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あのスティークを切り開き 第5章「母、襲来。」

 朝目を覚ますと、家の中がやけに静かだった。朝のニュース番組の声が聞こえない。その分、窓の外の鳥のさえずりとか、車の行き交う音、小学生のさざめきがよく聞こえる。いつもなら一階から香ってくるみそ汁の匂いも、今日はしない。
「ばあちゃん?」
そこそこ大きめの声で呼びかけたが、いつもの鷹揚な「はぁい」は返ってこない。
まさか、まさかね、と思いながら、スマホを握りしめて階下へ降り、もう一度
「ばあちゃん!」
 と強めに呼び掛ける。俺の声が消えると、相変わらず家の中は無音になる、いや、時計の音、冷蔵庫の音、窓の外の喧騒は聞こえ、人の声だけ、そして包丁のトントンという音だけがない。
 ごみ捨てに行ってるだけだ、きっとそうだと思いながら、廊下を足早に歩く。気が付いたら眉間に皺が寄っていた。リビングの扉を開ける。

 電話台の前にうずくまるばあちゃんが居た。
「ばあちゃん!」
 駆け寄って肩に触れると、微かに震え、しっかりと熱を持っていて、身体中の力が抜けた。でも、もしかして心臓でも苦しくなって倒れ込んでいるのだとしたら、と、
「ばあちゃん、大丈夫?身体どうかした?」
 と問いかけた。ばあちゃんは首を横に振って絞り出した。
「アケミさん……亡くなったって。急に。昨夜倒れて…」

 毎日のようにうちのカフェに来て、冬はお孫さんのために、赤いセーターを編んでいたアケミさん。編み方は大雑把だけど、それはおおらかさの裏返しで、みんなのムードメーカーだった。ばあちゃんも、特に仲良くしていたし、何より60代中盤。お孫さんがいるから立場上おばあちゃんだけど、見た目はまだまだ、おばあちゃんと呼ぶのは失礼なくらい、若々しい人だった。

「ごめんね、心配させて、もう大丈夫よ」
「全然大丈夫じゃなさそうだよ、座ってて、お茶淹れるから」
 もうずいぶん暑くなってきたけど、冷たい飲み物で身体を冷やさせるわけにはいかない。朝ごはんにおにぎりでも作ろうか、と言ったけど、食欲がないからと断られた。

「とりあえず、お店に臨時休業の貼り紙してくる」
 どうせお友達は皆来ないだろうけれど、念のため。と思ったが、憔悴しきったばあちゃんを一人にしていいのだろうか。迷った末、スマホをポケットから取り出しLINEを打った。

「たっちゃんさん、おはよう。朝からゴメン」
「常連さんのアケミさん覚えてる?昨晩急に亡くなったらしくて、うち今日臨時休業する」
「お店に来たら、うちの店のドアに、〝都合により臨時休業いたします〟って貼り紙しておいてくれないかな」

すぐに電話があった。LINEの通知で起き、そのまま電話してくれたんだろう、完全に寝起きの声だった。
「おはよ、LINE見たよ。お店のことは心配しないで。おばーちゃんは、大丈夫?」
 廊下に出て、小声で話す。
「あんまり、いや、だいぶ大丈夫じゃないんだ。ずっと泣いてて、ご飯もいらないって」
「そうか…そうだよね。レオも、大丈夫?びっくりしたし、おばーちゃんのことも心配だよね。こんな時にお店のことまで気回して」
「いや、俺は大丈夫だけど…きついよね。アケミさん、良くしてくれてたし」
「そうだね、俺も可愛がってもらってたから…。俺、今日店終わったらそっち行くよ。二人とも心配だから」

そんなこと、悪いよって言いたかったけど、やっぱり俺も動揺してた。アケミさんが亡くなったこともそうだけど、一番身近な保護者である、ばあちゃんの様子に。動揺し、不安で、誰かに頼りたかった。
「うん、申し訳ないけど、そうしてくれたら、すごい助かる」
「全然申し訳なくないから。こういう時大人が助けないでどうすんの。昼間も行きたいところだけど、予約詰まってるから、ごめんね」
「いや、大丈夫、十分だよ」
「カーテン開けて、ちゃんと部屋明るくしてね。何か買ってくものあったらまた連絡して」
「うん、ほんと、ありがと」

