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帰り道に、エンドロールを流すということ

「ばいばい」の余韻を上書きせずに味わうこと


「今日はありがとう!じゃ、またね〜」
飲みに行った友達と駅で解散する瞬間。誰の日常にもよくある光景。

僕も友達とよく飲みに行くし、分かれる瞬間はすごく満たされていてそれでいて少し寂しい、エモーショナルな瞬間だ。
お別れして駅のホームへ向かう道。あるいはホームで別れて乗り込んだ電車の中。

僕はこの時、この夜の余韻がまだ自分の中に残っている間、スマホとか本をなるべく見ないようにしている。しばらくボケーっとしながら、余韻を味わう。

スマホだったり本だったり、何か新しい刺激を入れることは、その瞬間まで感じていた何かを別の何かで上書きすることだ。
緊急の連絡だったりどうしても気になる日本代表戦の結果とか、すぐにでも何かを確認したい瞬間はある。

でも、そういう時以外僕は新しい刺激で余韻を上書きするのがいやなのだ。しばらくは何の刺激も見ずに味わっていたいと思う。別に振り返りをしたり、真面目に何かを考える必要なんて無いのだけれど、その瞬間の自分が体験した1回きりの体験から感じる何かは、その時を逃したらきっと2度と感じることはできないと思っているから。

言葉にならなくたって、なんとなく癒やされたり、優しい気持ちになったり、自分も頑張ろう!と思ったり。そういう気持ちが消えていって、思い出せなくなってしまう前に、自分の中で味わっていたい。

凄く美味しい料理を食べているときに、すぐにはビールを飲みたくないときの気持ちにも似ているかもしれない。料理の味が口の中に染み渡るまで、少し時間をかけたい。そんな気持ちだ。

エンドロールは、非日常と日常の狭間に

この感覚は、映画を観た後にエンドロールを最後まで観てから帰る時の感覚にも似ているかもしれない。映画を観て感じたこと、うまく言葉にできずにモヤモヤしていることとか、そういうことを考える余白をエンドールはくれる。

映画のラストシーンが終わってすぐに劇場が明るくなったら、すぐに友達と話したり、スマホを見たりしてしまうだろう。その前に、自分の中で味わっておいて、いつかきっと熟成するはずの何かを逃さず自分の中に残しておくこと。

そのための時間・考えること・感じることしかできない時間を強制してくれる価値が、エンドロールにはある。

友達と解散した後でなくても、何か漫画を読み終わった後だったり、たまたま立ち寄った雑貨屋さんの店長が良い人だったり、何か自分の心まで届くような出来事の後は、別の刺激を入れずにしばらく味わっていたいと思う。

自分の心を揺さぶった何かを逃さずに自分の中で味わい感じておくために、帰り道にはエンドロールを自分の中に。そんな風に思う。


旅の終わりの余韻

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