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不平等という平等

春休み。学生は卒業を迎えて旅行シーズン。友達と一緒に空港へ。どこかたびに出かけるのだろう。とても楽しそうだ。待合室の会話も盛り上がっている。でも、僕は、重い重い利害調整の仕事。同じ時間に真逆の人が同じ空間にいる。これは果たして神のいたずらか、試練か、不平等か…。

1,「不平等」に目が行く

人間はどうしても「相手の羨ましさ」や「他人の楽しさ」と比較してしまいがち。どっちがいいとか悪いとか、運がいいとか悪いとか、そんなことを比較してもしょうがないのだけれど、それでも「隣の芝生は青い」の如く、人は目がいってしまう…。

「ああ、いいな」とか「うれやましいな」と心の中でつぶやく分にはまだいい。それが、「そんなことしてもつまらない」「いま努力すべき」などと相手に対してなにか行動や在り方を強要するようではどうしようもない。

ましてや、楽しそうな事柄を遮ってまで自分の主張をするような人も、SNSでは増えているように思う。

自分の処遇と比較して、他人がよく見えるのは、よくあることだ。そんな気持ちの余裕さえ持てなくなっているからこそ、不遇はやってくるもの。

環境が悪い、親が悪い、運勢が悪い、相手が悪い、組織が悪い、友人が悪い…これらをチェックリストのように掲げて、いったい何がいいのだろう。なにが生み出せるのだろう。なにがよくなるのだろう。

すべて「SNSの副産物」のような気がする。かんたんに華やかな世界や他人の幸せを目にすることが出来るような時代。でも、インスタなどで「映える」といっても、不幸や悲しみをどんどん「映える」ようにすることはないだろう。つまり、SNSがもたらした不幸とは「いい局面だけの見え方」だけに偏らせてしまったことにある。

だから、現実世界をみればいい。ネットは異常。片方しかない。いいも悪いもあってこその世界。ネットからスマホから離れて、街中を見渡せばいい。石に躓く人もいる。何かを落として割ってしまう人だっている。隣近所の夫婦喧嘩が聞こえる。ほら、そうやって、どんな人にも「不」は訪れているのだから…。

2、「見る」より大事な「感じる」こと

では、そんな「人のいい面」ばかりが先に見えてしまう世の中で、心の平穏を保つためにどうしたらよいか。それは「見る」のではなく「感じる」ことである。

あなたが「どんなものを見たか」で、社会を判断するのではなく、「どんなふうに感じたか」がすべてにおける基準。

喜怒哀楽はまさに其の基本であり、何か起こっている事柄に、どんなふうにあなたのこころは感じただろうか。

もしかしたら、大切に一緒に過ごしたペットが突然亡くなってしまって、「悲しい」と感じているかもしれない。それは、積年の時間が積み重ねてきた楽しさの分だけ、其の一瞬の悲しみは「深く」なる。外から見れば、一瞬の出来事かもしれないが、飼い主にとっては、程度は軽く日毎になっても、心の中のぽっかり空いた穴は、そうかんたんに埋まるものではない。

外見には楽しそうにしていても、内面には深く、心に刻まれた悲しみがずっと其の先の人生も支配するかもしれない。それでも、そうした「ココロの声」をちゃんと受け止めることから、「生きる」ことと「生き続ける」という柱ができるものだと思う。

だから、楽しさなんて一瞬で消えるかもしれないし、悲しみ、苦しみは、訪れた後は長くそして、深く、人に影響する。「見た目」ではなく「感じ方」が大切なことは、そうした「自分自身」を否定しないことであり、そして、それは「誰もが起こりうること」としてみれば、「他人にもきっと何か抱えるものがある」と気づくことができるということ。

SNSの華やかさなど、タイムラインで一瞬で消えていく。其の人に楽しさだけがずっと続くわけではない。長い苦しみの末に得られた「華やかさ」かもしれないし、華やかさの裏側で「深い悩み」を抱えているかもしれない。

そうした、人間の両面を想像することは「見る」ことではできない。生身の人間とのやり取りや行動から「感じる」ことでしかできない。そして、それは「触れないこと」が相手にとってのやさしさかもしれない。

「言葉がすぎる」とは、相手の内面を、誰もが見える「文字」という形にし、伝播可能な状態にしてしまうということ。だからこそ、SNSという電子的な空間は、気軽なプライベートのように使うと、相手にも自分にも、痛い目に合う。

SNSによって生み出された「映える」という言葉が、私達の「感じる」という大切なことを忘れて、人間としての感性をも低下させてしまったのではないか、とタイムラインを「見ながら」ついつい「感じて」しまうのです。

人は「見る」ものではない。心で「感じる」ことで、通じ合うものです。


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