 電話を切って家の中を見渡す。確かに薄暗かった。厚いカーテンを開ければ、俺らの気持ちと全く関係なく、夏の真っ青な空が広がっていて、アケミさんがこんな晴れた日に空に逝くであろうことがせめてもの救いのような気がした。

 夜、たっちゃんさんの店の閉店10分後ぐらいに、たっちゃんさんがうちに来た。早めに閉店し、クローズ作業も急いでやったか、あるいは持ち帰って、すぐに来てくれたんだろう。おばーちゃん、冷蔵庫失礼するね、と言って、中をひと通り見て、肉や魚は冷凍室に移した。そして、買ってきたうどん玉と油揚げ、冷蔵庫の白だしとネギで、きつねうどんを作ってくれた。ばあちゃんには、小どんぶりに少しだけよそって、
「おばーちゃん、食べられる分だけ食べてね。残してもいいから、でも少しだけでもお腹に入れて」
「ごめんねぇ、たっちゃんにまで迷惑かけて」
「何言ってんの、いつも俺が世話になってばっかじゃん」
 そして俺にはこっそり
「唐揚げあるから、あとで食べな。お惣菜だけど。レオ足りないでしょ、うどんじゃ」
 甘く煮たお揚げは、おいしかった。

 ばあちゃんが寝た後、唐揚げを食べながら話した。
「たっちゃんさん、何でも出来るんだね」
「や、何でもはできないよ?!出来ることだけ!」
「十分でしょ。ありがとう、こんなにしてもらって」
「いーのいーの、おばあちゃんにもレオにも世話になってるし、お隣さんじゃん。何かあったら助け合うもんよ」
「明日は、大丈夫だから」
たっちゃんさんが心配そうに、ホントにー?遠慮しないでよ?と言う。でも、いつまでもたっちゃんさんに頼るわけにいかない。それに、こうするのが筋だ、と思って、俺は連絡をし、来てもらうことにした。俺の母親に。

「母さんが来るって」
「あ、そうなんだ!それなら安心だね。お通夜、18時か。ギリ間に合うかちょっと遅れるかだなぁ。レオのお母さん来てくれてよかったわ。付き添ってくれるでしょ」
「あーまあ…葬儀場まで一緒にタクシーには乗ってくれるかも」
もしかしたら、タクシーに乗せるとこまでで、行ってらっしゃいと見送られるかもしれない。
「そっか。お母さんは直接アケミさんと付き合いはないもんね」
「それもあるけど。ばあちゃんと母さん、仲イマイチだから」

 おっとりしたお嬢さん育ちのばあちゃんは、お嬢さん育ち故の威風堂々っぷりで、親の意向に逆らって進路を決め、親の意向に逆らって外国人の夫と結婚し、あっさり離婚した母さんのことを、完全に持て余している。
 そして、俺が高校辞める・辞めないの話し合いで、ばあちゃんと母さんは大分やり合った。ばあちゃんが俺をここに呼び寄せるという結論に、母さんが納得行っている様子は微塵もなかった。
「へえ。レオのお母さんってどんな人なの」
「強め、かな」
「強め、かぁ……レオに似てるってことか」
「ちげぇよ」
 自分の部屋に戻って、電気を消して横になってもなかなか寝付けず、特に見たいものも知りたいこともないのにスマホを触ったり消したりを繰り返した。

 翌日朝8時、母親がやって来た。玄関ドアが開く音がした後、大声で
「入るわよー」
と言うのと同時進行で廊下の足音が響き、ばーんとダイニングのドアが開いた。俺とばあちゃんはこの、黒い背景に太め明朝体で「母、襲来。」と書かれているような登場の仕方にすっかり慣れ切っているけど、たっちゃんさんは目玉焼きを箸でつまんだまま固まっていた。ピッタピタのサマーニットのロングワンピースに、蜂の目のようにでかいサングラスをかけた母親が仁王立ちしている。

