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風・変曲点 第1話


慈悲あまねく慈悲深き御名において。

万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ。

最後の審判の日の主宰者に。

御恵みを下された人々の道、正しき道へと導きたまへ。神の怒りを受けし者、

また踏み迷える人々の道でなく。(コーラン第一章)



 = = =


 砂漠をまっすぐ突き抜ける道路の向こうに、夕日が沈もうとしている。とてつもなく大きく、燃え立つようにどこまでも紅い色の太陽だ。目の前の空を覆うずっしりと紅い巨大な塊が、目に見える速度でぐんぐんと、地平線の向こうに低く吸い込まれていく。

 限られた時間の中で存在する何ものかを見ると、そこには「生命」そのものがあるような気がして人はそこに変化する命の似姿を見る。

 4WDのハンドルを握りながらバックミラーをのぞけば、反射光で頬が赤く染まっているのが、サングラス越しにでもわかる。強い風に髪がなびく。埃をよけるために首に巻いたスカーフが音をたててはためく。風を切る音とボリュームいっぱいのラフマニノフの交響曲は妙に違和感なく溶け込んでいる。

 前にも後ろにも車は見えない。このまま永遠に誰にも出会わず、ただどこまでも走り続けることだけが、死ぬまでに与えられた唯一の課題であるような気にさえなってくる。

 加奈はアクセルをいっぱいに踏んだまま、静かに目を閉じた。体中、オレンジ色の光に包まれている。頬を吹き抜けていく風を感じた。ふーっとこのまま空へ飛んでしまいそうな錯覚にかられる。小さいときブランコに乗っていて、目を閉じたときの感じに似ている。これまでの世界、昨日までの世界から、鋭角的な刃で一瞬の内に切り離されたような感覚。そしてそのまま空へぽんと放り出されたような、そこで時間がそのまま止まってしまったような、そんな気分。

 のどがとても渇いていることに、はじめて気づいた。助手席に置いたバッグの中にあった水のボトルはずいぶん前に空になっている。バックシートには確かに予備の食料と水が入ったボストンバッグがあるはずだが、車を止めて取り出す気になれず、加奈はそのまま走り続けた。

 もうカイロを出てから6時間半になる。その間、ずっと高揚した気持ちのままで車を走らせ続けてきた。もしもここで人に出会ったら、彼女はきっとこの砂漠旅行を楽しむ旅行者に見えるだろう。

なぜ自分がここに来たかという経過を聞かれても、うまく説明できないだろう、と加奈は思う。恐らくは誰もが、冗談めいた作り話しだと思うだろうから。

 砂漠を突っ切る一本道を走り続けてきて、広大な砂漠以外に何もなかった景色に人家の明かりが見え出した。ようやく町らしきものに近づいてきたのだ。

景色の中には、いくつかの大きなモニュメントが見える。

 その土地のリーダーの絶対的な権力の象徴であり、また魔よけとしての意味のある像の数々。

 その中に一つ、黒い大きなジャッカルの像が見えた。それは加奈の働く市立美術館にあったモロッコの彫刻を思わせた。

 つい数日前まで毎日通っていた職場であるのに、今はもうまるで遠い昔のことにようにも思える。加奈が公務員として四年間も働き続けてきたその市立美術館は、市民競技場や動物園、植物園の建て並ぶ市の中心部に位置している。都市計画の一環として整えられた緑の美しい公園の一画にあり、人工の川沿いの、長い並木道を抜けたところに位置していた。

 美術館は市の教育委員会の運営で、一般事務の公務員として入った加奈の仕事は、庶務係で事務を取ることだった。美術学芸員の出張手当を計算したり、日々に必要な文具類、コピー用の紙類を調達したり、催し物に関する案内の手伝いをしたりと、仕事は単調なもので、それは必ずしも加奈が本当にしたいことではなかった。待遇がよいことと、女性も男性と同じように昇給昇進していけることを理由に、今は亡くなった父が勧めなければ考えもしなかった仕事だった。

 ただ、それでは自分は本当に何がしたいのかと考えることもなく、そのまま続けてきたのは彼女自身の責任であることは確かだ。けれど自分が本当に求めていることをして生きていくという希求の気持ちが、そこではいつしかとなくひゅるひゅると風化していくようだ。そんななまぬるい空気がそこにはあった

