教養のための読書なんて必要ない。教養は知識ではないのだから
「自分には教養がない。教養をつけよう」
「教養があるとなんだかカッコいい、ないと恥をかきそう」
「なんかエリートっぽい」
そんな文脈で語られることの多い教養。
どことなく、教養をつけることが義務になってしまっている。
教養をつけるために読書をしなきゃ!と思ってる人もいるのではないだろうか。僕もその一人かもしれない。
正確な知識をつけなきゃ!理解しなきゃ!と暗記前提で読書してしまったりする。
そうなると楽しくないので、結果読破せずに途中で積読行きになり、教養らしきものも身につかない。
このループにはまりこんでいた自分が最近救われた言葉があった。紹介させてほしい。
教養は知識ではない
落合陽一と東浩紀の対談で、「教養って知識じゃないんですよ」という言葉があった。
例えば京都の街を歩いていて、「このお寺、平安時代の建築っぽいね!」
「たしかに!」みたいな即興の会話ができることが、教養があるということなのだと東は言う。
このとき、「平安時代の建築とはどのようなものか?」といった正確な定義や、平安時代の正確な年代は問題とされない。
大事なのは、「一緒に盛り上がって楽しめるか」ということであり
「なんかそれっぽいことを言えるし理解できる」くらいで良いのだという。
教養とはグルーヴ感を生み出せる素養である
この感覚を落合は「即興で音楽を演奏するグルーヴ感」と表現していた。
この言葉はかなりしっくり来るし、素敵だと思う。
その音楽が正しいかとかどうでもいいし、うまい下手なんて良くて、みんなで楽しくカラオケで合唱できることの方が素敵だよね、みたいな感覚に近いのかもしれない。
例えば漫画に置き換えてみる。
呪術廻戦のセリフの一字一句を覚えている必要もないし、御三家と呪術総監部の利害関係をちゃんと説明できる読者はほとんどいないのではないだろうか(自分も無理)。あんなものは雰囲気で良いのだ。
それよりも、適当に友達と「領域展開!」とか言いながら盛り上がれるほうが大事だ。
身につけるのではなく楽しめるかどうか
ここに重点を置くなら、教養を身につけるために読書をする必要なんてないだろう。
例えば、『1日1ページ読むだけで教養が身につく本』みたいなものを無理して読まなくても良いはずだ。
漫画に例えるなら、『1日1ページ読むだけで人気の漫画が分かる本』を読んでいるような状態に近い。
呪術廻戦ってこういうあらすじなんですよ
ワンピースってこんな漫画なんですよ
と1日1作品インプットしていっても何の意味もないことには直感的に納得できるだろう。
それよりも、実際に漫画をサウナの休憩スペースで読んでみたり、アマプラで視聴して見ることのほうが楽しいのではないだろうか(この「楽しい」という感覚が大事で、みんなで盛り上がるためには自分が楽しんでいることが何より大切だと思う)
教養を身に着けよう、として読むときに起きていることは
知識として体得しようとしている状態であり
それは、内容を人に説明しないと!と思ってワンピースを読んでいる状態に近い。
そんなことが必要ないことは実体験からも納得行く部分があると思う。
自分が楽しみながら読んで、誰かと一緒に適当に盛り上がるでいいのだし、ましてや誰かに採点されることなんてない。
むしろ一緒に盛り上がる中で原作派とアニメ派の楽しむ部分が違ったり、別の面白い漫画を教え合えたりするものだろう。
もう少し真面目な読書にしたって、別に読むものなんて何でも良くて、面白がって盛り上がれれば何でもいいはずだ。
僕は、「教養とは知識ではなくグルーヴ感を生む素養である」
と言ってもらえたときすごく楽になったし、純粋に自分の好きなジャンルや知らなかったけど何かピンときたものにもっと素直になろうと思うことができた。
明日もみんなとグルーヴ感を感じながら、生きるぞ!!
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