 たっちゃんさんが、ハッ、として立ち上がり
「お邪魔してます、私、お母さんとレオ君と仲良くさせていただいてます、佐藤です」
と言った。俺がパンを齧りながら
「たっちゃんって呼んでよ」
と付け加える。
「玲央から聞いてます、ご迷惑おかけしてすみません」
サングラスでワンレングスの髪をかき上げながら言う。
「いえいえ、こちらこそ上がり込んじゃってて」
 恐縮するたっちゃんさんに構わず母親が言う。
「お母さん、気持ち分かるけど、よその方にお世話になる前に、玲央に連絡させる前に、さっさと自分で報せて」
「あのでも、お母さんすごく落ち込んでたので…」
「とりあえずしばらく、私いるから。玲央1人には任せられないし」
相変わらずたっちゃんさんには目もくれず言った。
「玲央、あんた葬儀参列するの」
「あ、うん、そのつもりだけど」
「そ、喪服持ってきたから。あと革靴も。ごめんね周到で」
落ち込んでいるばあちゃんは、一言も喋るスキがない。でも、平常時でもそういう調子だ。

たっちゃんさんは、朝食もそこそこに急いで布団を干し、身支度をして、また連絡するね!と言って帰っていった。あんなに世話になったのに、追い立てたみたいで申し訳なかった。
「あの人、どなた」
「ばあちゃんの店のお隣さん」
「すんごい柄入ってんね。仲良いの」
「彫師さんだからね。おばーちゃんの力仕事手伝ってくれたり、俺も編み物手伝ってもらってる」
え、と母さんが目を見開く。
「編み物手伝うってどういうことよ。編めるのあの人」
「いや、今フェアアイル編んでて。色選びとか、編地のチェックとか」
「へー、大分親切ね。そんなめんどくさいこと」
「そう、親切」

 母親がどかっとリビングのソファに座り、ばあちゃんはようやく口を開く。
「さやか、あなた、仕事は」
「在宅よ在宅。まぁ結構調整しましたけど」
「忙しいなら、無理しなくて良かったのよ」
何のために無理してると思ってんのよー、と言って、母親は台所に向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出した。湿気った空気がさらに重たくなる。勘弁してくれ、俺はさっさと部屋に引き上げたいが、ばあちゃんの気持ちを考えるとそうもいかない。何か間を持たすことを言いたいけれど、都合が悪ければだんまりを決め込んで生きてきた俺には、全く思い付かない。
「二階の部屋、使うわよ。仕事してるから、何かあったら呼んで。昼前に食材買いに行くわ。玲央荷物持ち頼むわよ。お母さん喪服どこ。吊るしとかないと、箪笥の匂いするかも」
「え、ばあちゃん一人にして…」
「子供じゃないんだから。お母さんも、ちょっとは一人になりたいでしょ」
ばあちゃんがため息をついて口を開いた。
「何でも一人で決めないでちょうだい」
「じゃあしっかりしてよ。決められそうにないから言ってんの」
「やめろよ、ばあちゃんの気持ち考えろよ。つか、母さん来てからみんな変な空気になってるから」
「はぁ?!呼んだのあんたでしょ。ほぼほぼあんたの為に来てんのよ?」
確かに、俺が呼んだし、俺の力不足のせい。何も言えない。母さんは、さすがに言い過ぎたと思ったのか、気まずそうな顔をしたが、何でもなさそうな口ぶりで「仕事してるから」と再び言い、二階に上がっていった。
「レオ、本当にごめんね、おばあちゃんがしっかりしてないから」
「そんな事ない、急にお友達亡くしたら、落ち込むに決まってるよ」
亡くした、と言ったのがまずかったのか、またばあちゃんは泣き出してしまった。俺は本当に、何も出来ない。

 意外にも母さんは、お通夜に参列した。
「お母さんが世話になったんだから、別に普通でしょ」
と言って。20分遅れでたっちゃんさんが来た。いつもハーフアップの髪を全部きっちり束ね、喪服を着ていた。
読経が終わり、お焼香が始まって、親族の中に知った顔があることに気が付いた。真っ黒なロングヘアを、たっちゃんさんと違って前髪を残し、きっちりとポニーテールにした、俺が通っていた高校の制服を着た女の子。あれは確か、川辺ルイ。いや、確かじゃなく、確かに、川辺ルイ。相変わらずスンとした顔で、鹿のようにキュッとした目で、まっすぐ前を見ていた。あいつこういう場でも動じないんだな、と思った。