 ずっと働き続けてきた理由には、教育委員会といっても一般のお役所仕事ではなく、配属が美術館であったことも、幾分は影響していると思う。加奈は小さい頃から絵を描くことが好きだった。美術の成績はとてもよく、絵を描いて、子供の頃はいろいろな賞をもらった。絵を描きはじめれば、どんないやなことでも一瞬の内に消え失せた。まるで曇りガラスをさっと拭いたときのように、描こうとしているものが、明確な姿を現し、きらめき出す。そして、自分と、その対象となる物以外の一切を排除した結晶化された世界に浸ることができた

 けれどそれはもう遠い話しだ。いつのまにか、もうそんなことは忘れてしまって、せっかく美術館で働いていることを機会にまた絵を描いてみようとは思うこともなかった。一度忘れてしまうと、それはグラスの水に落とした角砂糖のように、瞬く間に輪郭を失っていった。

 ただ、美術館に展示された絵画や彫刻を見ることは好きで、仕事の合間や終わった後に、よく一人で見て歩いた。同じ作品であっても、改めてもう一度見てみると、以前には気づかなかったこと、色調の移り変わりやディテールの美しさを発見して心が動くことがしばしばあった。その一瞬に感じる針で胸を突かれたような感覚、その痛みが何を意味するのか、その頃は考えてみたことがなかった。美しいもの、感動するものを作り出す側ではなく、傍観者として観賞する側でしかないことへの無力感か苛立ちであると気がつくほどに、加奈は自分と向き合うことに慣れてはいなかった

 もう一度大学に行きなおして美術を勉強するか、あるいはデザインの専門学校に行ってみたいと思ったことはあった。できればグラフィックデザインかテキスタイルデザインのような仕事をしてみたいと思ったが、それも漠然としていた。そんな希望は父の、「そんな曖昧な考えで成功するはずはない。お前は世間知らずなだけだ」という一言でかき消された。

 加奈の兄は中学、高校と、ジャズにはまりっきりで、トリオを組んでピアノを弾いていた。夜には家にいたためしはなく、大学も中退してクラブで演奏する一方で、フリーターのような暮らしを長年続けていた。昔気質の父はそんな兄をどうしていいのかわからなかったのかもしれない。加奈には必要以上に厳しく教育し、「これからは書いたり読んだりできるだけでなく英語が話せなくてはだめだ」と小さい頃から英会話の教師をつけた。しかしそのくせ、社会で自らの力を試し、キャリアを積んで成功するような生き方ではなく、「安全で確実な」公務員の道を選ばせた。

 加奈もそんな父に反発するわけではなく、その勧めに素直に従った。自分に自信がなかったせいもある。ただ純粋に絵を描いてみたいと思ったが、ファインアートでどのように身をたてられるのか想像もつかず、デザインの仕事といっても、どうしてもこの分野でないといやだという強い気持ちも持てないまま、もやもやとした感情をもてあましていた。

 加奈の母の一番下の妹は、デザインの仕事をしていた。デザインといっても服飾の分野で、市内にある中堅どころのメーカーでチーフデザイナーとして働いていた。

 加奈が不確かな自分の気持ちについて少し話すと、「何たって親方日の丸の公務員が一番よ」と一笑した。

「加奈ちゃんは五時きっかりに仕事が終わるだろうけど、あたし達なんか、五時なんてそこからまたひと仕事よ」
 叔母は離婚をして小さな子供を育てていたので、加奈の公務員の待遇をむしろ羨ましがっているようだった。

「へーっ、有給年次休暇が一年目から二十四日もあるの? いいわねぇ。あたしなんて年に一週間も取れればいい方。ショーの前は土日なしの出勤よ。テキスタイルのデザイナーならそんなこともないかもしれないけど、テキスタイルはどこでも即戦力を問われるから、経験なしではむずかしいわね。経験をつけるには、ただ働きも同然で、それこそ丁稚奉公なみの覚悟が必要ね。グラフィックデザイナーはよく知らないけど、今どきプロダクションでも代理店でも大変よぉ。なんせ不況だから。犬みたいにこきつかわれる覚悟がなきゃあね」

