ミラン・クンデラに愛を捧げ、おわり。

文藝MAGAZINE文戯7巻頭企画「COLOR」掲載

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