「レオ」
 式が終わり、ばあちゃんと母さんがトイレに行っている間、ロビーで一人座っていたら、たっちゃんさんに声をかけられた。俺は物凄くホッとした。一日中重苦しい空気の家に居て、そのままお通夜に来ていたから。
「間に合ったんだね」
「結構遅くなっちゃったけどねー」

たっちゃんさんの肩越しに、川辺ルイが歩いて来るのが見えた。そして目が合った。やべ、と思った。
「市原君、来てくれてたのね、お久しぶり」
 全く驚いた素振りがなく、スンとした顔のままだった。
「久しぶり…アケミさんは、常連さんだったから」
「そうみたいね、おばあちゃん、よく話してたわよ君のこと」
「え、そうなんだ」
「じゃあ」
去りかけて、ふっと振り返った。
「近いうちに、行くと思うから。お店。よろしくね」
 ばあちゃんに挨拶でもしに来るんだろうか、でもなんで川辺ルイが一人で。考え込みながら後ろ姿を見送っていたら、たっちゃんさんに
「レオ、知り合い?」
と聞かれた。
「中高の同級生」
「そうなの?!あの子アケミさんのお孫さんでしょ?世間狭ー…」
「そうだね」
「あんまり関わりはなかった感じ?」
「いや、中学で同じ部活だった」
「マジ?だいぶよそよそしいけど」
「クラスも部活も一緒でも、全員仲良い訳じゃないだろ」

 思いがけず棘のある声になって、うわ最悪だ、と思った。小さく、ゴメン、と言った。
「いいよ、別に。レオ、疲れてるんでしょ」
 たっちゃんさんは苦笑いしていた。その通りだ。同じ家で家族同士がピリピリし合っている、全く気が休まらない。

「レオ。俺んちに逃げてきてもいいぞ」

「えっ」
「お母さんとおばーちゃん、ギクシャクしてんじゃないの?狭い部屋ですけど。お母さんの許可は取ってきてね」
「でも、ばあちゃん置いては」
「レオ。お母さんとおばーちゃんの関係は、二人の責任だ。レオが無理することはないよ。まぁ人んち泊まるの苦手とかなら全然、無理強いしないよ」
いや、泊まらせてもらえるなら、あの家から一時避難させてもらえるならありがたい。でも、あの二人の関係が良くないのは、俺のせいでもある。
あら、今朝の、と言って母さんが近づいてきた。

「佐藤さん?ずいぶんお世話になりまして、ありがとうございます。またお店にお礼に伺いますから」
「いえ、お構いなく…あの、今レオ君と話してたんですけど」
「俺明日から2~3日この人んちに泊まるから」
「は?」
「あら…」
「ちょ、レオ…あー、あの、まぁお友達みたいなものなので、ちょっと気分変えてって」
「お友達だよ。友達んちに泊まりに行くだけだけど、なんか問題ある?」
たっちゃんさんが市原家のど真ん中で誰よりも困惑し気を使っている。
「レオー、やめてー…うーん、こんな感じでお宅でもちょっとピリピリしてるんじゃないかなって思いまして。差し出がましいですが」

「そう…そうね、たっちゃんありがとう。レオもよく知った方が亡くなって、ショックなのに、おばあちゃんにまで気を使ってくれて、ごめんね。」
 母さんが大きなため息を吐いた。
「別にいいけど、玲央、勝手に決めないで頂戴」
「ごめんね、誰に似たのかな」
「もおー、レオー」
 たっちゃんさん可哀想。俺のせいだけど。

 ばあちゃんが寝て、リビングで母さんと二人きり、になりそうだったから、さっさと二階に行こうとしたら
「冷蔵庫に桃あったわ。早く食べないと傷んじゃうし、デザート食べましょ」
と言われた。桃は好きだけど、全然食べたくない。全然食べたくないけど、これ以上口論もしたくないので、無言でソファに留まった。
「しばらく会わないうちに、ずいぶん喋るようになったね、相変わらずの生意気口だけど。こっち来て、良かったみたいね」