 それから父と同じように「加奈ちゃんは世間知らずだから」とつけ加えた。

 いつの間にか、加奈はあれこれ考えないようになっていた。仕事が終わった後や昼休みに時折、館内の展示室へ足を運ぶだけだ。

 あの日も一日の仕事を終えた後、閉館後の美術館の展示室へ寄ってみた。

 同じ敷地内にある別館で、職員用の通用門から入った加奈は、そのまま階段を使って特別のイベントがある二階の展示室に入った。

 照明はもう消されていたが、高い天井近くの小さな窓からは、たそがれどきの柔らかな陽光が差し込み、薄暗い館内をより立体的に浮き上がらせていた。

 その日は新進の画家達のグループ展の催しで、ポーロックやオルガ・バートセーバ風の奇抜な抽象画が、大展示室の壁にいくつも展示されていた。

 その中のひとつが加奈の目を強く引いた、はじめそれは海かと思えたが、よく見ると砂漠の絵だった。深い蒼色の砂丘がキャンバスの三分の二を覆っている。砂の描く力強いうねりが、藍色の空と溶けあってダイナミックな躍動感を創り上げている。

 不思議な力に吸いつけられるように、加奈はその前に立って、いつまでもその絵を見つめ続けた。

 気がつけば、陽が翳ってあたりは薄暗くなっていた。そのままゆっくりと歩いていくと、聞こえるのは大理石の床に響く自分の靴音だけで、館内はしんと静まりかえっている。公務員は定刻が過ぎるとさっさと帰ってしまうので、ここにはもう誰もいない。

展示室の守衛員もこの時間はどこにいるのかわからない。

 こうして静まりかえった館内を歩くのは慣れたこととはいえ、その日はなぜかあまりよい気持ちがしなかった。

 大展示場から、次の中展示場へ向かう途中、何か黒い影を見たような気がした。けれどそれはモノトーンの彫刻の影だった。

 館内にはもう落日の後の暗さが降りてきている。出口に近い渡り廊下へ向かうため、急ぎ足になりかけた時、横切った中二階の展示場の奥の隅の近くで、ゆっくりと動く影が見えた。立ち止まって、加奈は肩から掛けたバッグをとっさに強く握った。のどのあたりがややこわばるのを感じた。前に走るか、後ろに逃げるか。

 けれども足は動かない。怖いからではなく、むしろ胸を貫くような鋭い好奇心にも似た気持ちであるとわかったのは後からのことで、その時は、ただその黒い人影が闇の中から浮き出て、そしてゆっくりと近づいてくるのを見守り続けた。

 低く響く声で、「待っていたんですよ」その声は言った。あたりはもう暗くなっていて、その男の顔はよくわからなかった。しかしその声は静かに響いたにもかかわらず、加奈に対してまったく選択の余地を与えない何かがあった。立ち止まったまま、加奈は声の方向を凝視続けた。ひんやりとした感触が、背中の中心から首へかけて這い上がってきた。硬直した加奈の前に、黒い影の中から現れ出てきた男は、見上げるほどの長身だ。黒っぽいシャツと裾の長いコートをまとっている。

 黙ったまま加奈はその男の顔を見つめた。誰なのか、と問おうとしたが、何故かためらわれた。

男の目はまっすぐに加奈を見ていた。

薄暗くてもわかる、その異様な目の光に怖気づく自分を励ますように、

「何のために、私を待っていたの」

 やっとのことで言葉を口にした。固くなった喉元から、乾いた声が出たのを、加奈は自分で聞いた。

 男は表情を変えず、加奈から目をはなさないまま、「あなたを迎えに来たのです」そう答えた。

「私を。迎えに」

 ゆっくりと、反芻することで、加奈はその言葉の意味を理解しようと努めた。けれどそれは無駄なことだった。

「この世界に別れを告げるということです」と男は言った。

思考の表層部分で把握できることと深層部分で理解できることが、ゆっくりと分離していく異様な気持ちで、加奈は男の顔を見つめたまま、
「どこへ」
とだけ言った。

 男は無言で加奈の顔を見た。その目は加奈の質問はもうすでに答えのわかっている問いであることを示唆していた。加奈もそれをとっさに感じ取った。苦痛のような表情が一瞬、彼女の顔に影を作った。たちまちのうちに、理不尽な力で、男のその言葉の意味が理解できた。