 母さんと俺は、元々すごく喋る訳でもなかったけど、険悪でもなかった。一緒にテレビ観て笑うこともあったし、編み物をして分からない所があれば聞いた。連日深夜アニメを観ていたら普通に叱られていた。
でも俺が高校を休み始めて2ヶ月くらいの間は毎日口論になっていた。そしてその時期を過ぎたら、ほとんど口を利かなくなった。毎日顔を合わせるのは母さんだけで、俺は、ほぼ喋らない数ヶ月を過ごしていたことになる。

 ハイどうぞ、と言って俺の目の前に桃の入ったガラスの器を置いた。
「…めちゃくちゃ美味しいわね」
「…めちゃくちゃうまい」
 ほぼ同時に言って、うわ、と思ったけど、なんか口角が上がってしまった。

「こんなシンプルなことで久々に笑顔見るとはねー」
 母さんも笑ってた。久々なのはお互い様だった。
「呼びつけて、ゴメン」
「何でゴメンなの。来るでしょ、流石に。玲央が私に助け求めるなんてよっぽどでしょ」
 まぁそれ抜きにしても来るわよ、と続けた。
「楽しそうにやってるみたいね。初日に一緒にお出かけしてくれたたっちゃんってあの人ね」
「え、なんで知ってんの」
「お母さんから聞いてたわよ、私たち2~3日に一回はやり取りしてたから。玲央通信ってやつ?」
「えー…」

 だるいしうざいし恥ずかしい。でも、俺はまだ「保護者」される立場だということも実感し、悔しいが安心もした。
「おかげさまで、割と普通にお母さんとやり取りするようになったわ。ありがと」
「仲、悪くさせたの、俺だけど」
「はぁ?そんなこと考えてた訳?あんたこういう時に持ち前のふてぶてしさ発揮しなさいよ。あんなの大人の都合に決まってんでしょーよ」
 桃に目を落として、母さんがため息をつき、悪かったわね、と言った。

「お友達、出来たのね。まぁお兄さんに優しくしてもらってるって感じだけど」
 それはそう。あの場では友達だと言ったけど、たっちゃんさんも「お友達みたいなもの」と言ったし、俺自身も、たっちゃんさんの優しさに甘えてるだけだと思っている。ただそれを母さんに言われるのは癪だ。

「うるせぇな、これから友達になる」
「おっ、言い返した!絶対だんまりののち、桃食べたのち、皿片付けて二階へ退避かと思った。いい生意気になってきたじゃん」
 もっと癪なリアクションをされた。黙っときゃ良かった。
「私とお母さんの玲央君再生計画も成功ねー」
「息子のこと駅前みたいに言うな」
「えー例えツッコミするようになってるぅ」
「うっせ」

 桃を食べ終わった後、母さんが皿を洗いながら
「今何編んでんだっけ」
 と聞いてきた。
「テーブルランナーと、あと、フェアアイルのベスト」
「ああ、言ってたね。ちょっと見せなさいよ」
 二階に置いていた編みかけのテーブルランナーとベストを持ってきた。
「おーおー、だいぶ細かいの編んでるわね。毎日やってたら流石に上達するでしょ。テーブルランナー、もう自分でモチーフ考えられるんじゃない?」
「まあ、そうかもね」
「模様編みのパターン集、送ろうか」
俺も持っておきたいと思ったから、タイトルだけ聞いて、スマホのメモに打ち込んだ。
「フェアアイル、あそこ行ったの、国立の店」
「よく分かるね」
「ここから一番近くってなったらあの店しかないでしょ。私も高校時代行ってたわよ。え、あそこまで一緒に来てもらったわけ?たっちゃんに」
 母さんもいつの間にかたっちゃん呼びになっている。
「そうだよ。わざわざ。会って1ヶ月しないくらいだったのに」
「はー。ほんとお礼しないとだわ。色も良いわね、ちょっと懐かしい感じ」
「クレヨンみたいな緑と、日本的な赤って言ってた」
「ああ、ほんとそんな感じよ。はっきりしてるけど落ち着く」

 好きな物を介してなら、普通に話が出来る。人付き合いに器用じゃない母さんと俺が、どっちもニットが好きで良かった、と思った。

 翌日の20時ごろ、荷物を持ってたっちゃんさんの店に行った。
「おーいらっしゃい。ちょっと待ってて。あ、晩ごはんラーメンでいい?ていうか俺、もう朝からラーメンの口になってるからラーメンにさせて」
「いいよ、こってり系飢えてたから…ねぇ、気使ってる?」
「レオ、最近自分が気使って、俺にも気遣われたから疑心暗鬼になってるね?普通に食べたいだけだよ」
 本当かな、と思ったけど、友達の第一歩は気を使わないことと、信じることだ、多分。店から3分ほど歩いたところにあるラーメン屋に行った。
「ここ、来たかった」
あるのは知っていたけれど、昼も夜もばあちゃんが作ってくれるし、食べる隙がなかった店だ。
「おお良かった。美味しいよ、すごい濃いけど」
 たっちゃんさんの言う通り、背脂ががっつり入ってて、チャーシューも分厚くて、味も濃く、めちゃくちゃ健康に良くなさそうですごく旨かった。
「替え玉したい」
「さすがだねー、レオ細いけどよく食べるよね。まぁ俺も食べるけど」
「たっちゃんさんもうこういうのキツいんじゃないの」
「おっさん扱いしないでよー、俺まだレオ側だと思ってますけど」
「それは違うね」

 腹いっぱい食べて、たっちゃんさんのアパートに行った。広くはないけど外観がきれいで、中もきちんと片付いていた。
「普通に片付いてるね」
「若干がっかりしてない?俺こう見えても几帳面ですから」
 たっちゃんさんが俺の部屋に来た時みたいに、本棚を端から見ていく。洋書の、タトゥーの写真集がたくさんあって、逆に日本語の、タトゥーじゃなく「刺青」って感じの写真集もあった。
「鳥の本ないじゃん」
「え?」
「好きなんでしょ、鳥。全然ないね鳥の本」

 あー…と言うたっちゃんさんを見ず、また棚を物色していった。棚の上の写真立てと、花が目に入った。単独でも分かるくらいにすごく背の高い少年が舌を出して、腕をだらんと下げてピースをし、入学式の看板を挟んでもう一人、少年の肩くらいの身長の、黒目がちで笑顔が人懐っこい、ちょっとかわいらしい感じの男性が、スーツを着て立っていた。
「これ、たっちゃんさん?」
「あ、うん、俺」
「高校の入学式ってこと?俺の一個下?すごいね、ずっとでかい」
「まーね、小学6年生の時点で170センチあったし」
「このへんの高校なんだ」
「そう、ここが地元。レオ、先に風呂先入りなよ」

 これ誰、と聞く間もなく追い立てられた。風呂から上がり、たっちゃんさんが風呂に入っている間にもう一度写真を見ようとして気づいた。これは、遺影だと。写真の横の一輪挿しに小さな花と、スティックタイプのお香。よく周りを見ず、突っ込んだことを聞いてしまった、と思うと、さっきのラーメンが腹の中で氷に変わったように、身体中ひやりとした。俺は本当にガキだ、嫌になるくらいに。
 たっちゃんさんの足音が聞こえてきて、慌てて身体を180度回転させてその場に座った。

俺が持ってきたまりマギの映画版を観た。たっちゃんさんは相変わらず
「あぁぁ…まりか……って嘘おおお!」
 と、模範的視聴者をやっていて、俺は自分が制作スタッフかのように満足した。
「あー、ちょっと放心状態かも…すごい、誰かに話したい。リサさんに連絡したい、すごかったですって」
「中野ブロードウェイ行く前に見せたらよかったね」
「ほんとそうだ、絶対もっと楽しめてた。ねえまた今度行こう」
そう言って布団を敷き始めたたっちゃんさんを見て、これはもう友達だろ、理由なく遊びに行く約束するのは友達だろ、と内心ほくそ笑んでいた。

「レオ布団とベッドどっちがいいー?」
「布団かな。ちゃんと客用布団あるんだ。ソファとかで寝ると思ってた」
「なきゃ誘いませんよ。友達泊まったりするしね」
「たっちゃんさん、友達、居るんだ」
「俺27年生きてるのよ?居るでしょ友達」
 俺は、たっちゃんのたくさんいる友達のうちの一人なのかと思うと、さっきの嬉しさがしぼんでいった。反射的に、どこで出会ったの、と聞いてしまった。
「え…それ友達についてする質問?高校の同級生とか、兄弟弟子とか」
「弟子?」
「タトゥーの。同じ店で修行してた人ってこと」
 ついでに、ふーん最近いつ泊まりに来たのその人たち、とひと息で聞きそうになったけど、客観的にめちゃくちゃ怖いし、明日泊めてくれなくなりそうだと思って堪えた。
 たっちゃんさんの友達は大人だから、この部屋に来ても俺みたいに、無神経にあの写真に触れたりしないだろう。だからあそこに、隠すことなく飾ってあるんだ。