「これは、夢でしょう?」

 途切れ途切れに、やっと言葉を組み立てた。

「たいていの人がそうです。死の準備をすることはやさしいことではありません」

 男は表情を変えることなく言った。まるでこれまで同じ質問に何千回となく答えてきたような事務的で冷淡な声だった。

「待って。あなたは一体誰なの?」

 けれども本能的に、加奈はすでにそれが誰なのか悟っていた。男の目も、加奈がもう知っていることを確認しているように見えた。

 その目を感じて、加奈はたじろいだ。

「待ってください。一体どれくらいの時間が、残っているの?」

「さあ。短いといえば短い、永いといえば永いかもしれません」と男は答えた。

そのとき遠くで声が聞こえた。

「加奈ちゃん」

渡り廊下の奥に立って加奈を呼んでいるのは美術館の守衛の川西さんだった。

「どうしたんだい、一人で。大丈夫かい?」

そう言いながら、川西さんは手に持っていた懐中電灯をこちらへ向けるようにした。

もう一度、加奈は目の前の男を見た。

川西さんには、見えないのだ。

 そう思うと、突然、足元から冷たくこわばった感触が胸元にかけて感電するように走りぬけた。

 逃げようとしたが、足が床からはえた木の根のように動かない。こわい夢を見ている時のように、叫ぼうとしても声が出ない。夢、これは夢だ。そう思おうとして、目を固く閉じた。体中で動かすことができるのは、たったそれだけのようだった。

「加奈ちゃん」

走り寄ってきた川西さんの声が、今度はすぐ近くで、聞こえた。

「川西さん」

 やっとのことで、そう言って、そばに立った川西さんの紺色の守衛服と帽子からはみ出た白髪のまじりの髪を見た。

視線を戻すと、目の前の男は消えていた。

「大丈夫かい?いったい、どうしたの?」

 もう一度、川西さんがたずねた。そして、とても心配そうに、加奈の顔をのぞき込んだ。

「歩いていたら、急に気分が悪くなったんです。もう帰ります」

額をぬぐいながら、やっとのことで答える。

 館内の守衛の責任者というよりはむしろ、面倒見のいい「おっちゃん」と、皆から慕われている川西さんは、「出口まで送っていくよ。それとも守衛室でしばらく横になって行く?」と、真摯に心配した顔だ。

 職員通用門までついて来てくれた川西さんには礼を言ったのかもどうかもわからない。それほど加奈は動揺していた。

 美術館を出ると、地下鉄の駅までのまでの並木通りの道を、脇目もふらずに歩いた。体を前へ進める事だけに意識しないと、自分の体がほどけて消えてしまいそうな気持ちさえした。

 一陣の風が吹いて、銀杏の木の葉裏のそよぎが聞こえた。夢ではない、そう思った。

 意識がいつもよりももっと透明で、鋭角的であるのが自分でもわかる。例えばそれは、地下鉄の駅の構内で、すべての音という音が手に取るようにわかることからも感じられた。子供の泣き声。女子学生のふざけ合う笑い声。構内のアナウンス。誰かが空き缶を屑箱に投げ込む音。それらの音の一つひとつが、鮮明に耳に響いて、今の自分の思考、ここで考えなければならないことという意味である思考と平行して、どこまでも取りとめなく床いっぱいにまかれたビーズ玉のように感じられた。

 地下鉄を降りた後、加奈はまっすぐ自分の住むマンションに向かって歩いた。

 マンションに帰ると、手紙が一通、郵便受けに入っていた。差出名は見覚えのある病院の名前だった。

 自分の部屋に戻り、ペーパーナイフを使って封筒を開けた。取り出した書面の文面を読むと、検査の結果について面談の必要があるので連絡するようにとの内容だった。封筒にはその病院の診察時間帯が印刷されてあり、火曜日の今日は夜間診療のある日だった。

 加奈は携帯電話をバッグから取り出して病院に電話をした。受付の女性に名前と手紙の内容を告げると、少しの間待たされ、やがて、林先生が診療にあたっているが今からすぐ来れるかと聞かれた。

これまでに何度かたずねたことのあるその病院はいつも混んでいて、通常は急病であってもなかなかすぐに診てもらえないことが多かった。
 行きます、と加奈は答えて、電話を切った。

 その病院はバスで停留所二つ分離れたところにあった。バスを降りて、停留所のすぐ前に病院は建っていた。十五階建ての灰色の建物で、加奈はその中に入り、エレベーターで三階へ上がった。エレベーターを降りるとすぐに受付カウンターが見える。脳外科の受付の窓口とその前の待合所になった場所だけに蛍光灯の灯りがともっていたが、その向こうに長く続く廊下に照明は灯っておらず、消毒のにおいとともに陰気な暗さを漂わせていた。

 待合所になった場所には、小学生くらいの子供連れの中年の夫人が一人座っていた。目を伏せてうつむいたままじっとしている。連れの子供が加奈をじっと見つめた。その視線は居心地を悪くさせるものがあったが、加奈は努めて無視して、受付に向かって歩いた。