 おやすみー、と言って電気を消した後、すぐには眠れそうになくて、ねぇ、起きてる?と声を掛けた。
「寝てまぁす」
「すげーベタ。縄文時代からあるやつじゃん……ねぇ、たっちゃんさんはさ、何で俺と仲良くしてくれるの」
 まあ、だいたい想像は付いてる。ばあちゃんが、仲良くしてあげてとか言ったんだろう。
「おばーちゃんに、うちのとっても可愛い孫が来るから、弟みたいに可愛がってって言われたんだよ」
「あーあ、予想通り」
「あっ、拗ねた。でも、レオをうちに泊めるとか、フェアアイル一緒に編むとかは絶対おばーちゃんの想定外でしょ」
 それは、確かに。俺だって、こんなに親切にしてもらえるなんて想定外だった。
「じゃ、何で想定外に優しくしてんの」
 えーそれ理由いるー?と言いながらも、答えてくれた。

「初めて会った時さあ、すごい俺に警戒してピリピリしてたのに、ニットの話になったら急にイキイキして目キラキラさせてたじゃん。あれが可愛いなーと思って。もっとあんな感じで楽しそうにしてる顔見たいなと思ったんだよ」
 凄くまっすぐな答えで、ひるんだし、緩んだ。電気消えてて、良かった。

せっかく質問に答えてくれたのに黙っていたら、たっちゃんさんが話を変えて
「昨日は帰ってから大丈夫だった?みんなピリピリしてなかった?」
 と言ってきた。
「母さんと一緒に桃食って、編み物見てもらった」
「えっ、すごい仲良しじゃん!別におばーちゃんちで良」
「来たらダメだったの?」
食い気味にめちゃくちゃ怖いことを言ってしまった。一瞬間があって、たっちゃんさんが大きな声で笑った。
「全然、ダメじゃないよ。ようこそわが家へ」
「明日も泊まるから、もう親にも言ってるし」
「だから良いって。明日晩飯どうしようかねー」
「ハンバーガーか牛丼」
 俺はジャンクに飢えていたことを実感した。

「そういえばさぁ、レオのお母さんほんとレオに似てるねぇ」
「は?俺あんなに圧ないから」
「いやその感じその感じ。その百獣の王みたいな感じよ。ていうか顔立ちのこと言ってたのに。まぁ似てても良いじゃん。俺は…」
 言いかけて、たっちゃんさんが黙る。
「いや、何でもないわ」
「え、何。言ってよ」
「いやー、いい歳して、言うことじゃない」
「何で。話してよ」
 友達じゃん、とサラっと言いたかったが、大縄跳びに入りそびれたみたいになって
「俺ら…トモダチ…」
 とだけ呟いた。
「レオ、言い慣れてないんだね。宇宙人みたいだったよ」
「ほっとけ」

「でもそうだね、友達だもんね」
 ちょっと笑った後、
「俺はさ、自分が誰に似てこんなに背高いのかも分かんないからさーって、言いそうになったの」
「ああ、そういう…」
「ほら、気使わせるでしょ」
 気なんか使ってない。気を使わないのが、友達の第一歩だから。それを証明しなきゃと、急いで言葉を呼び出した。
「いや、でも、お母さんじゃないんじゃん?ここまで背高いお母さん居ないでしょ」
「はは!確かに!スーパーモデルだぁ」
「スーパーモデルの息子だったら、それもまたいいじゃん」
「夢があるなぁ。今頃ランウェイ歩いてるのかなー」
「流石にもう引退してるんじゃないの?」
「いや、息長いモデルさんもいるよ」
 俺の拙いフォローでも、笑ってくれて良かった。