 受付で名前を言うと、驚いたことにすぐ診察室に通された。診察室は大きく明るく、その向こうの看護婦の部屋からラジオのDJの声が低く聞こえていていた。 

 医者のデスクの前の小さな丸いすにかけるように、看護婦に言われた。看護婦はそこで加奈の脈と血圧をはかり、加奈の名前の入ったフォルダーからカルテを取り出して、そこに書き込むと、それを医者のデスクの上に置いて、部屋を出て行った。

 そこで座って待っていると、しばらくして今度は白衣を着た女医が部屋に入って来て、加奈の目の前に座った。

 加奈は黙ったまま、手に持っていた病院からの手紙を差し出した。医師はその手紙を手にとって読むと、今度は加奈のカルテから何か書類を取り出して読んだり書きこんだりして、ずいぶん長い間時間をかけていた。

やがて顔をあげると、

「頭痛と手足の痺れで来院したのですね。その後、どうですか。痺れはまだありますか?」

 幾分事務的にたずねた。

「左手に少しまだ痺れがあります」

 加奈はそう答えて、女医のシニョンにまとめあげた髪とその知的そうに見える広い額を見た。

 医者はさらに何かをカルテに書き込んだ。

「検査の結果はどうだったのでしょうか」

と、加奈が問い返した。

「これが先週のMRIの画像。ほら、ここに1センチ強の白い影が見えるでしょう?これが気になります。血液検査のマーカーは断定的ではないので、さらに詳しい検査をするか、それとももっと確かなのはバイオプシーです。早いほうがいいですね。中枢神経のリンパ腫だといけないので。これまでの結果では断定できないようですから、すぐ入院して次の検査へ移りましょう。今日はもう事務所は閉まっているから、明日の朝、一番に連絡をして入院の手続きを取ってください」

女医はデスクの上のカレンダーに目をやると、またカルテをめくって何かを書き添えた。一呼吸して、加奈は医師のその端正で冷静な横顔を見た。

「それは癌かもしれないということでしょうか」

 女医は、今度は、加奈の目をまっすぐ見た。「その通りです」そう答えた。

 加奈は視線をゆっくりと膝に落とした。

「そうですか」

 その声はこわばって聞こえたが、特に何の感情も湧いてこなかった。

「まだ何も決まったことではないから」

 これまでとは違った表情で気を取り直すように患者の顔をのぞき込むと、女医は加奈の膝に片手を置いて、「今日はこのまま帰って、ゆっくり休んで、ね。。。」あたたかさのこもるような声でそう言った。


 = 2 =

 加奈はバスに乗っていた。帰りのバスの中から、商店街の明るく輝くネオンが見えた。少し小雨が降り始めていて、小走りに駆けていく買い物帰りのカップルが見えた。いったいどうしていいのかわからない動揺している自分とは裏腹に、そんな自分を、はるか頭上のかなたから俯瞰しているもう一人の自分があった。そのもう一人の自分は不思議なほど冷静に感じられた。まるで水が流れていくのを静かな気持ちで眺めているような、そんなもう一人の自分が、加奈を気が狂うことから救っているように思えた。

 
 私は死を恐れているのだろうか。加奈は膝の上の自分の掌を見つめた。

「もしも恐れているとしたら」自分にそう問いかけてみる。

それは「死」だろうか、それとも本当に「生きて」はいないことだろうか。

 死はどの人間にも訪れる。けれども自分はこれまで、人ごとのように考えてきた。これまで人の命のはかなさを知る場面に遭遇したことは何度かあるものの、驚いたり悲しんだりしながら、けれど決してそれを自分のこととして心に留めようとしなかったのだ。

 ただ生きることと、「よく生きること」は違う。今の自分にとって、よく生きることはどんな意味を持つのか、それはまだわからない。ただ、「死」に関しては、自分の心に従い、魂が望む方法で旅立たねばならない。「死に方」だけは、決して他人に委ねてはならないのだ。

 そういえば、守衛の川西さんが、同じようなことを話してくれたことがあった。あれは確か美術館の職員の忘年会のような席だったと思う。川西さんは、アルコール依存症の経歴があって、これまでに何度もリハビリセンターのような収容所を行ったり来たりしてきたと、人づてに聞いた。妻も子も、失って一人で暮らしていることも。

 その日も宴会の場で、川西さんは、杯に酒をつぐようなまねはせず、コップ一杯、なみなみとつがれた酒を、まるで水を飲む用に、一息でクイッと飲み干した。まったく酔っている気配は無い。近くに同席していた加奈を見ると、親しげな微笑みを目に浮かべて伽奈に酒をすすめた。

「加奈ちゃん、生きてるかい?」

 酒をつぎながら軽い口調で言う。

「川西さん、酔ってます?」笑って返すと、急に真面目な顔をした。

「300年前、俺はいなかったんだよ。300年後にも死んでしまって、もういない。みんなそうなんだ。俺たちはみんなそうなんだ」

 特に悲観的な風でもなく、訥々と呟くような響き。

「300年前に自分がいなかったからって、悲しむ人間なんかいない。それは死んでたのと同じことだ。300年後に生きてないことを泣いて悲しんでも仕方ない。かって存在しなかったように、もう存在していないということだからね」

「川西さんは、死ぬことが怖くないのですか」

「大きな力で決められているその運命を、自分が選んだ運命としてしまえばいい。でもそれはやるだけのことをやってからだな」

遠い目をしてそう言う。それまでは見たこともないような一面だった。


 バスから降りると、加奈は携帯電話を取り出して、俊雄に電話をした。もう仕事はひけているころだろうと思った。三度ベルがなって、俊雄が出た。

「私」と言うと、電話の向こうで、「おおぅ」とのんびりした声が返ってきた。

 どこかの居酒屋にいるらしく、笑い声や音楽、食器のあたる音が背後に聞こえる。

「私ね、砂漠に行こうと思うの」

しばらく返答がない。

「いっしょに、行く?」

そう言うと、「う~ん」という答えが返ってきた。

 加奈は、俊雄の時折見せる純粋な子供のような顔を思い浮かべた。背の高い男で、大きな体にその童顔は不似合いで、それが魅力でもあった。二人は高校の同級生で、今も友達同士のつきあいが続いている。よく気が合うし、話しも合う。これまで何度も友達以上になるチャンスがあったにもかかわらず、今ひとつ進展しないのは何故だろう、と時々、加奈は思う。二人のことを知る友人たちも、加奈にいろいろなおせっかいなアドバイスをくれるが、加奈にはどうもそれがタイミングのせいであるような気がする。人生のイベントを左右するのはタイミングだ。

 俊雄は子供の頃からサッカーをしていて、大手の旅行代理店に勤める今も、会社のチームに入っている。人好きのする彼は後輩をまとめていくのがうまい。サッカー少年をそのまま大きくしたようだ、と時々加奈は思う。

「砂漠、砂漠、月の砂漠」

少し酔っているのか、反応がにぶい。

「エジプトかスーダンに近い場所にある砂漠の中のオアシスに近い町の名前、アクラムだった?ほら、前に言ってた」

「オアシス?」

「うん、確かリビアに近いエジプトの」

電話の向こうでしばらく考えている様子があった。

それから、「おぉー、アクラム、そうだ、アクラムだ」と思い出したように言った。

「あまりポピュラーな場所じゃないぞ」と、彼は言った。

「いっしょに行く?」

もう一度だけ、たずねる。

「俺か、俺、金ないからなー」

 俺、金ないから、というのが俊雄の口癖だった。本当にお金がないから口癖になるのか、口癖だからお金がいつもないのか、と思ったりする。それでも最後には、明日もう一度電話しろと言ってくれた。何とか手配してみるから、そう言って電話を切った。 

家に帰ってから、加奈は神戸の実家の母に電話をした。

「ああ、加奈」

母はいつ電話をしても、まるで何年ぶりかでやっと声が聞けた、というような感慨深い声で加奈の名を呼ぶ。

「お母さん、どうしてるの?」

「どうって、相変わらずやけどねぇ」

そして母は、今日は早い夕食を済ませて、これからゆっくり風呂に入るところだと話した。

兄のことをたずねると、

「今日は仕事に行ってるよ。臨時雇いか何か知らんけど、いったいあの子はどうする気やろうねえ」

電話の向こうでため息をつく。

「そうそう、栗かぼちゃのいいのがあったから、炊いてみたんやけど。あんた子供の頃好きやったねぇ。そうそう、お隣の野津さんからもらった、おいしいお茶があったから、昨日そっちへ送っといたよ」

のんびりとした母の声を聞いている内に、涙がこみ上げてきた。

まばたきをすると、熱く頬を濡らしながら、膝へとこぼれていった。

(第二話へ続く)


 

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