「たっちゃんさん、俺、生まれたばっかの頃から、何なら腹の中からふてぶてしかったらしいよ」
「そんなのある?」
「ある。エコー撮ろうとすると毎回顔隠すし、内臓痛いぐらい腹蹴るし、産まれたら産まれたで離乳食ぶん投げるし。この母譲りの性格、変わってないって、母さん本人から言われる」
「やっぱ似てる自覚はあるのね」
癪だけど、やっぱり俺は母さん似だと思う。父親の性格よく知らないけど。
「だから、まあ。分かんないけどさ。たっちゃんさんのお父さんかお母さんは優しい人なんじゃない」

 言った後、すごく無責任な言葉だったと思った。どういう事情でたっちゃんさんに家族が居ないのかも分かんないのに。
 でも、たっちゃんさんは
「レオ今日優しいね、ありがとう」
と、穏やかに言ってくれた。俺が今日優しいのは、この部屋に居るからだ、と思った。

 翌朝、
「レオ、ほんっと鼾うるさい!よくそのお綺麗な顔であんな騒音出せるね、何かの間違いかと思ったよ」
と、人生で何度か受けたことのあるクレームを言われた。
「今日も泊ま…ってくれるんだよねぇ。あー神よ、レオの副鼻腔を広げ給え…」
また、しょうもないことで神が呼び出された。神はきっと、耳鼻科かドラッグストアの方角に杖を向けているだろう。

 三日後、母さんが実家に帰る前に、二人でたっちゃんさんの店に挨拶に行った。
「本当に、何から何までお世話になりまして」
「いえいえ、大してお構いできませんでしたが」
 大人たちが挨拶しているのを見ながら、あ、今言っとかなきゃ、と思った。

「母さん俺この人とスコットランド行くから」

 二人とも固まった。
「レオそれ今じゃないしすごい語弊あるかも、言葉足りてないかもー!」
「え、何、どういうこと、留学でもすんの?!」
「ほらぁ…」
「いや、ただの旅行。フェア島、行くから」
「えっ、いつ」
 眉間に皺を寄せる母さんを見て、たっちゃんさんが物凄く焦っている。
「いやすみません、全然何も決めてませんから!行けたらいいねっていう話してただけで」
「行くって言ったじゃん」
「行くときは一緒に行くよって言っただけだよー……」
「何、そういう話?ニット紀行したいだけ?まぁいいけど、早めに教えてよ、お金のこととかもあるし。素人だけじゃ全然分かんないだろうから、あっちに住んでる大学の同期にガイド頼もうか」

 あっさりと言われて拍子抜けした。
「いいんだ。嫌じゃないの」
「何でよ、別にいいんじゃない、旅行行くくらい」
「…エディンバラに泊まると思うけど」
 俺の父親はまだ、エディンバラに住んでいるはずだ。
「何よーそんなの気にしてたの?いい、いい。会いたきゃ会ってもいいわよ」
「会いたくない。全然」
「そ。でも何でたっちゃんがアテンドするの」
 まぁ、そう思うよな。俺もよく分からないし。
「鳥好きらしいよ」
「嘘、意外。ていうか嘘じゃない?」
「嘘っぽいよね」
「おふたり、やっぱり似てますね…嘘じゃないですし、行くとなったらちゃんと、責任持って同行しますから」
「ああ、まぁ、そうですね、一人で行かせる訳には行かないし。ガタイ良い人が付いてるほうが安全だし…でも、何かよく分かんないって言うか、鳥好きって言うのは嘘っぽいけど。本当に行くってなったらまた改めて」

 たっちゃんさんは終始苦笑いしていたけど、俺なりのネゴシエーションは成功した。母さんが「ここでいいわよ」と言って駅に向かった後、たっちゃんさんが
「レオほんとさぁ…一言言っといて、すごい焦るから。俺やばい奴みたいじゃん」
「交渉事は先にでかいこと言ってビビらせた方が良いって聞いたことあるから」
「こっちサイドまでビビらせないでよぉ。まぁでもよかったね、行けるんじゃん。すぐ行きたいの?」
「いや、まだ」
俺はフェアアイルを完成させて、その大変さを理解し、達成感と共に島に向かいたい。たっちゃんさんはイマイチピンと来ていない顔をしていた。でも俺だって、たっちゃんさんが同行したい理由にはピンと来ていない。俺たちは多分友達だけど、まだ腹を割り切っていない、きっと。




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